上田敏「海潮音」
礼拝 フランソア・コペエ
さても千八百九年、サラゴサの戦、 さんたん われ時に軍曹なりき。此日惨憺を極む。 街既に落ちて、家を囲むに、 閉ぢたる戸毎に不順の色見え、 鉄火、窓より降りしきれば、 に 「憎つくき僧徒の振舞」と ののし かたみに低く罵りつ。 あけがた 明方よりの合戦に 眼は硝煙に血走りて、 に はやごう 舌には苦がき紙筒を 噛み切る口の黒くとも、 ま 奮闘の気はいや益しに、 いきほひもう 勢猛 に追ひ迫り、 こくいちようほう そげき 黒衣長袍ふち広き帽を狙撃す。 こうじ 狭き小路の行進に とざま、かうざま顧みがち、 にん われ軍曹の任にしあれば、 精兵従へ推しゆく折りしも、 こつねん なかぞら 忽然として中天赤く、 こうろ こうぜつ 鉱炉の紅舌さながらに、 虐殺せらるゝ婦女の声、 ごうごう おと 遙かには轟々の音とよもして、 ふくしるいるい 歩毎に伏屍累々たり。 こごん 屈でくゞる軒下を 出でくる時は銃剣の りんり 鮮血淋漓たる兵が、 ちべに 血紅に染みし指をもて、 壁に十字を書置くは、 ひそ 敵潜めるを示すなり。 鼓うたせず、足重く、 将校たちは色曇り、 てだれ ふるつはもの さすが、手練の 旧兵 も、 落居ぬけはひに、寄添ひて、 新兵もどきの胸さわぎ。 きよくかく 忽ち、とある曲角に、 援兵と呼ぶ仏語の一声、 それ、戦友の危急ぞと、 駆けつけ見れば、きたなしや、 ひごろ た 日常は猛けき勇士等も、 しようじや 精舎の段の前面に たゞ僧兵の二十人、 えんちよう こくき 円頂の黒鬼に、くひとめらる。 真白の十字胸につけ、 り り 靴無き足の凜々しさよ、 かひな 血染の腕巻きあげて、 大十字架にて、うちかゝる。 惨絶、壮絶。それと一斉射撃にて、 そうとう やがては掃蕩したりしが、 う 冷然として、残忍に、軍は倦みたり。 やま 皆心中に疾しくて、 さつりく とかくに殺戮したれども、 すで を 醜行已に為し了はり、 密雲漸く散ずれば、 かばね 積みかさなれる屍より きざはし べに 階かけて、紅流れ、 そび ぎぜん そのうしろ楼門聳ゆ、巍然として鬱たり。 とうみよう こんじき 燈明くらがりに金色の星ときらめき、 せいじやく か 香炉かぐはしく、静寂の香を放ちぬ。 むか 殿上、奥深く、神壇に対ひ、 かろう おと 歌楼のうち、やさけびの音しらぬ顔、 しめ ごんぎよう 蕭やかに勤行営む白髪長身の僧。 ああ おもかげ 噫けふもなほ 俤 にして浮びこそすれ。 モオル廻廊の古院、 黒衣僧兵のかばね、 天日、石だたみを照らして、 けぶり 紅流に烟たち、 ろうろう かまち 朧々たる低き戸の框に、 立つや老僧。 づし 神壇龕のやうに輝き、 あぜん 唖然としてすくみしわれらのうつけ姿。 げにや当年の己は 空恐ろしくも信心無く、 しようじや だつりやく 或日精舎の奪掠に 負けじ心の意気張づよく みあかし 神壇近き御燈に らんぎようもの 煙草つけたる乱行者、 うはぞりひげ きおひ 上反鬚に気負みせ、 一歩も譲らぬ気象のわれも、 たゞ此僧の髪白く白く かみさ かしこ 神寂びたるに畏みぬ。 「打て」と士官は号令す。 あつ 誰有て動く者無し。 僧は確に聞きたらむも、 そぶりかうがう さあらぬ素振神々しく、 たいばん 聖水大盤を捧げてふりむく。 らいはいなかば ミサ礼拝 半に達し、 しそう 司僧むき直る祝福の時、 かいな かくよく 腕は伸べて鶴翼のやう、 しゆうみな 衆皆一歩たじろきぬ。 僧はすこしもふるへずに 信徒の前に立てるやう、 よどみ わさん 妙音澱なく、和讃を咏じて、 きみようちようらい 「帰命頂礼」の歌、常に異らず、 声もほがらに、 なんぢら 「全能の神、爾等を憐み給ふ。」 またもや、一声あらゝかに 「うて」と士官の号令に 進みいでたる一卒は なうて 隊中有名の卑怯者、 じゆうと 銃執りなほして発砲す。 あを 老僧、色は蒼みしが、 まなこ 沈勇の眼明らかに、 祈りつゞけぬ、 「父と子と」 続いて更に一発は、 ちまよひ 狂気のさたか、血迷か、 ごう をは とかくに業は了りたり。 かたうで 僧は隻腕、壇にもたれ、 あ 明いたる手にて祝福し、 おうごんばん 黄金盤も重たげに、 こくう おんしや しるし 虚空に恩赦の印を切りて、 おんじよう かすか 音声こそは微なれ、 げき 闃たる堂上とほりよく、 めいもく 瞑目のうち述ぶるやう、 「聖霊と。」 たふ らいはい かくて仆れぬ、礼拝の事了りて。 ばん しようじよう 盤は三度び、床上に跳りぬ。 事に慣れたる老兵も、 おそれ 胸に鬼胎をかき抱き 足に兵器を投げ棄てて われとも知らず膝つきぬ、 醜行のまのあたり、 殉教僧のまのあたり。 りようじ 聊爾なりや 「アアメン」と うしろに笑ふ、わが隊の鼓手。 |
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