中原中也「在りし日の歌」


   
  思ひ出


 
 お天気の日の、海の沖は
 
 なんと、あんなに綺麗なんだ!
 
 お天気の日の、海の沖は
 
 まるで、金や、銀ではないか
 

 
 金や銀の沖の波に、
                  みさき
 ひかれひかれて、岬の端に
 
 やつて来たれど金や銀は
 
 なほもとほのき、沖で光つた。
 

 
 岬の端には煉瓦工場が、
 
 工場の庭には煉瓦干されて、
              あかあか
 煉瓦干されて赫々してゐた
 
 しかも工場は、音とてなかつた
 

 
 煉瓦工場に、腰をば据ゑて、
 
 私は暫く煙草を吹かした。
 
 煙草吹かしてぼんやりしてると、
 
 沖の方では波が鳴つてた。
 

 
 沖の方では波が鳴らうと、
 
 私はかまはずぼんやりしてゐた。
 
 ぼんやりしてると頭も胸も
 
 ポカポカポカポカ暖かだつた
 

 
 ポカポカポカポカ暖かだつたよ
 
 岬の工場は春の陽をうけ、
 
 煉瓦工場は音とてもなく
                  な
 裏の木立で鳥が啼いてた
 

 
 鳥が啼いても煉瓦工場は、
 
 ビクともしないでジッとしてゐた
 
 鳥が啼いても煉瓦工場の、
 
 窓の硝子は陽をうけてゐた
 

 
 窓の硝子は陽をうけてても
 
 ちつとも暖かさうではなかつた
 
  春のはじめのお天気の日の
 
 岬の端の煉瓦工場よ!
 

 
 
               *           *
                     *           *

 

                     すた
 煉瓦工場は、その後廃れて、
 
 煉瓦工場は、死んでしまつた
                   ガラス
 煉瓦工場の、窓も硝子も、
      こは
 今は毀れてゐようといふもの
 

 
 煉瓦工場は、廃れて枯れて、
 
 木立の前に、今もぼんやり
 
 木立に鳥は、今も啼くけど
 
 煉瓦工場は、朽ちてゆくだけ
 

 
 沖の波は、今も鳴るけど
 
 庭の土には、陽が照るけれど
 
 煉瓦工場に、人夫は来ない
 
 煉瓦工場に、僕も行かない
 

  かつ
 嘗て煙を、吐いてた煙突も、
 
 今はぶきみに、たゞ立つてゐる
 
 雨の降る日は、殊にもぶきみ
 
 晴れた日だとて、相当ぶきみ
 

 
 相当ぶきみな、煙突でさへ
 
 今ぢやどうさへ、手出しも出来ず
      ぼうだい   ふるつはもの
 この尨大な、古強者が
 
 時々恨む、その眼は怖い
 

 
 その眼は怖くて、今日も僕は
 
 浜へ出て来て、石に腰掛け
         うつむ
 ぼんやり俯き、案じてゐれば
 
 僕の胸さへ、波を打つのだ