伝言板
[HOME] [掲示板]
1〜30 31〜60 61〜90 91〜120 121〜150 151〜180 181〜210 211〜240 241〜270 271〜300 301〜330 331〜360 361〜390 391〜420 421〜450 451〜480 481〜510 511〜540 541〜570 571〜600 601〜630 631〜660 661〜690 691〜720 721〜750 751〜780 781〜810 811〜840 841〜870 871〜900 901〜930 931〜960 961〜990 991〜1020 1021〜1050 1051〜1080 1081〜1110 1111〜1140 1141〜1170 1171〜1200 1201〜1230 1231〜1260 1261〜1290 1291〜1320 1321〜1350 1351〜1380 1381〜1410 1411〜1440 1441〜1470 1471〜1500 1501〜1530 1531〜1560 1561〜1590 1591〜1620 1621〜1650 1651〜1680 1681〜1710 1711〜1740 1741〜1770 1771〜1800 1801〜1830 1831〜1860 1861〜1890 1891〜1920 1921〜1950 1951〜1980 1981〜2010 2011〜2040 2041〜2070 2071〜2100 2101〜2130 2131〜2160 2161〜2190 2191〜2220 2221〜2250 2251〜2280 2281〜2310 2311〜2340 2341〜2370 2371〜2400 2401〜2430 2431〜2460 2461〜2490 2491〜2520 2521〜2550 2551〜2580 2581〜2610 2611〜2640 2641〜2670 2671〜2700 2701〜2730 2731〜2760 2761〜2790 2791〜2820 2821〜2850 2851〜2880 2881〜2910 2911〜2940 2941〜2970 2971〜3000 3001〜3030 3031〜3060 3061〜3072

議員をやってみて お名前 玉井彰 2002/11/15(金) 00:05:53 [No 360]

市議会議員になって3年9ヶ月。様々な体験をしました。自分としてはよくやったと思っています。本は相当買いました。自分への投資もかなりやりました。

しかし、世の中を変えるには程遠いように思います。一議員には議会で一票しかありません。議員の世界は従来の感覚に慣れ親しんだ人が多数であり、意識改革はほとんど不可能です(死ななければ直らない)。議員の入れ替えしかないというのが実態です。

ところが、新しい感覚の人が大量に立候補しても、その人達の間での票の取り合いが起こるだけであり、古いタイプの議員の方が選挙では勝ってしまいます。

志のある人が議員になるのではなく、票の取れる人が議員になるという現状を打開したいと思います。「票」を与える「共犯者」は誰か。嫌われても、この問いかけをしたいと思っています。



来週初めまで更新できず お名前 玉井彰 2002/11/16(土) 00:03:21 [No 361]

来週の初めまでは更新が出来ません。伝言板は機能しています。



平成30年 お名前 玉井彰 2002/11/16(土) 22:10:56 [No 362]

今、堺屋太一著「平成三十年」を読んでいます。下巻に入りました。話は平成29年から始まります。「改革」を連呼しながら官僚主導体制を克服できず低迷を続ける日本が舞台です。

15年後というと先のようですが、振り返って15年前の昭和62年からの15年はあっという間に過ぎたような気がします。これからの15年もあっという間でしょう。

小説は、これから本格的改革が始まるかどうかという場面に差し掛かっています。じっくり読み進もうと思っています。



投票率 お名前 玉井彰 2002/11/17(日) 23:57:40 [No 363]

衆参統一補選での投票率はかなり低いものでした。50%以下の投票率だと、創価学会が動けば自民党は負けません。60%を超えると創価学会の組織票では決まらなくなります。

金沢市長選挙は20%台の投票率でした。このようなものが「選挙」と言えるのでしょうか。「商品」に魅力がないので「消費者」が見向かないというのと似ています。

しかし、有権者が「消費者」と同じ行動パターンでいいのか、ということも俎上に載せるべきでしょう。連続して選挙権を行使しない者に資格を与える必然性はないと思います。



区役所こそが缺陥制度だ お名前 安倍川餅 2002/11/21(木) 18:45:19 [No 364]

 始めまして。玉井氏の意見に概同感です。

 最近のコムーネ名(都市名)の改悪は実に酷いが、その最大の元凶は政令指定都市(=区役所)である。区なんて缺陥制度が在るから、「区役所さえ作れば善いんだ」と云う悪習が生まれる。コムーネ(都市)と県の論議ばかりがなされているが、「区」こそが最大の缺陥制度である事に気付いてもらいたい。
 政令指定病患者の常套句は「区役所が作られて便利になると言うものだが、区とは一体何なんだ?区が絶対的だと言うなら、都市は一体何なんだ?
 くさいたま市の醜悪な住民が「見沼区」で騒いでるが、あんなの醜悪な猿芝居で、区役所至上主義に執着する非常識が丸出しである。醜悪な都市名に醉い痴れ、区でゴタゴタする非常識な住民が、健全な地名感覚など持ってるはずがない。所詮50歩100歩なのである。
 元々「区」なんて不要で、地名感覚を持ってるなら都市名か町名を指すのが通常である。基礎的自治体(コムーネ)とは都市を指すのが自然である。外国の住所表記や世界地図だって、肝腎な名称は都市名と町名であり、殊に都市名である。
 ところが、くさいたま市民や政令指定病患者はそんな常識すら解らないから、政令指定都市(=区役所)なんて云う缺陥制度を信奉する。縦しんば氷川市になっても、「氷川の○○です」と言わないくせに。
 合併や分割の以前に、そう云う悪習の放棄から始まるんじゃないか。コムーネに対してろくに愛着も無いくせに、区に執着する民衆や行政は醜悪であり、非常識である。言わば、「横浜だから善い、清水だから悪い」と云う差別を放棄する事が求められるのである。
 自分の都市名に自信を持ち、都市名を堂々と名乗る。この淳風美俗を壊した元凶は、他ならぬ政令指定都市制度だ。こんな缺陥制度は不要なのである。人口だけで都市を差別し、醜悪な都市名を付ける政令指定病患者や合併至上主義者が、都市名への愛着や健全な地名感覚なんて持ってるはずがない。
 縦しんば人口10万人でも、「サンドニの○○です」「カンヌの□□です」と都市名を堂々と名乗り、自信を持ってるサンドニやカンヌの方が遥に優秀である。人口だけで威張るよりも、都市名に自信を持つ方が善い。求めないで区役所なんか、スノッブたちの辯解(いいわけ)だから。

http://www.h4.dion.ne.jp/~abekawa/comune.htm
「コムーネ潰しに反対する」



区役所こそ缺陥制度だ (訂正版) お名前 安倍川餅 2002/11/21(木) 19:36:16 [No 365]

(※管理人様へ 実にすみませんが、364に不適切な表現が有りましたので、364を削除して下さい。)

 始めまして。玉井氏の意見に概同感です。私は、自治やコムーネの興隆には、都市差別を廃止する事が絶対に缺かせないと思います。

 最近のコムーネ名(都市名)の改悪は実に酷いが、その最大の元凶は区役所(=政令指定都市)です。区なんて缺陥制度が在るから、「区役所さえ作れば善いんだ」と云う悪習が生まれる。コムーネ(都市)と県の論議ばかりがなされていますが、「区」こそが最大の缺陥制度である事に気付いてもらいたい。
 政令指定都市信奉者の常套句は「区役所が作られて便利になると言う内容ですが、区とは一体何ですか?区が絶対的だと言うなら、都市は一体何なんでしょうか?都市の威厳を削ぎ、風土感覚を狂わせ、スノッブ根性を鼓吹してるだけではないですか?区なんて余計な機関を作ったら、ムダと混乱が余計に煽られるだけです。
 さいたま市の住民が「見沼区」で騒いでいますが、あれは醜悪な猿芝居で、区役所至上主義に執着する非常識が丸出しです。醜悪なひらがな都市名に醉い痴れ、区でゴタゴタする非常識な住民が、健全な地名感覚を持ってるはずがありません。
 元々「区」なんて不要で、地名感覚を持ってるなら都市名か町名を指すのが通常です。基礎的自治体(コムーネ)とは都市を指すのが通常です。外国の住所表記や世界地図だって、肝腎な名称は都市名と町名(殊に都市名)で充分であり、区や県は要りません。
 ところが、さいたま市の住民や政令指定都市信奉者はそんな常識すら解らないから、区役所なんて云う缺陥制度を信奉する。縦しんば氷川市になっても、「氷川の▽▽です」と言わないでしょうし。
 合併や分割の以前に、そう云う悪習の放棄から始まるんじゃないですか。コムーネに対してろくに愛着も無いのに、区に執着する民衆や行政は醜悪です。コムーネの興隆に缺かせない物は魅力的なソフトと反骨精神であって、区役所ではありません。横浜や清水や矢祭が良い例です。
 「横浜だから善い、清水だから悪い」と差別する理由がどこに在るのでしょうか?横浜だろうが清水だろうが、等しく自治権を認めて、財源と権限を与える事から自治が始まるんではないでしょうか?
 自分の都市名に自信を持ち、都市名を堂々と名乗る。この淳風美俗を壊した元凶は、他ならぬ政令指定都市です。こんな缺陥制度は不要なのです。人口だけで都市を差別・侮蔑し、醜悪な都市名を付ける政令指定都市信奉者や合併至上主義者が、コムーネへの個性(アイデンティティー)を持ってるはずがありません。況わんや、都市名への愛着も。
 縦しんば人口10万人でも、「カンヌにだって○○がいるんだ」「サンドニの□□です」と都市名を堂々と名乗り、自信を持ってるカンヌやサンドニの方が遥に優秀です。人口だけで醉い痴れるよりも、都市名に自信を持つ方が善い。求めないで区役所なんか、スノッブたちの辯解(いいわけ)だから。

<a href="http://www.h4.dion.ne.jp/~abekawa/comune.htm">http://www.h4.dion.ne.jp/~abekawa/comune.htm</a>
「コムーネ潰しに反対する」私見



安倍川餅様 お名前 玉井彰 2002/11/22(金) 21:46:39 [No 366]

現在、ホームページリニューアル中で、しかも、トラブルを抱えており、更新や伝言板の管理が出来ませんので、暫くお待ち下さい。

自分の都市名を堂々と名乗ることが出来ない人達が余りにも多いことに愕然とします。自分達の街に誇りを持てないということは悲しいことです。

私は、この10年間、伊予市という地方小都市のまちづくりに取り組んできました。我が街に誇りを持つのに規模の大小は関係ないと思うのですが、どうも人口規模で都市の優劣を計るという感覚を多くの人が持っているようです。昔の大名の石高のように、「何万人」を「何万石」に置き換え、100万都市=100万石の大名という感覚を持つようです。

「大きいことはいいことだ」という高度成長時代の発想から市町村合併も行われようとしています。「密度」という視点のない拡張主義的都市政策は、高齢社会への対策、車社会に適応できない人達への配慮などが欠けています。

政令指定都市の「区」というのは半端なものだとおもいます。政令指定都市になることが大出世だという思いこみ、「区」を大都市の象徴と考える人が多いのでしょう。しかし、1つの100万都市より、3つの30万都市が近隣で切磋琢磨する方が地域が活性化するのではないでしょうか。地域固有の伝統や文化も失わなくてすみます。

都市の名称についても、合併論者の底の浅さを端的に示すような、くだらない名前が横行しています。安倍川餅さんの御意見に賛成です。



西条市までお越しいただきまして ありがとうございました お名前 一色達夫 2002/11/23(土) 00:46:23 [No 367]

西条市での「自治体合併についての講演会」にお越しいただきまして、ありがとうございました。
地方自治体を取り巻く現在の状況が、どの様なプロセスを経て成り立って来たのか、良く理解出来た講演会であったと、私は感じました。

自治体合併問題は、様々な要素が絡み合って推移して行く故に、市民の皆様にその全容を理解いただくことは至難の技だと思います。

だけど諦めないで、一人から一つから伝えて行く事が議員には求められるのでしょう。
もっと多数の皆様にお越しいただきかった事は本音のところですが、今日はちょっぴり満足して一日過ごしていました。
これからもよろしくお願いいたします。



有意義な講演会でした お名前 玉井彰 2002/11/23(土) 20:22:16 [No 368]

西条市での加茂利男先生の講演会は、市町村合併の問題点を冷静に分析されたもので、大変参考になりました。

兵庫県氷上郡6町における合併した場合としなかった場合のシュミレーションでは、合併して15年後以降は合併しなかった場合の方が有利であるとの結果が出ていることは、合併幻想に警鐘を鳴らすものだと思います。

購入した、自治体研究社刊・加茂利男著「増補版 地方自治・未来への選択」を読み、講義内容を反芻するつもりです。



ニューアーバニズムに逆行する政令指定都市 お名前 安倍川餅 2002/11/24(日) 11:33:27 [No 369]

 野放図に膨脹し、新都心を濫造して来た結果で、各地の中心市街地は火が消えたように寂れている。10月に千葉市に行ったが、千葉市では、蘇我副都心だの幕張新都心と云った新都心が濫造された結果、中心市街地(亥鼻城跡界隈)は火が消えたように潰滅した状態である。
 そのアンチテーゼとして中心市街地の活性化が求められ、持続可能でコンパクトなコムーネを造る発想が、新しい潮流になっている。言わゆるニューアーバニズムである。静岡市では中心市街地が強く、繁華街から公園、官衙(かんが)、病院に至るまで集まっており、その周辺に住宅群が散在するので、便利な構図を成している。殊に、呉服町は「一店一品運動」の元祖で、全国からも視察者が多い。
 ところが、政令指定都市はニューアーバニズムとは対蹠的で、地域膨脹、区役所至上主義、人口至上主義、新都心の濫造、都市の差別と侮蔑と云った、高度成長期の残滓を引き摺ったものである。
 今や都鄙(大都市圏と地方)の差が薄れており、人口だけを唯一絶対だと信じる時代は終わっている。そして、持続可能でコンパクトなコムーネが新しい潮流となっている。そんな時に、旧弊的な缺陥だけの政令指定都市を信奉するのは、スノッブであり時代錯誤である。

http://www.sankei.co.jp/mov/db/2000b/0416backup_b.html
産経新聞「個性で売る映画館」 七間町も特集されています。
http://www.gofukucho.or.jp/
静岡呉服町名店街
http://www.jcp-niigata-shigidan.com/honkaigi/2002_3/daihyou_suzuki.html
鈴木克夫(新潟市議)2002年3月議事録 「持続可能な都市づくり」の節が有ります。
http://www.chibanippo.co.jp/news-box/2002/1-24/seikei.html
千葉日報 「千葉市のまち再生に向かって<1>」見えない打開策



合併論の根本的な誤解 お名前 玉井彰 2002/11/24(日) 22:43:36 [No 370]

安倍川餅さんの御意見の通りで、持続可能なコンパクトな都市づくりの対極にあるのが、安易な合併による拡張主義です。

A、B、C、Dの4つの自治体が合併したとします。それぞれ1万人、2万人、3万人、4万人の人口規模で、合計10万人の自治体になりました。10万都市が出来たと喜ぶ人もいます。しかし、合併による10万都市と本来の10万都市とは都市の本質が異なります。

A、B、Cの自治体の人が全員Dにやってきて10万人になるのなら、都市としての集積が出来、実力のある自治体になります。しかし、従来のままでの10万人というのは、単に境界線を消しゴムで消したという程度の効果しか期待できないでしょう。仮にDが中心になったとして、Dに都市的な集積が生ずればそれなりの効果はあるでしょう。しかし、それはA、B、Cの犠牲の上に成り立つものかも知れません。

合併を結婚に例える人がいます。しかし、結婚の場合は、典型例として、Aの家にBが来るのです。これによりお互いが幸せになり、生活も合理化します。合併の場合は、余程戦略的に取り組まないと、拡大しただけに終わります。うまくいっても、どこかが寂れ、どこかが賑わうということにしかなりません。



五色姫 お名前 玉井彰 2002/11/25(月) 23:41:48 [No 371]

伊予市の五色浜には、平家の美しい五人の姫達の悲しい物語があります。伊予市のシンボル、五色姫の絵を載せてみました。



新都心と中心市街地は相容れない お名前 安倍川餅 2002/11/26(火) 06:23:49 [No 372]

 大都市至上主義者や政令指定病患者の言辞に、「新都心が造られれば活性化する」「未来型新都市」と言う内容が有る。しかし、新都心を造れば市街地やコムーネが活性化すると言うのは詭辯に過ぎない。何故なら、活性化するのは新都心であって、市街地ではないからである。
 静清(せいしん)合併や大浦合併のごとく、元々巨大な2都市が合併して、両市の中間に新都心を造ったり、千葉市のように郊外に新都心を濫造したりすると;市街地は据点性を失って潰滅し、コムーネの個性も潰れる。新都心と中心市街地は相容れない。
 それぞれ横断鉄路線と横断国道を擁するA市とB市が在ると仮定する。そのA市とB市が合併して、その中間Cに新都心を造ったとしよう。そうなると、都心がA、B、Cの3箇所に存在する。3極が造られると、活性化するのはCであって、AとBは火が消えたように衰える。中心性を失ったコムーネが潰滅するのは当然である。
 多くの新都心を持つ1個の80万都市よりも、中心部が活気に満ちた2個の40万都市が両立した方が、コムーネの個性化を図れるし、市街地が活気付く。
 コムーネの活性化を図るなら、Cを造らずに、AとBを活性化させないと意味が無い。それに、コムーネには必ず、由来となる寺社や城郭や港が有り、そこから住民気質が発生する。静岡市で言うなら駿府城跡に、三島で言えば三島大社がこれに当たる。
 安倍川餅の産地・静岡市は、律令時代に駿河国府が置かれた事に始まり、戦国時代には今川王朝と徳川王朝のお膝元で、御用商人が集まった土地である。又、緑茶栽培業の発祥地も、静岡市郊外の安倍川流域である。そんな土地だけに、港町である清水や焼津とは「水と火」なのである。千葉市だって、鎌倉時代に豪族・千葉一族が亥鼻城を築き、そこを本据とした事に始まる。
 そう云う歴史的背景を無視して新都心を造る事は、市街地を潰滅させ、コムーネの特性を潰す結果に至る。



リコール半分成功 お名前 吉岡一誠 2002/11/26(火) 09:13:26 [No 373]

前方はいろいろとご助言ありがとうございました。ダブルリコールのうち、町長選挙で先ず勝利できました。次は議会ですが、自主解散があるかもしれません。
ではまた。



吉岡様 お名前 玉井彰 2002/11/26(火) 23:09:38 [No 374]

砥部町長選挙での勝利おめでとうございます。しかし、外部の人間として言わせて頂くと、前回の町長選挙のリターンマッチではなく、第三の候補に登場して欲しかったとの思いがあります。そううまくはいかないのでしょうね。

合併に関しては、前町長の小合併に賛同しています。ただし、説明責任を果たさなかったところに問題があると思います。



中心性 お名前 玉井彰 2002/11/26(火) 23:16:30 [No 375]

安倍川餅さんの議論の中で、「中心性」という言葉は重要なキーワードだと思います。

地方都市の衰退は、車社会の中で都市が拡散され、中心性を喪失したことに他なりません。

静岡と清水の合併など、大型の合併には、大艦巨砲主義的時代錯誤を感じます。伝統的な中心市街地を凋落させることは多大な損失だという認識を持てないことは、極めて残念です。



山本耕三氏の意見状 お名前 安倍川餅 2002/11/27(水) 08:27:42 [No 376]

 2002年4月中旬、呉服町にて「街要りますか?捨てますか?」と題した意見状を入手した。これは、静岡市呉六名店街会長の山本耕三氏が著した静清合併反対論である。山本氏はちゃきちゃきの駿府っ子で、静岡市交通政策審議会委員である。
 静岡市では、中心市街地(紺屋町、呉六、七間町)を初めとする商業者団体が、静清合併反対運動を立ち上げている。団体の主張は、「新都市の中枢が東静岡に移れば商店街は潰滅する」と言う内容である。呉服町界隈の店鋪では、「市庁舎中枢機関の東静岡移転に反対する」と書かれたステッカーが貼られている。
 又、大宮では、新都市の中枢が南大宮(通称さいたま新都心)に移ったら、案の定中心市街地の衰退が始まっている。大宮は氷川神社を看板としたコムーネなので、氷川神社の界隈が中心市街地に当たる。更に、大宮はR16とR17が交わる交通都市であるが、その道路基準標まで、大宮は中心性を失った。正に大規模合併による弊害であろう。
 静岡市と清水や、大宮と浦和の合併、果ては佐渡島や対馬諸島の「1島1都市」は、正に玉井氏が言う所の「大艦巨砲主義的時代錯誤」である。

http://jepc36.hss.shizuoka.ac.jp/NETWORKER/Number4/n4-67.pdf
静岡駅前地下駐車場問題(山本氏の反駁が載っています。)

<意見状の要諦はこんな内容です。>
(1)静岡市と清水市の中心性を失わせ、両市中心市街地の潰滅を招く、市庁舎中枢機能の移転、新幹線駅の移転などを伴う静清合併に反対します。
(2)郷土愛の源泉である「静岡市らしさ」「清水らしさ」など、両市のアイデンティティーを失う静清合併に反対します。
(3)持続可能でコンパクトな都市を目指した、新しい街造りの理念が、世界の潮流になっています。その流れに乗り遅れた、人口規模・地域拡大・経済効率至上主義の、古い産業社会の理念を引き摺った時代遅れの静清合併に反対します。
(4)正しい判断を得る為に必要な、「ネガティヴ情報」「ネガティヴ要素」の徹底的な収集分析を放棄し、市民の本音を探る為の最大限の努力を怠った、この形骸化した静清合併協議会が進める静清合併に反対します。

 意見状の内容を一部紹介する。
「生活者の視座からは、地域社会(コミュニティー)は持続可能でなければならない。」
「多くの地方都市が、多くの公共施設を郊外に散らした為に、中心部の潰滅を招いた経験から、これらを中心部に再結集する事が求められている。そんな時に、優れた公共施設を中心部に擁する静岡市が、多極分散の下にそれらを散らす必要が有るのか?」
「北九州市の末吉興一市長は講演の中で、合併の弊害として、多極分散の結果、都市の集積が希薄になった事を挙げた。これは、我々が危惧する所の、中心性の喪失による弊害を言い表している。」



鈴木望・磐田市長「合併には郷土意識を要する」と発言 お名前 安倍川餅 2002/11/27(水) 11:22:03 [No 377]

 鈴木望・磐田市長(東海)がこんな発言をした。「合併によって、“ふるさと意識”の持てない市町村が誕生しても善いのだろうか?」これは、闇雲な合併至上主義を危惧する発言で、見過ごせない。
 鈴木市長は合併推進論者である(※磐田の周辺には小規模コムーネが多いらしい)。しかし、鈴木市長が言う所の合併論は、郷土意識を害わない合併でなければならないとする内容である。又、合併の基準となる項目として、(1)歴史的文化的同一性、(2)経済的同一性、(3)日常生活的同一性、(4)共通のふるさと意識を持てる範囲、の4項目を挙げている。
 本来、磐田は遠江国府が置かれたコムーネで、以前は「見付」と称された。この為、磐田の中心市街地は、遠江国分寺跡と遠江総社を擁している。防府(山陽)や石岡(北関東)に類するコムーネである。
 さて、静岡市も然りだが、磐田や防府や石岡のような国府所在地は、1250年以上の歴史・変遷を有している。それだけに、面積と風土と郷土史を無視して、近鄰の大型コムーネと合併しても、郷土意識は育たない。

http://www.iso-ya.com/topic/topic02_11/tp021126.html
鈴木望・磐田市長が合併議論に警鐘を



なるほど お名前 玉井彰 2002/11/27(水) 20:53:11 [No 378]

鈴木望・磐田市長、静岡呉六名店街・山本耕三氏の御意見は参考になります。

鈴木市長の御意見のように、郷土意識の持てない合併は、結果としてまとまりを欠く中途半端な合併になると思われます。これからの地方は、産業政策の単位、福祉の単位、自治の単位をどのエリアで行うのかをそれぞれの目的に照らし考えていく必要があると思います。

産業政策について言えば、国ではなく「州」が行うべきだと思います。福祉の単位を「基礎自治体」と考えるとある程度大きい自治体が想定されます(人口10万程度)。自治の単位はもっと生活に密着した小さなエリアが想定されます。これらとは別に、「故郷意識」の単位は色々な要素があるのでしょう。

私は、意思決定の単位としての自治体はその力量を自らわきまえてメニューの中から行使する権限を選ぶべきだと考えます。例えば、人口1000人の自治体が教育と環境についての権限を選びその他については隣接する強い自治体に委託するという様な具合です。国に権限を決めてもらう必要はないと思います。言い換えれば、自治体が必然的に「基礎自治体」即ち総合的なサービスを提供する行政体である必然性はないと思います。

静岡市の地下駐車場の話は面白いですね。車社会過剰適応型の都市政策は問題がありそうです。



都市型の伊予市をつくる お名前 玉井彰 2002/11/28(木) 21:59:38 [No 379]

市議会議員選挙が2ヶ月後となり、各議員は囲い込みをかなり進めている模様です。

私は、しがらみ型・ムラ型の政治風土を都市型に変えていきたいと考えています。市民が政治をコントロールするためには、しがらみを絶って自分の判断で投票することが必要です。選ばれる側が選ぶ側をコントロール出来ると考えていることが政治腐敗の遠因になっています。

有権者が、複数の候補の主張を聞き主体的に判断する選挙をして欲しいものです。



全国人権・同和教育研究大会 お名前 玉井彰 2002/11/29(金) 07:42:09 [No 380]

第54回全国人権・同和教育研究大会が大分で開催されます。議会から派遣され12月3日まで出張。

同和問題もある程度の進展があり、人権問題の一環として位置付けられる段階に入ったと思われます。

人権問題として看過出来ないのは、北朝鮮の人々のことです。国家主権と人権との関係については、慎重な配慮が必要です。しかし、悲惨な人権侵害が行われている重大な疑惑がある以上、国連等による査察が行われるべきです。

北朝鮮に国家としての法人格を認めること自体が甘すぎるのかも知れません。

現時点でもホームページの自力更新が出来ません。ISDNからADSLに不用意に乗り換えたのが原因。しかし、ADSLは快適ではあります。



府県制度を嫌う理由(1) お名前 安倍川餅 2002/11/30(土) 12:26:56 [No 381]

 東静岡駅前の開発や、静岡県立総合病院の静岡市への誘致は、県主導で行われている。言わば、静岡市の行政屋にはタカリ癖が強い。この為に、静岡市は県内のコムーネからは嫌われる傾向にある。
 静岡市を謗(けな)してるコムーネの常套句は、「県庁にタカってるだけ」「静岡県のイメージを窃んでる」と言う内容である。しかし、一方では「エコパは静岡県だから“静岡”の名称を付けて何が悪い?」と居直っている。日常から静岡市や静岡県を非謗中傷しながら、サッカーの話題になると静岡県に泣き付いてるのは卑怯ではないか。
 そもそも、「静岡」は駿府城の近くに位置する賎機山(しずはたやま)に因んだ地名であり、「駿府」から改められた都市名である。地名に関して、静岡市は正統性(legitimacy)を持っているのだ。にも関らず、自分のコムーネに対してロクスッポ自信も無い癖に、いざとなると自分が謗してる所の県庁に泣き付くなんて、お門違いも甚だしい。
 従って、私は「サッカー王国・静岡」と云う言い方が嫌いである。静岡市がサッカー王国なら話は別であるが、実際は違う。実際にサッカー王国と称されるコムーネは、清水と藤枝に過ぎない。素直に「名波浩の出身地は藤枝である」と記せば善いし、それこそ当然である。

 又、日本人でなかったら、“Brasil vs Inglaterra,21 de junio,Shizuoka”との表記を見たら、「静岡市内で開かれる」と思うのが当然である。静岡市のはずなのに、真は静岡市じゃない…都市名を窃んどいて、どうして正常な地名感覚が育とうか?
 府県制度は、コムーネへの非謗中傷を惹起しては、地名感覚を麻痺させている。県至上主義は政令指定病と同様に、地名感覚を麻痺させ、コムーネへの自信を失わせてるのが真相なのである。真に地名感覚が有るなら、コムーネ名だけで充分なのだが。

 又、「糸魚川静岡構造線」と云う語が示すように、安倍川(静岡市)は地質構造の東西境界線である。そして、人文地理的には大井川(島田)が東西境界線になっている。従って、静岡県は大井川(或いは安倍川)で分割されるのが当然である。
 言わゆる「静岡茶」とは、「安倍茶」「本山茶」と云った、静岡市内で生産される緑茶を言うのが、正統性に適っている。そもそも、安倍川で地質構造が大きく異なるのに、地質構造が異なる地域を一色単にするのは、風土を無視した暴論である。
 大井川以東(駿河伊豆)は山梨県と合併し、大井川以西(遠州)は南信州や愛知県と合併した方が善い。なんせ、山梨県+駿河伊豆(甲駿豆)は富士山を媒体にした地方圏で、東京寄りだからである。一方、遠州+三河+伊那平(三遠信)は天竜川を媒体にした地方圏で、富士山地方圏とは風土が異なる。

 従って、私はコムーネの合併には反対するが、府県の合併や分割には賛成する。何故なら、府県や道や国家はコムーネの集合体に過ぎず、府県は面積が中途半端だからである。それに何より、府県は地名感覚を麻痺させてるからである。



府県制度を嫌う理由(2) お名前 安倍川餅 2002/11/30(土) 14:41:07 [No 382]

 2002年6月のサッカーWCは、日本人の地名感覚の喪失を証す物であった。サンドニ(10万都市)やトゥールーズ(30万都市)のように、歴とした由来を持つコムーネ名を付ける自治体はロクスッポ無し、コムーネ名の窃取・混同・改悪が横行する程だから。
 通常、トゥールーズで開くとなれば、トゥールーズ「市」内で開かれると思い衝くであろう。もしも「静岡」開催と言うなら、静岡「市」内で開いて、絵葉書やキーホルダーには登呂遺跡や駿府城巽櫓を載せるのが当然である。外国人からは、静岡市で開かれると見なされるのだから。
 酷い例では、偕楽園と筑波山を描いて、“開催地:茨城”と記した絵葉書が在った。これでは、「茨城市で開かれて、茨城市内に偕楽園と筑波山が在るんだ。」と錯覚して当然である。このような、コムーネや地名の混同は、地名感覚を麻痺させる。そしてこれは、日本人の地名感覚の喪失を顕著に表している。

http://city-guide.de/wm_2002/2751317.html
City Guide(ケルン<ドイツ>の情報誌)
http://www.eltribuno.com.ar/especiales/Mundial2002/rivales.htm
El Tribuno紙(Salta市<アルゼンチン>の新聞)

 大体、“las ciudades de Ibaraki,Sapporo y Miyagi”と記されたら、当然「茨城市、札幌市、宮城市」を意味する(“ciudad”=都市=コムーネ)。となれば、地名感覚の無い日本人のように、「茨城県」「宮城県」と見なす者はいないのである。
 縦しんば「A県だ」「A県とB市が在る」と言おうとも、外国人は誰も「A県、B市」と見なさず、「A市、B市」と見なす。臆面も無く都市名を改悪する者に、そんな常識すら解るはずもない。
 要するに、「県」と「区」のような缺陥制度に執着する日本的悪習は、日本人から正常な地名感覚を喪失させている。

 又、清水と藤枝からフットボーラーが多く育ってるから、静岡県がサッカー王国だと言うなら;鹿嶋にサッカーファンが多く、筑波にフットボーラーの卵が来るから茨城県がサッカー王国だと言うようなものである。
 だが、実際は違う。茨城県のサッカー界は鹿嶋には暖かいが、筑波に対しては冷たく、疎(まま)しい治外法権地帯だとしか思っていない。清水と藤枝は異母兄弟のように仲違いするが、鹿嶋と筑波も異母兄弟のように疎しい間柄である。
 従って、都市単位で物事を考えないと、飛んだ錯覚を招く結果になる。鹿嶋について語られる出来事、都市名出してから語り始めて。静岡について知らな過ぎるのは、他の国より多分日本よ。



府県制度 お名前 玉井彰 2002/12/02(月) 18:56:53 [No 383]

出張が3日までというのは勘違いで、本日帰宅。

都市を中心に地名を語る考えには賛成です。「県」については、「無駄な中間団体」という言い方をさせてもらていますが、現実に私が出会った県職員は誠実な方が多いようです。しかし、小さな自治を守る防波堤であることを自覚してはじめて県の存在は意味があるのだと思います。

日本株式会社の支店が「県」、その下の営業所が「市町村」という発想で営業所の統廃合(市町村合併)をするのであれば、支店統廃合(県の合併)も視野にはいるでしょう。

勿論、中央集権的発想で行われる最悪の地方政治リニューアルの図式です。



鳩山氏辞任 お名前 玉井彰 2002/12/04(水) 08:03:10 [No 384]

民主党・鳩山代表辞任に至る醜い混乱は、民主党議員それぞれの個人的な生き残りへの足掻きを象徴するものでした。「議員あって党なし」の状態なのでしょう。代表を引きずり降ろした人達こそが混乱の責任を取るべきでしょう。

この状況をどう収集するのか分かりませんが、自民党政権打倒により野党が政権を取るシナリオより、自民党に暫く政権を任せて、タイタニック号が氷山にぶつかるのを待つシナリオの方が、悲惨だけれども、中長期的に見て国家・国民の為になるかも知れません。

駄目な政権よりもっと駄目な人達がいることを証明した2ヶ月だったと思います。大変残念ですが。



雉(きじ)も鳴かずば打たれまい お名前 玉井彰 2002/12/05(木) 18:55:00 [No 385]

伊予市の市議会議員選挙が近づいています(1月26日)。立候補予定者が走り回っています。私の動きが遅いので周囲が心配してくれています。

困るのは、私のように色々な意見を言う者は嫌われやすいという点です。10の意見を言うと必ず1つや2つは意見が違います。そこを重視すると、この人物は嫌だということになります。

何も言わず、ひたすら頭を下げると、いい人だ、謙虚な人物だという評価が出てきます。

周囲から、言動に気を付けるというアドバイスをいただいています。しかし、言いたいことが言えないのなら辞めた方がましだと思っています。



言いたい事を言いながら お名前 一色達夫 2002/12/11(水) 01:40:48 [No 386]

議員となって物を言うと権利を得たなら、言いたいことを言わずにおくことは無いと思います。
玉井さんの個性の発露である言いたいことを言いながら、なおかつ議席は確保しておく行動も忘れないで下さい。



言葉の選び方 お名前 玉井彰 2002/12/11(水) 21:50:33 [No 387]

一色さん、ありがとうございます。

このところ感じるのは、私がホームページで述べている言葉をそのまま用いると全く共感を得られないだろうということです。言葉をどう選ぶかということに慎重な配慮が必要だと思います。

地方自治についてほとんど考えることなく日常を送る有権者の方々に瞬時に反応して頂ける言葉をどう探していくのかを研究する必要があります。その言葉に命を与えていく作業を怠ると、単なる跳ね上がり分子ということになるのでしょう。

基盤を確保する気持ちが徐々に沸いてきています。



400年祭に思う お名前 安倍川餅 2002/12/19(木) 03:15:36 [No 388]

「もしも私が家を建てたなら、小さな家を建てたでしょう。
 大きな窓と小さなドアと、室には古い暖炉が有るのよ。」

 今年西暦2002年は、松山の開府400周年であった。そして翌年西暦2003年は、東京の開府400周年に当たり;上記の歌詞で始まる「あなた」(小坂明子)の発売30周年に当たる。
 言うまでもなく、100年祭や400年祭は、自分のコムーネを見直し、コムーネや地名に自信を持つ為の機会である。従って、合併至上主義はコムーネの死を賛える主張であり、100年祭や400年祭とは対蹠的である。
 又、コムーネの合併ばかりが話題になり、街作りの理念と本髄が軽視されている。合併賛美者は、合併だけが善であると言うだけで、地名(殊にコムーネ名)の改悪に血道を上げ、どんなコムーネを作るかと言う理念を明示していない。
 「もしも私が都市を作るなら、大きな都市を作るでしょう。大きなハコモノと膨大な人口と、至る所に区役所有るのよ。」恐らく、これが合併賛美者の本髄なのであろう。
 言うまでもなく、松山や東京は城下町なので、城郭の界隈(松山…一番町。東京…神田、銀座)が中心市街地に当たる。街作りとか個性化を唱えるなら、一番町や神田こそ見直されるべきであろう。
 これに対して、お台場や幕張の如き俗称「未来型新都市」は、100年祭や400年祭の唱える、過去から現在を見直す態度を全く缺いた代物であり、誇大妄想にしか見えない。従って、私は常に、未来に対して不信感を抱いている。何故なら、膨脹神経症に侵され、性質が醜くなり、淳風美俗を潰し、進歩を僣称するのが未来だからである。

http://edo400.net/
西暦2003年/東京開府400周年
http://www.matsuyama400.com/
西暦2002年/松山開府400周年
http://www.city.sendai.jp/kikaku/tyousei/kaifu/
西暦2001年/仙台開府400周年
http://www.city.takasaki.gunma.jp/syoukai/2000/adbj0000.htm
西暦2000年/高崎市制100周年



400年 お名前 玉井彰 2002/12/19(木) 23:53:16 [No 389]

関ヶ原の戦い1600年。家康が征夷大将軍となるのが1603年。ということから、築城(開府)400年という都市が多数あります。

歴史を語るということは、単なる懐古趣味ではないと思います。自分達は何者であるかということ、即ち、アイデンティティーを確立しない地域は、自ら誇りを持ち得ないし、他からの尊敬も得られません。

都市における拡張主義的な考え方は、個性を喪失することにより、自らを曖昧な存在とすることになるでしょう。

「未来志向」の空虚さを、私も指摘したいと思います。