上田敏「海潮音」

  まひる
 真昼

ルコント・ドゥ・リイル




        みかど   まひるどき      おほの
 「夏」の帝の「真昼時」は、大野が原に広ごりて、
 しろがねいろ  ぬのびき   あをぞら      あもり 
 白銀色の布引に、青天くだし天降しぬ。
 じやく          けしき           こくう
 寂たるよもの光景かな。耀く虚空、風絶えて、
 ほのほ        まと      つち   うまい  しづごころ
 炎のころも、纏ひたる地の熟睡の静心。
 

  めぢびようぼう     きはみ     こかげ
 眼路眇茫として極無く、樹蔭も見えぬ大野らや、
  まき けもの         ば        か
 牧の畜の水かひ場、泉は涸れて音も無し。
                     すそ さかひ すぢ
 野末遙けき森陰は、裾の界の線黒み、
                  じやくまく
 不動の姿夢重く、寂寞として眠りたり。
 

                    おうごんかい  つら
 唯熟したる麦の田は黄金海と連なりて、
              たゆたひ          おぞ  あざ
 かぎりも波の揺蕩に、眠るも鈍と嘲みがほ、
        つち            こ ら
 聖なる地の安らけき児等の姿を見よやとて、
  おそ はばか               さかづき  の
 畏れ憚るけしき無く、日の觴を嚥み干しぬ。
 

       わくらば
 また、邂逅に吐息なす心の熱の穂に出でゝ、
 つぶやきごゑ            ひげながかひ
 囁 声のそこはかと、鬚長頴の胸のうへ、
               ゆさぶり           あて
 覚めたる波の揺動や、うねりも貴におほどかに
                       すな
 起きてまた伏す行末は沙たち迷ふ雲のはて。
 

                               はくぎゆう
 程遠からぬ青草の牧に伏したる白牛が、
  ししおき   のどぶくろ よだれ  ぬ    ものう
 肉置厚き喉袋、涎に濡らす慵げさ、
  たへ  けだか   まなざし        わづらひ  う
 妙に気高き眼差も、世の煩累に倦みしごと、
  つひ                     ちまた
 終に見果てぬ内心の夢の衢に迷ふらむ。
 

       いまし
 人よ、爾の心中を、喜怒哀楽に乱されて、
 こうみようどう  このはら   まひる  ひと
 光明道の此原の真昼を孤り過ぎゆかば、
  の                       す    うつろ        や
 逃がれよ、こゝに万物は、凡べて虚ぞ、日は燬かむ。
                        よろこび
 ものみな、こゝに命無く、悦も無し、はた憂無し。
 

       なんだ しようせい まどひ     ばんしよう
 されど涙や笑声の惑を脱し、万象の
  るてん   そう  ぼう            かわき   せち
 流転の相を忘ぜむと、心の渇いと切に、
  うつそみ      ゆる            のろ
 現身の世を赦しえず、はた咀ひえぬ観念の
 まなこ
 眼放ちて、幽遠の大歓楽を念じなば、
 

              てんじつ          のり
 来れ、此地の天日にこよなき法の言葉あり、
          えんじよう  むげん
 親み難き炎上の無間に沈め、なが思、
 
 かくての後は、濁世の都をさして行くもよし、
      なな   ニルヴアナ
 物の七たび涅槃に浸りて澄みし心もて。



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