梁塵秘抄 巻第二 法文歌 雑法文歌

 
われら   なん   お           おも
我等は何して老いぬらん 思へばいとこそあはれなれ
         ごくらく          ちかひ
今は西方極楽の 弥陀の誓を念ずべし
 
(235)
 

大意……

我々はいつの間に老いてしまったのだろうか、考えるだに悲しいことだ。
もう今は、衆生を極楽浄土へと救って下さるという阿弥陀さまの誓願におすがりするしかない。






 その日その日を送っている内に、ある日愕然と自分の老いを自覚させられ、深い徒労感を抱いて、悲しみに思わずうずくまってしまった老人達の、深い深い溜息が聞こえそうな気がする歌です。同時に、その想いが阿弥陀如来にすがってせめて来世は極楽に行こうとする、極楽浄土への熱い信仰へと高まってもいます。

 昔の人々にとっては、それがせめてもの心の慰めであり、同時に、死の不安を沈める切ないばかりの願いだったのでしょうか。

 この少し後ろにはこんな歌もあります。

    暁静かに寝覚めして 思へば涙ぞ抑へ敢(あ)へぬ
         はかなく此の世を過ぐしては いつかは浄土へ参るべき (238)


 老人は、いつの時代も寂しいものなのでしょう。けれど、現代は昔ほど信仰に拠り所を持てない分、老いの寂しさはもっと深刻かもしれません。


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