中原中也「在りし日の歌」


   
  ゆきてかへらぬ
          ――京都――



                                           そそ            ゆす
 僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒ぎ、風は花々揺つてゐた。
 

                                           あかあか                うばぐるま
 木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々と、風車を付けた乳母車、
 
いつも街上に停つてゐた。
 

                                                  みより      か ざ み
 棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者なく、風信機の
 
上の空の色、時々見るのが仕事であつた。
 

 
 さりとて退屈してもゐず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜
 
は、常住食すに適してゐた。
 

 
 煙草くらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけに
 
僕としたことが、戸外でしか吹かさなかつた。
 

                も ち も の                                          ふとん
 さてわが親しき所有品は、タオル一本。枕は持つてゐたとはいへ、布団
                      は ぶらし
ときたらば影だになく、歯刷子くらゐは持つてもゐたが、たつた一冊ある
 
本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのも
 
のだつた。
 

 
 女たちは、げに慕はしいのではあつたが、一度とて、会ひに行かうと思
 
はなかつた。夢みるだけで沢山だつた。
 

 
 名状しがたい何物かゞ、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希
 
望は胸に高鳴つてゐた。
 

 
                     *                    *
 
                                *

 

 
 林の中には、世にも不思議な公園があつて、不気味な程にもにこやかな、
 
女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、
 
表情してゐた。
                          く も
 さてその空には銀色に、蜘蛛の巣が光り輝いてゐた。