北原白秋
「思ひ出」より 夜 よる う ら 夜は黒……銀箔の裏面の黒。 なめ がたうみ 滑らかな潟海の黒、 さげまく さうして芝居の下幕の黒、 幽霊の髪の黒。 くちなは 夜は黒……ぬるぬると蛇の目が光り、 おはぐろの臭のいやらしく、 せんきんたん かばん 千金丹の鞄がうろつき 黒猫がふはりとあるく……夜は黒。 ぬすびと 夜は黒……おそろしい、忍びやかな盗人の黒、 じゃのめがさ 定九郎の蛇目傘、 くび さは 誰だか頸すぢに触るやうな、 しにぼたる はね 力のない死螢の翅のやうな。 ふしぎ 夜は黒……時計の数字の奇異な黒。 血汐のしたたる なま はさみ 生じろい鋏を持つて いきぎもとり 生胆取のさしのぞく夜。 つぶ 夜は黒……瞑つても瞑つても、 たましひ 青い赤い無数の霊の落ちかかる夜、 耳鳴の底知れぬ夜、 暗い夜、 ひとりぼつちの夜、 夜……夜……夜…… |
BACK
NEXT [北原白秋] [文車目次] |