「百人斬り」のテキスト解析

 2006.07.06 上網

「百人斬り競争」の基本資料は多くない。論争を紛糾させるのは、当事者すなわち、二少尉と記者による戦後における発言がそれぞれ自分を弁護・擁護するため に事実を曲げている、あるいはその可能性があるとされ、肯定派、否定派の解釈がはじめから激突するという点にあるだろう。

そこで、あらかじめどちらかの立場によって論証を開始することを避けるため、この小論では戦後の当事者の発言を使用することなく、 基本中の基本である当該新聞記事のみでどのような判断を下すべきかを論じた。これまで、記事資料としては東京日々新聞の記事のみが用いられており、これが議論の前提として用いられていたがいたが、記者が書いたオリジナルは大阪毎日新聞の記事であることが判明した。

よって、東京日々新聞の百人斬り記事およびこ大阪毎日新聞記事を併せて提示し、浅海記者が当時どういう意図を持って書いたのか、簡単なテキスト解析を行う。

1.第1報のテキスト
 
青字は東京日々新聞、大阪毎日新聞の相違点、赤字は 一方にあって他方にない文字、文章)

1937年11月30日付東京日々新聞朝刊(第1報)

(見出し)百人斬り競争! 両少尉、早くも八十人
(本文)【常州にて廿九日浅海、光本、安田特派員発】 常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に 立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある、無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ、一人は富山部隊 向井敏明少尉(二六)=山口県玖珂郡神代村出身=一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)=鹿児島県肝属郡田代村出身=銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。
無錫進発後向井少尉は鉄道路線廿六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は 鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名 乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた 。
その後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。
向井少尉 この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ。
野田少尉 僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ。



 

昭和12年12月1日付大阪毎日新聞夕刊 <段落は便宜上、筆者が入れた。>

(見出し)南京めざし 快絶・百人斬り競争
『関の孫六』五十六人を屠り/伝家の宝刀廿五名を仆す/片桐部隊の二少尉

(本文)【常州にて二十九日光本特派員発】 常熟、無錫間の四十キロを六日間で破った○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で破ってしまった。神速といはうか何といはうか、仮令(たとへ)ようもないこの快進撃の第一線に立つ片桐部隊に、「百人斬り競争」を企てた青年将校が二名ある、しかもこの競争が無錫出発の際初められたというのに、一人はすでに五十六人を斬り、もう一人は二十五人斬りを果たしたという。一人は富山部隊向井敏明少尉(山口県玖珂郡神代村出身)、もう一人は同部隊野田毅少尉(鹿児島県肝属郡田代村出身)である 、

この二人は無錫入城と同時に直ちに追撃戦に移った際、どちらからともなく、「南京に着くまで百人斬りの競争をしようじゃないか」という相談がまとまり、銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば、野田少尉も無銘ながら先祖伝来の宝刀を誇るとい つた風で互いに競争するところあり、無錫進発後向井少尉は鉄道路線六、 七キロの線を大移動しながら前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり、いったん二人は分かれ分かれになったが、出発の翌朝、野田少尉は無錫を さる八キロの無名部落で敵トーチカに突進し、四名の敵を斬り伏せて先陣の名乗りをあげたが、このことを聞いた向井少尉は奮然起って、その夜、横林鎮の敵陣 に部下とともに躍り込み、五十二名を斬り捨ててしまった 、その後野田少尉は横林鎮で九名、威野関鎮で六名、最後に廿九日常州駅で六名と合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名を斬り記者等(光本、浅海、安田各本社特派員)が駅に行ったとき、この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかった 、両少尉は語る、

<向井少尉> この分だと南京どころか丹陽で、俺の方が百人くらい斬ることになるだろう、野田の負けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたった一つしかないぞ
<野田少尉> 僕等は二人とも、逃げるのは斬らないことにしています、僕は○官をやつているので成績があがらないが、丹陽までには大記録にしてみせる
 記者らが、「この記事が新聞に出ると、お嫁さんの口が一度にどっと来ますよ」と水を向けると、何と八十幾人斬りの両勇士、ひげ面をほんのりと赤めて照れること照れること


大阪毎日新聞(以下、大毎と略す)の記事は一読して今まで議論の前提として使われていた、東京日々新聞(以下、東日と略す)の記事とかなりの違いがある。

中でも大きな違いは

(1)日付が違う。東京日々新聞1937年11月30日付朝刊、大阪毎日新聞12月1日夕刊。
※当時の習慣では夕刊の日付は翌日の日付が表示される。すなわち、大阪毎日新聞の12月1日夕刊を発行したのは11月30日である。
(2)記事を書いた特派員の名前が光本単独になっている、記者の順列が違う。
(3)大阪毎日版には東京日々版にない文章がある。
(4)大阪毎日版のやや冗長な部分が東京日々版では刈り込まれ漢語調が徹底されている。
(5)向井少尉の斬殺数の明細が大阪毎日では合っている。
この5点である。
では、東京日々新聞記事との違いは何に起因するのか。 浅海記者のオリジナルはどち らなのか、あるいはどちらがオリジナルに近いのか。
 

1.おそらく、浅海記者が書いた電文は東京に送信され、大阪に転送された。そのために大阪では記事が半日遅れたと推定される。

2.(大毎)で光本特派員発となっているのは、社内の地位では光本氏が上であり、浅海、鈴木、安田の各氏を統括する位置にあったためであろう。浅海氏が東 京本社の社員、光本氏が大阪本社の社員であり、当時は東京、大阪の社内での競争意識が激烈だったため、浅海氏の名前は取材グループの長である光本氏の名前 に差し替えられた。
※記事冒頭で(光本特派員発)と銘打ったため、その穴埋めとして記事本文中に(光本、浅海、安田各本社特派員)を入れているが、実際は光本は浅海らと同行しておらず、安田は電信技師でこれもその場にはいなかったと考えられている。

3.(東日)と(大毎)の記事を比較すると、(東日)にあって、(大毎)の記事にないのは両少尉の年齢の部分だけである。しかし、他はすべて(大毎)の記 事が量が多い。(大毎)の記事から(東日)の記事を作ることは出来るが、逆は出来ない。すなわち(大毎)記事がオリジナルであり、年齢だけは(大毎)が原 文から削除したと考えられる。

4.(東日)の文章が簡潔で分量が少ないのは、東京では編集部が浅海記者の原稿を徹底して推敲したものを載せ、大阪では浅海記者の文章をほぼ原文通り載せ たからと考えられる。東京では身内の文章なので遠慮することなく、推敲して冗長な部分をカットしたが、大阪では東京の社員の記事に手を入れることまではさ すがに憚られたので、ほぼ原文通りの記事が載せたと思われる。

5.テキスト解析中で後述するが、向井少尉の斬殺数の明細の不一致は(東日)の単純ミスで(大毎)が正しいと思われる。


以上より(大毎)の記事が浅海記者の原文により近いものと考えられる。よって、(大毎)記事を中心にテキスト解析を行う。

第一段落
部隊の快進撃を語っている。常熟、無錫間より無錫、常州間の進軍が加速していることから敗勢の中国軍が雪崩を打って潰走し始めていることを示すものだろう。戦闘らしい戦闘はなくなり、完全な追撃戦になったことを示している。歯切れのいい文章である。

第二段落
(東日)では「鉄道路線廿六、七キロの線」となっているが、同じ部隊で26,7キロも離れるのはおかしい。これは活字を拾うときの単純ミスで、「北」と「廿」は字形が似ているため の間違いであり、(大毎)の「鉄道路線北六、七キロの線」が正しい。

(東日)では「第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある、無錫出発後・・」と概括的に書かれており、どこで競争が取り決められたか不明であったが、(大毎)では第一段落「この競争が無錫出発の際初められた」、第二段落「追撃戦に移った際にどちらからともなく「百人斬り競争」の相談がまとまった」とあり、無錫出発前後から競争が始まったことが明記されている。※どこから、競争がはじまったかは論争点のひとつになっている。

「トーチカに突進」も「敵陣に躍り込み」も非常に勇ましい。野田少尉が四名、九名、六名、六名と少人数ずつなのに、向井少尉が一時に五十二名というのは疑わしい。とにかく、驚倒すべき奮戦ぶりである。


第三段落
向井は上機嫌で勝ち誇り「南京どころか丹陽で百人くらい斬るだろう」「野田の敗けだ」とテンションが高い。それに対して、野田も「丹陽までには大記録(百人のことであろう)にしてみせるぞ」と一歩も引かない決意を明らかにしている。

ところで、(東日)では横林鎮で五十五人、常州駅付近で四名斬っているので、計五十九人のはずであるが「五十六人斬つて歯こぼれがたった一つしかないぞ」と数があっていない。(大毎)では横林鎮で五十二人、常州駅付近で四名で五十六人 と数があっている。 記者たるもの、一線の報道部員であろうが、後方の編集部員であろうが、各数字と総数の一致については敏感なはずである。万一送信原稿にミスがあったとしても編集段階で勝手に辻褄を合わすことも考えられない。 (大毎)記事の数が合っているということは、こちらが正文であり、やはり (東日)で活字を拾った際の単純ミスであろう。

ところで野田は「僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます」となぜ言ったのだろうか。もともと日本刀というのは 至近距離の敵しか斬れないと考えられる。また、仮にも敵兵であってみれば、逃げる敵を斬らない、などと 武士道精神を宣揚するのはおかしい。みずからの戦功を誇り、報告するためにはまったく不必要な言葉であるから、何らかの質問に触発して発したとしか考えられない。

1.実は逃げる敵だから斬れるという観点もあります。それについてはのちほど。2.なぜ言ったかは「『ホラ』と『冗談』」で解説します。

逆に浅海はなぜこの言葉をわざわざ記録したのだろうか。 もしこの言葉が野田少尉が自発的に言った言葉であったとても、浅海の立場からは特に採り上げる必要のない言葉である。 この言葉を記録した理由はただひとつである。二少尉の言葉を逐一記録するうちにあまりにも超人的な戦功なので、本当に斬ったのか、と問いただした、と考えられる。その答えがこれであり、印象に残った言葉であったので、 そのまま書き残した、というのが真相であろう。

「お嫁さんの口」についての発言は(東日)にはなかったが、二少尉の獄中での主張に再々出て きたので真実であろうと私は考えてきた。(大毎)の記事にも出ていることから事実であったことが確認された。この文章も浅海が戦功記事として練り上げたにしてはまったく余分なものである。このエピソードも戦功記事としてはゆるみが出ると判断されたため、(東日)では削除され たようである。

ところで、賞賛した主体は「記者ら」とあるのは誰なのか。一人は浅海記者であるが、他は誰であろうか。佐藤カメラマンか、安田無線技師しか考えられないが、浅海回想にも佐藤回想にも安田は登場しない。 あるいは『記者ら(光本、浅海、安田各本社特派員)』と 実際にはいなかった記者を編集段階で入れたための辻褄あわせだったのか。しかし、日本語では単数と複数をことさら区別しないのが普通であり、何人かの記者 が聞いても「記者」と書いておかしくはない。これに対して純粋な記者の職種には属さない、報道カメラマンを一緒にして記者と単数形で書くことは通常避け る。とすれば佐藤カメラマンも賞賛に加わったと解するのが最も適当であろう。


記事に出てくる固有名詞と時日の記録はそれなりに具体的である。二人の戦闘報告には勇敢さを強調する語彙が当てられてはいるが戦闘の大局的な記述は乏しく、結果として 極めて局地的な人斬りスコアがあるのみである。記者が正確を期すために、補充質問をしたり、裏をとったような客観的な記事には読めない。二少尉の高揚感に同調しつつ書き留めた気配が濃厚である。

二少尉の発言はリアルであるが、euphoria、昂揚感と戦功の誇示の気持ち、友情と競争意識が溢れている。記者の賞賛に舞い上がっている二少尉の姿も印象的である。 浅海記者の原文は戦意昂揚のための記事というよりは、戦場でのひとコマといった趣であるが、(東日)の編集意図は戦意昂揚の面を強化している。

テキスト解析自体として、二少尉の驚異的戦功は到底信じられないものの、記事全体としては記者の創作・捏造であるとは考えられず、二少尉が言ったままをズラズラと記録し、後で前後の体裁を整えるようにしたものである。



2.第2報

1937年(昭和12年)12月4日東京日日新聞朝刊
 
(見出し)急ピッチに躍進/百人斬り競争の経過

[丹陽にて三日浅海、光本特派員発]
(本文)既報、南京までに『百人斬り競争』を開始した○○部隊の急先鋒片桐部隊、富山部隊の二青年将校、向井敏明、野田毅両少尉は常州出発以来の奮戦につぐ奮戦を重ね、二日午後六時丹陽入塲(ママ)までに、向井少尉は八十六人斬、野田少尉六十五人斬、互いに鎬を削る大接戦となつた。

常州から丹陽までの十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬つた訳で壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである。今回は両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北方)の敵陣に飛び込んでは斬りに斬つた。

中でも向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつゝある。記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る。

野田のやつが大部追ひついて来たのでぼんやりしとれん。野田の傷は軽く心配ない。陵口鎮で斬つた奴の骨で俺の孫六に一ヶ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人斬れるぞ。東日大毎の記者に審判官になつて貰ふよ。


 

1937年(昭和12年)12月4日大阪毎日新聞朝刊 

(見出し)百人斬り競争 後日物語/八十六名と六十五名 鎬をけづる大接戦!/ 片桐部隊の向井、野田両少尉/痛快・阿修羅の大奮戦

 丹陽にて【三日】浅海、光本本社特派員発
 (本文)既報南京をめざして雄々しくも痛快極まる「百人斬り競争」を開始した片桐部隊の二青年将校、向井敏明少尉、野田毅少尉両勇士は常州出発以来も奮戦につぐ奮戦を重ねて二日午後六時丹陽に入城したが、かたや向井少尉はすでに敵兵を斬つた数八十六名に達すれば野田少尉も急ピツチに成績をあげ六十五と追いすがり互いに鎬をけづる大接戦となつた、

即ち両勇士は常州、丹陽たつた十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬つたわけで壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである、 何しろ両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上で奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北)の激戦で敵陣に飛び込んでは斬り躍り込んでは斬り、中でも向井少尉は丹陽城中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつつある、 記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する部隊を追ひかけると向井少尉は行進の隊列の中からにこにこしながら

野田の奴が大分追ひついて来たのでぼんやりしとれん、この分だと句容までに競争が終りさうだ、そしたら南京までに第二回の百人斬競争をやるつもりだ、野田の傷は軽いから心配ない、陵口鎮で斬つた敵の骨で俺の孫六に一ケ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人は斬れるぞ、大毎、東日の記者に審判官になつて貰ふワッハッハッハ

と語つて颯爽と進んで行つた

第2報も細かい部分でかなり異同があり主な部分のみ赤字で示すが、第1報でみたように(大毎)が原文であろう。
(大毎)の記事中の「急ピッチに成績を上げ」は(東日)の見出しに転用されている。注目されるのは「この分だと句容までに競争が終りさうだ、そしたら南京までに第二回の百人斬競争をやるつもりだ、 」の一文で早くも二回目の百人斬り競争を予告していることである。
(大毎)第2報では戦闘をした地名が出てくるし、城門一番のりとか負傷の話が出てくるが、戦闘の状況説明はなく、形容句があるのみで第1報より、曖昧である。


3.第3報
第3報は記事同文で、見出しのみ違うので(東日)は割愛して、(大毎)のみ掲示する。(東日)の見出しは89−78/百人斬り¢蜷レ戦/勇壮!向井、野田両少尉 とある。(大毎)第3報の記事には常州で撮影された写真が掲載され、(東日)には掲載されていない。(東日)ではこの写真 が第4報で掲載される。
 

1937年(昭和12年)12月7日大阪毎日新聞朝刊 

(見出し)百人斬り競争の二少尉/相変らず接戦の猛勇ぶり

(本文)丹陽にて【三日】句容にて【五日】浅海、光本本社特派員発
南京を目ざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井敏明、野田毅両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦、入城直前までの成績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた

(両少尉の写真)
敗けず劣らずの野田少尉(右)と向井少尉(左) (常州にて−佐藤本社特派員撮影)



4.第4報
第4報は見出しを除いて記事は同文である。(大毎)は割愛する。

1937年(昭和12年)12月13日 東京日々新聞朝刊

(見出し) 百人斬り超記録′井 106−105 野田/両少尉さらに延長戦

(本文) [紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発] 南京入りまで百人斬り競争≠ニいふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌(ママ)両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した
野田「おいおれは百五だが貴様は?」 向井「おれは百六だ!」……両少尉はアハハハ′給ヌいつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十 人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた、十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が「百 人斬ドロンゲーム」の顛末を語つてのち
知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にし たからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を 「えいまゝよ」と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ
と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。
(写真説明)百人斬り競争≠フ両将校/(右)野田巌(ママ)少尉(左)向井敏明少尉=常州にて佐藤(振)特派員撮影。
 


第3報と第4報では第1報のような戦闘場面の描写がまったくない。第4報のとき行われている戦闘は「敗残兵狩」とあるので、一方的な掃討であって五分の白兵戦ではないが、その様子さえも説明がない。あるのは斬殺数データだけである。 記事内容のほとんどが向井少尉の一方的な怪気炎であって、euphoriaに包まれた大言壮語である。

下線の部分は向井氏の特徴である、大言壮語、ほら吹きの性格が如実に出ている。後に向井少尉が残した文章、向井氏に接したことがある人が伝えた向井少尉の発言 と較べれば本人の口吻であることは明らかである。この記事が記者の創作であると二少尉は主張し、後に否定派も主張するのだが、向井氏の発言を実際に聞くことなしにこのような生き生きとした セリフを伝えることはちょっと無理である。(このようなことを言うと否定派が埒もない反論を縷々並べるのですが、たとえば 俳句の三十一文字でさえ、個人、個人の特徴が出てきます。私とK−Kさん、ゆうさんが、あるテーマで1行書いても、誰がそれを言ったか、名前を伏せても必ずわかります。否定派というのは文学的センスも皆無ですからそのようなことが理解できないのです。)

ところで向井少尉は(大毎)第2報で、孫六の刃こぼれは敵兵の骨で出来たといっていたが、今度は鉄兜を唐竹割したからだと言う。euphoriaのためほらがより大げさになったらしい。野田回想メモでは「
上海方面デハ鉄兜ヲ、切ツタトカ云フガ」と二人の間で新聞記事が話題になっていたことを示唆するが、その当たり に刺激されてのホラらしい。

向井は相当な上機嫌でEuphoriaに包まれている。いかに誇大な表現に溢れているが実は、この頃の新聞の○○人斬りと共通したテーマが多い。
(1)さすがに刃こぼれ−「激戦」の証拠として刃こぼれや刀の損傷が言及される
(2)鉄兜を斬った−鉄兜を斬るという新聞記事がすでに出ており、二少尉はそれを記憶していた
(3)弾雨の中を・・・ひとつも当たらずさ−勇敢な軍人が日本刀を手に、弾雨の中でも動じないというテーマ
(4)二人が百人斬りをめざして戦うというのはこの記事の中核であるが、複数の軍人が○○人斬りを果たすというテーマは他にも数多い。
(5)両少尉はアハハハ、/知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、/だが改めて百五十人はどうぢや−武功を果たしたあとで、異常なEuphoriaがみられ、さらなる戦功を呼号する。
 


結語

さて、これまで光を当てられなかった大阪毎日新聞の記事によって百人斬りの記事の実像に迫ることができた。

(1)戦功に酔った二少尉の談話のある意味リアルな再現であり、記者が「そら」で創作するのは非常に困難であること。
(2)戦闘の客観的な経過の詳細が少なく、局地的な戦闘の、それも当事者個人による報告であること。
(3)その戦闘も、本格的戦闘ではなく敗残兵の掃討や、投降兵の即時処断である疑いが残る。
(4)記者の姿勢は戦場でのひとコマというものであったが、特に東京日々新聞では、編集部によって武功談として編集された。(否定派や肯定派の一部も含めて、記事は戦意昂揚のために書いたとする説 を立てるが、オリジナルは戦場のひとつのエピソードという側面が濃厚である)

私の判断は 以上のようなものであるが、この見方がただちに否定派や初学者の同意をただちに得るだろうとはもちろん考えてはいない。このことはさらに、

(1)当時の日中戦争の報道の様相
(2)日本軍将兵さらには一般国民に日本刀及びそれを使った戦闘に対する憧れと美化が生じた歴史的背景
(3)武功をなしたものによる「ほら」の心理的分析

を通じて立体的に明らかにしていく積もりである。
 

インデクスに戻る