山田詠美「蝉」の授業



.□ 第4章 □.

 主人公の尋常ならざる心情は、「思春期とも違う、反抗期とも言えないこの時期」において「必要なものを失った暑い空間に、放り出されて行き場を失ってい」たこと、すなわち《母親の不在》に起因するものである。のみならず、感想G−(3)・(4)・(5)・(6)・(7)が触れる主人公の人物形象に絡めて言うならば、彼女の感じた「退屈」や「孤独」もまた、
    (f) 私のまわりでは、もう色々な人が死んでしまいました。私は孤独でした。それなのに、孤独を感じる張本人である自分自身を殺したいとは思いもよらないのでした。なんという自分勝手な子供だったのでしょう。私は、ただ周囲を憎んでいました。
という、彼女自身の「自分勝手」によってもたらされた側面を有している(ここには、自己のみの肯定と他者の否定がある。他者の存在を肯定していない以上、「孤独」は必然である)。

 これらを踏まえたならば、やがて主人公の内面の変転していくさまを読み取ることが、次の作業となる。変転の最初の契機は、主人公の眼前における蝉の突然の死であった。自分を苛立たせる鳴き声の原因を知りたい衝動にかられた彼女は蝉の死骸の腹を裂いてみた。
    (g) あの鳴き声の正体は、いったい何だったのでしょう。私は、もっと、体の中に、いやらしいものが沢山詰っているのではないかと予想していたのでした。あのおなかの中には声だけが詰っていたというのでしょうか。あんなにも、私を苛立たせた原因は、ただの空虚だったというのでしょうか。私に殺意さえ抱かせたあのやかましさには実体がなかったのでしょうか。/私は、足許に落ちた蝉の死骸を見詰めました。すると、突然、それは、憎しみの対象から、ただのはかない生き物として、私の目に映りました。

    (h) 突然、死んでしまう蝉たちのことを思うと、もう憎む気にはなりませんでした。それと同時に、昨日、心の中で殺してしまった人たちにも、憎しみを感じることがなくなりました。私の肩からは、すっかり力が抜けてしまい、何故、あんなにも苛立っていたのかが、さっぱり思い出せない程でした。
 主人公が、蝉のみならずクラスメイトや叔母にまで感じていた「憎しみ」や「苛立ち」は、ここでとりあえず払拭されることになる。「憎しみの対象から、ただのはかない生き物として、私の目に映」ったという蝉に対する認識は、「心の中で殺してしまった人たち」にも適用されている。

 ただし、そこに存在する主人公の自意識の内実を看過してはならない。それはあくまでも優越する自己の下に他者を定位するものとしてあり、彼女の言葉はそのことを余さずに伝えていると言えよう。すなわち、「それは、ただのはかない生き物として、私の目に映りました」とは、《私が、それ(蝉・クラスメイト・叔母)を、ただのはかない生き物と見なした》ことと同義であり、それゆえ、このとき彼女の得た平静は「ただのはかない」他者の発見――すなわち、相手が「憎しみ」や「苛立ち」の対象たるに足らぬ、いわば俯瞰(ふかん)しうる存在であることの発見――に裏打ちされていたのである。

 変転の第2の契機となるのは、生まれたばかりの弟を母親が病院から連れて戻ったことであった。当初、主人公は弟を「人間というよりも、むしろ虫のように見」なしていたが、「私のことなど忘れたかのように弟に夢中」な両親や「愛情を一身に受けている弟」の姿にやがて苛立ちを感じはじめる。母親は帰宅したものの、主人公にとって《母親の不在》は本質的に解消しておらず(「私は、ようやく母が戻って来たというのに、少しも幸せな気持になれませんでした」)、そこに自身と同列の(あるいは優位な)立場で母親の愛情を争う敵対者としての他者を見出した彼女は、「蝉の姿」を弟に重ね合わせていく(というよりもむしろ、何とか「蝉」を重ね合わせようとした、と捉えるべきかも知れない)。
    (i) 弟は、私を見て、誇しげに笑いました。少なくとも、私には、そう見えました。生意気な奴。私は、そう思い、こらしめるために、弟の耳を引っ張りました。強く引っ張り過ぎたのでしょうか。弟は火の付いたように泣き出しました。私は、驚いて、弟を抱き上げて、あやそうとしました。母に叱られるのが恐しかったのです。(中略)弟は、それでも、泣き止もうとはせずに、声を張り上げ、絶叫しているという感じで泣き続けました。私は苛々して来ました。/「うるさいなあ!!」/私は、諦めて弟を下に降しました。その時、私は、すべてを呪ったあの日の午後を思い出しました。いけない、私は、自分で自分を落ち着かせようとしました。けれど、遅かったのです。私は、こう叫んでいました。/「あんたなんか死んじゃえばいいのに!」 /いきなり、母が私の肩をつかみました。そして、私の下着を降すと、お尻を叩き始めました。
 「母に叱られるのが恐しかった」のも、より劣勢に立つことを恐れる子供らしい打算、あるいは肯定されたい自己の欲求によるものであろう。お尻を叩かれている間も、彼女は「歯を食い縛」って涙をこらえ、「弟を見据えて」いた。しかしながら、やがて母親に抱き上げられた弟が「すぐに泣き止み笑い始め」るのを見たとき、とうとう彼女は「盛大に泣き始め」てしまう。

    (j)「ごめんね。でも、真実がいけないのよ」/私は母の優しい言葉を耳にして、益々、泣きたい気持になりました。私は自分の心の中に何か暖かなものが、注がれて来るように感じました。その時、私は、自分こそが、おなかを空っぽにして泣き続ける蝉であったことに気付いたのでした。空洞を満たしてもらいたいと願いつつ人間が泣くということを思い、私は、とてもせつない気持でいっぱいでした。私こそ死んじゃえばいいのに。私は甘い気分で、そう思いました。
 既に主人公の中では、蝉とクラスメイトや叔母が同列の「ただのはかない生き物」として俯瞰されていたし、眼前で泣き続ける弟に対しても彼女はそう感じようと努めた。そんな彼女が、ここではじめて「私自身も同じ身の上であるということ」を発見したのである。

 かくて彼女の辿ったのが、(既に本稿第2章でも述べたように)感覚的・感情的な自己執着から、他者の存在とともに自己を対象化しうる論理的な自己認識へと到る道筋でもあったことが確認されるはずである。

○ ○

 感想C−(1)をこちらからの発問――「小4の女の子から、どうして赤ん坊ができるのかと尋ねられたら、君はどう答えるか?」――として教室に還元していくことも可能であろう。実際のところ、生徒たちからは迷答・珍答が続出したが、結局、本当のことを教えるのは恥ずかしくてできないというところに落ち着いた。そこでさらに、「では、なぜ(私たちは)恥ずかしいと思ってしまうのだろうか」という問いかけをおこなった上で、作品にたち返っていく。

 具体的には、主人公にもたらされた《弟の誕生という事態》と彼女の《セックスに関わる問いかけ》に対する周囲の反応を、それぞれ主人公がどのように捉えているかを、まず、みておくことにする。

 引用(b)・(c)・(d)・(e)の箇所に開示されるごとく、主人公に赤ん坊の誕生を告げた父親は彼女からの問いかけに戸惑いを隠せなかったし、クラスメイトたちの反応は冷やかしや笑いをともなった興味本位のものであった。叔母も主人公の問いかけに対し、やはり笑いでもって応えている。クラスメイトたちが「おもしろがって」、おそらくは「内緒話でもするように」「声をひそめ」て語ったであろうセックスの問題を、主人公もまた「小声で話されるべきこと」として認識している。なぜならば、それは「すけべ」(引用(c))で、「いやらしい」(引用(g))行為だったからだ。 また、だからこそ、自身の問いかけは「父を窮地に落とし入れること」たりえたし、心の内に「熱くて暗いもの」を感じていた彼女にとって、父親の「うきうきとした様子」や「照れ臭そう」な姿は「不気味」なものに映じ、先生の祝福の言葉は「不思議」なものとして響き、叔母の言葉(「すっごく楽しいことするんだよ」)は憎悪の対象となった。

 ここで、次の作業となるのは、主人公のこうした認識が彼女の内面の変転とともに、どのように変わったのかを捉えることである。

    (k)「よかったなあ。お姉さんになるんだなあ。先生が、そうだから良く解るけど、ひとりっ子はつまんないもんな。兄弟がいるって、いいことだぞ」/私は、姉になる実感など、まるでなかったので、黙って先生の話を聞いていました。誰もが、私に幸福がもたらされるような物言いをするのが不思議でした。私 は、ただ退屈を持て余しているだけなのに。

    (l) 男の子が私の耳許で囁いたことが本当なら、ずいぶんと変わっていると思いました。この赤ん坊が、そんなことの結果に、この世の中に生まれて来たのかと思うと、馬鹿馬鹿しい思いでいっぱいになりました。私自身も同じ身の上であるということを、その時、私は、すっかり忘れていたのです。
 引用(k)は学校で先生に祝福される場面、引用(l)は両親が家に連れ帰った弟に夢中になっている場面に織り込まれたものだ。したがって、ここには、まだ感覚的・感情的な自己執着の段階にある主人公の実感が開示されている。しかし同時に、論理的な自己認識へと到った後の彼女の「すけべ」で「いやらしい」行為に対する捉え返しの内実がそこに逆照射されてもいるのである。すなわち、それは、「赤ん坊が、そんなことの結果に、この世の中に生まれて来たのかと思うと、馬鹿馬鹿しい思いでいっぱいになりました」という言葉の対極にある認識であるほかない。

 あくまでも蓋然〔がいぜん〕性の問題となるが、他者の発見と自己の対象化を主人公がなしえたことを考え合わせるならば、右の「そんなこと」は、やがて、はかないがゆえにかけがえのない生命をかたちづくる行為として再認識されていくとみるべきであろう。のみならず、《弟の誕生という事態》によってもたらされる「姉になる実感」や「幸福」もまた、自己と他者との関係性の中で生成し、育まれるものとしてあることを確認しておきたいと思うのである。



.□ 第5章 □.

 私がはじめて《山田詠美》を国語教室へ持ち込んだのは、1992年度の高3普通科・必修選択「現代文(b)」(4単位)の授業である。

 生徒たちは寝ているか騒いでいるかが常態の、火曜日に2時限連続、金曜日に2時限連続という時間割設定の中で、彼らを作品に向き合わせること自体が残念ながらかなり困難な国語教室であった(しかも教科書のない単独科目ゆえ、私は独りで不断に教材を準備し続けなければならない。いまの私ならば、「教科書」や他の担当者との所謂「共通範囲」「共通問題」(注11)に縛られることのないこのような授業枠は大歓迎である。しかしながら、その年の四月に赴任したばかりの私にとって、この授業枠は、教材選定や授業形態をも含むあらゆる面にわたり、むしろ悪戦苦闘を強いるものとしてあった)。だが、それゆえに却って、彼らを惹きつけることのできた作品(教材)は、それなりに本物であると私は考えている。年間20篇におよぶ取り組みの中で、生徒たちの関心を惹いた作品の数は必ずしも多くはなかったが、「風葬の教室」はその中の1篇となった。

 私は《山田詠美》の所謂「愛読者」では決してない。実際のところ、「風葬の教室」も「蝉」も、《私的な読書》においてではなく、《教材さがし》の過程で出会った作品なのである。しかしながら、幾度かの授業実践を通じて、少なくとも、彼女の小説が持つ教材としての力――それはとりもなおさず、作品の力ということになるのかも知れないが――を、私は信じている。




.▽ 注 ▽.

(11)教育解放研究会「共通問題」(『学校のことば 教師のことば』、東方出版、1994年)。


【付記】
 実物で確認してはいないのだが、【「現代文」教科書教材リスト】(『国語教室』第55号、大修館書店、1995年5月)によると、山田詠美の短篇「ひよこの眼」が、新指導要領に基づく「現代文」教科書のうち、次の2点に収載されている由である。

〇三省堂『現代文』
〇日本書籍『新版高校現代文』(平成8年度用)

 この作品は、「晩年の子供」や「蝉」と同じ短篇集の中の1篇でもあり、上記教科書の「指導書」の記事についても、是非検討してみたいと私は思っている。



.□ 読者通信 □.

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