萩原朔太郎
『月に吠える』より

  
  春夜


 
淺蜊のやうなもの、
 
蛤のやうなもの、
 
みぢんこのやうなもの、
 
それら生物の身體は砂にうもれ、
 
どこからともなく、
 
絹いとのやうな手が無數に生え、
 
手のほそい毛が浪のまにまにうごいてゐる。
 
あはれこの生あたたかい春の夜に、
 
そよそよと潮みづながれ、
 
生物の上にみづながれ、
 
貝るゐの舌も、ちらちらとしてもえ哀しげなるに、
 
とほく渚の方を見わたせば、
 
ぬれた渚路には、
 
腰から下のない病人の列があるいてゐる、
 
ふらりふらりと歩いてゐる。
 
ああ、それら人間の髪の毛にも、
 
春の夜のかすみいちめんにふかくかけ、
 
よせくる、よせくる、
 
このしろき浪の列はさざなみです。