さわやか日記
(2004.10.16〜12.11)
痴性と狂養のコンサート 子供の心はワイングラス 高尾山 ばーさまとぺ・ヨンニュン
女の恐ろしさ 長芋と不老不死 二人の大男を撃破 世界一の巨木と日本三大木 おめでたい人
古代都市遺跡と核戦争 古代文明都市「モヘンジョ・ダロ 小説・光の妖精 新宿御苑にて
生きながら火に焼かれて 強制でないことが望ましい 奇蹟 一刻と未来永劫 明和の大津波
首を挟まれた男 アカミー・ウマ インド仏教消滅の背景(最終回) 釈迦の入滅とテーラワーダ仏教 伝道
12月11日(金) ペニスケースが出来たわけ旧約聖書によりますと、この世を作ったのはヤハウェという神様だそうです。では、そのヤハウェ神を作ったのは誰かと聞きますと、ヤハウェが元始まりだからそんなのはない、ということです。
・・・素直でないですね? 神様であれ、分からないことがあれば、尊厳と威信に執着しないで正直に「分かりましぇーん」と質問者に謝るべきであります。
さらに、それはいつの頃ですか? と聞きますと、漠然とした答えで幻想的であります。人間のほうがより具体的にそのことに関しては知っております。太陽が50億年前、地球が46億年前であります。そして、生命の誕生が40億年前であります。
次に、ヤハウェ神の申しますことには、粘土を材料として「アダム」という男を作り、エデンの園に住まわせたということです。
しかし、彼はただ、ぶらぶらと遊んでいたわけではありません。楽園の管理をし、動植物にそれぞれ名前をつける仕事を与えられたのであります。
それから、1人ぼっちでは寂しいだろう、というヤハウェ神の親心でアダムの肋骨を一本抜き取って、それから「イブ」という名の女を作ったのであります。二人は素っ裸でありました。
もちろん、現代人のように ”恥ずかしいー” なんっていう感情はなかったのです。そして、肉体的に成熟しておりますので、あれも盛んにおやりあそばされたと思います。
そうこうしている内に、ヤハウェは二人に命じます。
「あっちに実っているリンゴの実は絶対に食べてはならない。もし,食べたらここを追い出す。分かったか!」
二人は勿論、”食べません”と誓います。・・・しかし、ヤハウェ神は考えが甘かったですね? そんなことを言うべきではなかったのです。アダムとイブは、その時まではリンゴを食べようとは思わなかった。しかし、それが禁じられたから食べたくなったのであります。
禁断の実を食べた罪、それはヤハウェ神にあるのであって、アダムとイブは被害者にすぎないのであります。二人は義務教育も受けていないし、精神年齢は3歳児ですから、ちゃんとした保護と愛情が必要であったのではないのでしょうか?
そんなことはどうでもいいことですが、禁断の実を食べますと知恵が出てまいりまして、お互いの裸を恥じるようになります。それで、イブは木の葉っぱで陰部を隠し、アダムはペニスケース(コテカ)を装着するようになったのでございます。
ヤハウェ神は禁断の実を二人が食べたことを知って、激怒、泥で固め作った地上へ追放したのであります。これは完全な児童虐待であります。
虐待親が今でもあとを絶たないのは彼の責任であります。子供は親の私物ではない。愛と思いやりをもって優しく、正しく育てましょう! これは余計なことですが、要するに、ペニスケースがなぜペニスケースかと申しますと、男の本能に根源があります。
つまり、これまで素っ裸でありましたので、男は女に己の性器を誇示することが出来た。その逞しさを培うことによってお床の中の男を発揮したわけであります。
獲物を追っかけて草原を走る。すると男のシンボルが激しく揺れる。女はそれにうっとりする。男はそれを意識し、さらにいきり立って獲物を追いかけて仕留める。
ところがであります。知恵が出て羞恥心が出てまいりますと、なぜか下半身を隠すようになります。
すると、性器が見えなくなって女心を引かなくなりますので、何とかそれを連想させるものはないか、と考え出したのがペニスケースであります。文明社会における男性のベニスケースに代わるものはやはり”ネクタイ” でしょうね?
その名残は今でも伝統を守っておりまして、西部ニューギニアの中央高地、パプア・ニューギニアの西部山岳部に住むラニ族、ホリム,モニ族など、さらに イリアンジャヤ州の中央山岳地帯に暮らす、ダニ族やヤリ族、アフリカのコンカガ族、裸族、バリ島の原住民、その他いろいろな部族によって太古からの文化が守られております。
そのペニスケース、ヒョウタンやカボチャの仲間、あるいはヘチマなどから作れておりまして、最大で長さ80センチ、直径15センチのものがあります。
紐を付けて腰に巻きつけるのでありますが、そそり立つその威容はなんと申しましょうか、アダムの悲哀、ヤハウェの策略と陰謀、サディズムを感じさせられます。その伝統、いつまでも続いてほしいですね?
12月10日(金) 偉大な医者と将軍
足の親指の爪の中に白いものが出来た。最初は小さな点であったのが、それが次第に広がってきたのであります。これは水虫であります。
それで駅前の皮膚科へ行った。待合室は老若男女でいっぱいであります。待つこと2時間、ようやく呼び出されて診察室へ入りますと、70過ぎの医者が診察をいたしました。
「ん、どれどれ、・・・これは水虫だ。世界で一番安全な飲み薬をやるから、直るまで飲み続けなさい。それに念のため血液検査をやる。その結果と2週間後の血液検査の結果を照合して、この薬が合うかどうかを判断する。まあ、安全な薬だから、大丈夫だけど、念のためだ、わはははははー・・・」
何のために笑ったのか、理解に苦しみましたが、これも日本人の悪い癖であります。・・・というわけで、最初の血液検査の結果は異常なし。
肝機能のGOT=15 GPT=14 γ-GTP=26 中性脂肪=86 HDLコレステロール=105 その他いろいろ正常範囲内でありました。毎年役所が行う健康診断の結果と同じであります。
それから薬を飲み続けたのですが、身体がだんだんおかしくなってまいりました。水虫のほうは快方へ向かっておりますが、体がだるい。
耳鳴りがひどくなり、お腹が張って、ついには頭痛であります。耳鼻科へ行って耳の検査をいたしましたが異常なし、結局、悪性の風邪に違いないと自己判断して風邪薬を飲んだりいたしました。
肩が凝っておりますのでマッサージ器で揉み解したり、ラジオ体操をしたり、太極拳のまねごとをしたり、・・・すると、かなり身体が楽になってまいりました。
そして、2週間経ちましたので再び病院へ行きました。医者は例の笑い声を連発しながら私の足の親指をチャックし、大きくうなづきながら言った。
「おお、だいぶよくなっている。また、2週間分、薬を出すから根気良く飲み続けなさい、わはははははははー・・・」
そして、採血されたあと病院を出て、真向かいの薬局で処方箋の薬を貰って帰った。血液検査の結果は異常があれば電話するが、電話がなければ異常なし、と思いなさい、ということでありました。
ところが3日後の昨日、病院から電話があった。異常事態だから、明日来るように、とのことであった。ばーさんは顔面蒼白、私は耳鳴りのオーケストラでありました。・・・本日、昼前、病院へ行きますと、医者はのんびりであります。
「ん? 確か、2・3日前に来たのじゃないのか? 2週間後でいいんだよ・・・? ア、そうか、血液検査の結果を知らせねばならなかったのだ、わははははははー」
そして、その結果が吃驚であります。何と、肝臓がものすごく悪くなっているのであります。 肝機能のGOT=151 GPT=240 γ-GTP=500 となっているのであります。
これは正常値を10倍も超えておりまして、入院を必要とする、と医学書に書いてあります。
私は吃驚、何でこうなっているのですか? と尋ねた。答えは薬が合わなかった、ということであった。 たった2週間で肝臓を破壊する薬、世界一最も危険な薬であります。
「薬を飲むのは全面的に中止し、酒、煙草もやめなさい。身体を安静にすることが大切だ。そうすればまたすぐ、元に戻る、わはははははははー」
私は煙草をやめて20年になるし、ビールを止めて20日になる。全く、困った医者であります。肝臓を良くする薬を出す、と言いましたので断った。
「肝臓をよくする薬を飲んで、肝臓が悪くなったら困りますので、遠慮いたします、ぐわっはっはっはっはっはっはははははははー」
私は、そのまま病院を出ました。
単子論で有名なドイツの哲学者・ライブニッツ(1646〜 1716)が言っています。
I often say a great doctor kills more people than a great general.(私はよく言うのだが、偉い医者は、偉い将軍よりも多くの人を殺す)
今度のことでそれが実感できました。私は自分の身体に自信があります。薬をやめれば2週間で元の肝臓に戻ることは確実であります。
皆さんも薬はあまり飲まないようにして、身体のパワーを信じて病の元を断ち切りましょう! 病は気からです。ファイトイッパツ、やる気満々、気力充実でいきましょう!
ところで、第2次大戦で戦死した人間は全世界で約1000万人、日本で約300万人となっております。
と言うことは、偉い医者はそれ以上に人を殺す、ということなのでしょうか?怖いですね? では、皆さん、次の日記まで、元気でバイバーイ!
12月8日(水) ムユウジュ
姓はゴーダマ、名はシッダールタ、といえばお釈迦様の正式なお名前ですね? 釈迦とは、北インドの釈迦族の釈迦に由来するもので、釈迦族出身の仏陀という意味合いが含まれております。ですから正しくはお釈迦様ではなくて、釈尊、もしくは釈迦牟尼(しゃかむに)であります。
このお方はほんとに偉い方でありまして、分娩と同時に立ち上がって歩き、天と地を指差し、「天上天下唯我独尊」と言われたのであります。おそらく臍の緒は自分で、カッターナイフのようなものでお切りになられたのだと思います。
痛かったと思いますが、やはり、ただ者ではなかったということがはっきりいたします。今から約2469年前のことでありました。
お母様はマーヤ(摩耶)というお名前であります。出産のための里帰りの途中、ネパールのルンビニーというところで休憩を取ったのですが、そこに美しい花が咲いておりました。
その花がムユウジュで、インドではアソカと呼ばれています。インド〜マレーに原生するマメ科常緑樹で、高さ7〜8Mにもなる大型羽状複葉であります。
身重のマーヤ様は花の美しさにうっとりとし、無意識のうちにその一枝を折ろうといたしました。その時、マーヤの腋の下から釈尊が生まれたのであります。
これは不思議なことではありません。その当時はバラモンの祭式万能主義が全インドを支配しておりましたので、その教義が効力を発していたからです。バラモンが黒を白と言えば必ず白となるのでありました。
ですから、その当時の僧侶階級は頭から生まれ、ゴーダマ・シッダールタのような王族、武家階級は腋の下から、奴隷は膝から、アンタッチャブルは足の裏から生まれたのであります。不思議なことがあればあるものでございますね?
というわけでこのムユウジュはお釈迦様誕生に重要な役割を果たした偉大な花、ということになります。シヴァ神の奥様パールヴァティも大変この花がお好きだそうで、ご婦人方にとっては大変縁起の良い木であるそうです。
日本に導入されたのは昭和7年の6月で、8年後の7月に小石川植物園で日本初の開花をしております。現在、全国各地の植物園で植栽されておりますが、花を咲かすのは珍しいようです。
原生地のインド〜マレーでは2月から3月にかけて花を咲かし、大きな豆鞘にソラマメ大の種子が出来るそうです。日本では残念ながら今のところは出来ておりません。花びらは退化してなくなり、代わりに萼がオレンジ色も色鮮やかに輝くのであります。
樹皮は薬用として使われ、材は家具の部品にも利用されます。・・・以上でムユウジュについての調査結果を報告をいたしました。
12月7日(火) 痴性と狂養のコンサート
日曜日、風邪で体調が非常に悪いので寝ておりますとばーさんが怒鳴った。
「あーた、今からコンサートに行く。さっさと着替えて準備しなさい。一ヶ月前からの予定だから絶対に行く。わかったかー」
私は風邪をこじらせて耳鳴りがひどい。耳鳴りオーケストラで十分であります。しかし、ばーさんの機嫌を壊しますと爆弾低気圧が荒れ狂うことになりますので、お供させていただくことにしました。
場所はすぐ近くの市民センターホールであります。楽団は 「清瀬管弦楽団」 約40人のメンバーで構成されております。下は18歳から上は70歳までの幅広い年齢層であります。毎週土曜日に集まって練習しているそうであります。
バーさんと私は最前列の椅子に座った。ステージはなく、目の前に楽団の方々がずらりと並んでおります。お客は300人ほどで、部屋は満杯となった。
午後2時開演、司会者の緊張気味のお喋りのあと一曲目の「ブルータンゴ」が始まった。ルロイ・アンダーソンの作曲であります。見事な演奏でありますが、時々どこかで狂った音が出たりした。
後ろで子供がギャー、ギャー泣いたり、奇声を上げたり、飛び入り効果音抜群の演奏であります。
曲が変わるたびにばーさんは作曲者の名前を私に教えた。プログラムにちゃんと書いてあるものです。
「この曲の作曲者は、モーツアルト、・・・5歳でピアノの作曲をして、6歳でウイーンやミュンヘンの宮廷で演奏して神童と言われたのよー」
おしゃべりは淀むことなく続き、音楽を落ち着いて聴くどころの騒ぎではありません。それに換気扇の風がまともに私の横顔に当たりますので気分がますます悪くなってくる。
F・ロウの "マイフェアレディ"が終わったところで15分間の休憩となった。 私は部屋を出て中央広間のソファーに腰掛けた。ばーさんは横に座り、相変わらずクラシック音楽についていろいろと話してくる。私はただ聞くだけであります。
「アーた、音楽の父って知っている? ・・・”ヨハン・セバスティアン バッハ”、・・・音楽の母は? ”ヘンデル”、 これぐらい常識だからちゃんと覚えておいてね ! 私って、自分で言うのもなんですけど何でも知っているのねー、おほほほっほっほっほっほ-ははは-]
そこで質問した。
「ところでバイオリンの弓の弦は何で出来ているのでありますか?」
「え? それは、・・・運命の赤い糸とちゃうか?」
「・・・馬のしっぽの毛だそうです。では、ピアノの鍵盤はいくつで、ピアノ線は何本あるのでございますか?」
「え? ・・・そんなこと、ピアノを作る人の専門分野だから、こっちが知っていると大変失礼になる。余計な詮索はしないほうがいいわよ・・・」
「これは常識ですので、知性と教養豊かな夫を持つ妻として知っておかねばなりません。ピアノの鍵盤は88、ピアノ線は一つの鍵盤に2〜3本使いますので、約200本あることになります」
ばーさんは腹立たしそうに応えた。
「知性と教養豊かな夫? それは痴性と狂養豊かな馬鹿夫のことでしょう! 休憩時間は終わりよー、さっさと席に戻りましょう・・・」
ということで最後まで耳鳴りと管弦楽器のオーケストラを楽しんでまいりました。おかげで翌日は頭痛と耳鳴りの一日、ひどい目にあいました。
今朝は、元気回復、かすかな耳鳴りのオーケストラを楽しんでおります。 ・・・馬のしっぽと、ピアノ線のことは、家を出る前に百科事典を開いて偶然に知っておりました。ラッキーですね? ぐわっはっはっはっはっはっははははー・・・。 ん? 大変失礼いたしました!
皆さん、悪い風邪が流行っておりますので、外出から戻ってまいりましたら、ちゃんとうがいをいたしましょう!御身大切に、では今日も明日も明後日も、いつまでも、ファイトイッパーツ、頑張ろうー!
5・6年ほど前の話ですが、道路工事現場での昼食時、一台の高級乗用車が現場内に入ってきた。その先は行き止まりですので私の目の前で停車した。
進入禁止の看板を無視したか、それに気が付かなかったかのどちらかだと思いますが、いずれにしてもガードマンが昼食に行って不在だったのが大きな原因であります。
運転手は30代前後の美しいご夫人で、後部座席には幼い姉弟が乗っておりました。姉のほうが6歳、弟のほうが4歳ぐらいでした。ご婦人は困った顔で前後左右を見渡し、L型側溝の上で弁当箱を開いている私に視線を止めた。
「あのー、すみません、運転が下手なのでUターン出来ません。ちょっと代わっていただけませんか?」
車のフロントガラスには初心者マークが張られていた。こちらの責任でもありますので、私は詫びを入れた後、彼女と運転を代わることにした。
500万円以上はする高級乗用車なので汚れた作業服を脱ぎ、ズボンも着替えて運転席についた。道路幅は4メートル、Uターンには時間がかかる。
それならそのまま入り口までバックしたほうがいい、と判断し、私はギアーをバックに入れて走らせた。後ろを見ながらの運転ですので幼い姉弟と顔が合った。
二人は脅えた顔で私の顔を瞬きもせずに見つめ続けていた。運転に気をつけながら笑顔を見せたり、ウインクをしたりしたが二人の顔はますます恐怖に引きつっていくばかりであった。 ”まずい” と思いながらも、もう少しの辛抱と己に言い聞かし運転を続けた。
そのうち姉のほうが泣き出して弟の耳を引っ張ったり、頭をたたいたりした。頬をつねったり、引っ掻いたり、弟は反撃せずただ泣くだけであります。
私の風貌はランニングシャツ一枚に、日焼けした黒い顔、乱れた頭髪、・・・これはどう考えても人相が良いとはいえません。 姉弟には私が凶悪な鬼のように思えたのだ。
その二人の異常な行動に、突然、4歳の頃の記憶の断片が引き出された。母と姉と私の3人は洞窟に隠れているところを米兵に発見されて捕らえられ、十数人の避難民と共に軍用トラックに乗せられて捕虜収容所へと向かっていた。
銃を持った4名ほどの米兵が監視の目を光らせ、トラックの枠に背をもたせたり、中を分けて歩いたりした。
そのうちガラの悪い米兵が母に目をつけて近寄ってきた。彼はいきなり母の胸に手を入れて握り締めた。母は悲鳴を上げながらも必死に抵抗し、その手に噛み付いたり、たたいたりした。しかし、大男の米兵には何の影響も与えることは出来なかった。
7歳の姉が突然、私の耳を引っ張り、”泣きなさい” と叫んだ。 しかし、あまりの恐怖に私は声が出ない。姉の行動は激しくなり、顔をつねったり、引っ掻いたり、殴ったり、たたいたりした。私はついに大声を張り上げて泣いた。
悪米兵は大声で怒鳴った。黙れ!という意味だったと思う。私は無我夢中で母の胸を掴んでいる手に噛み付いた。彼は私の頭を掴んで押し倒した。そして、大声で喚きながら母の胸を触り続けた。
そのとき、上官らしき別の米兵が叫んだ。その一声に悪米兵は母を離し、別の場所へ移動した。青ざめている姉と、泣き声を上げ続ける私のところへ救いの米兵が近づき、片言の日本語で言った。
「ワルカッタ、ゴネンナサイネ、モー、ナニモシナイ・・・」
その一言に私は泣き止むことが出来た。 ”助かった” という安心感が広がったからであった。救いの米兵が神様のように思えた記憶が、今でも強く残っている。
この二人も59年前の姉と私の姿に違いなかった。姉は弟を虐めているのではない。弟を泣かすことによって私という恐怖の対象を撃退しようとしているのだ。
「おじさんが悪かった、ごめんなさい。なにもしない・・・、ほんとにおじさんが悪かった・・・、すぐに出て行きますからね・・・」
その言葉に二人は静かになった。私を見つめる顔から次第に恐怖の影が消えていった。ようやく車を表に出すと、外に出て母親と代わった。後部のガラス越しに、遠ざかる姉弟の顔がいつまでもこちらに向けられていた。
子供の心・・・、大人の言葉一つによって生かされたり、殺されたりするものです。子供の心はワイングラスのように扱いましょう!
11月30日(火) 高尾山日曜日、6年ぶりに高尾山へ行ってまいりました。最初に行ったのが14年前で、田舎から出てきたばかりの、西も東も分からないときでありました。
その時のイメージがとてもよかったので、それから毎年、2・3回は行くようになっていた。しかし、ここ6年間は仕事に追われて行く機会がなかったのであります。展望台からの眺めと、樹齢1000年を超える巨木の群生、森閑とした山の気に身も心も洗い清められるのでございます。
西武線から武蔵野線に乗り換えて、終点の府中本町で南武線に乗り換える。それから一駅目の分倍河原で下りまして、京王線に乗り換えます。タイミングよく特急が来ましたのでそれに乗って、15分ほどで高尾山入り口に着きました。
ところが着いてびっくりであります。何と、大混雑で、人ごみの大渋滞、ぎゅうぎゅう詰めで川沿いの道を歩かなければならなかった。その人の波に揉まれながら歩き、200メートルほどの登山口まで20分、それからリフトを待つこと30分でありました。
普通ですと歩いて頂上まで行くのですが、今回は膝を痛めておりますので仕方なくリフトに乗ることにしたのであります。しかし、リフトからの眺めは素晴らしい! 大空が迫り、その中に溶け込んでいくかのような錯覚に陥ったりします。
混雑は頂上まで続き、子供がダンゴを欲しがってダダをこね、大声を張り上げて泣いたり、「枡酒を買いたい」という老人を叱り飛ばすおばーさん、「あれー、うっそー、UFOが飛んでいるー」 と叫ぶ若いカップル、「そこに山があるから登るのだ・・・」と呟きながら歩く外人、・・・とにかく新宿駅前以上の大混雑でありました。おそらく、テレビで高尾山の紅葉が放映されたためだと思います。
これでは聖なる山の気と同化し、超然として悟りを開くことが出来ません。こうなったら私も世俗の汚濁にまみれて酒でも飲んだほうがいい。そこで、中腹の休憩所で枡酒を300円で買いまして、眼下の風景を俯瞰しながら飲みました。
「うまい、こんなうまい酒が飲めるとは、おれは幸せだー」
思わず、私は声に出してしまった。すると隣に座っておりました太った老人がにやりと笑いまして、
「兄弟、お前もそう思うか? おれもそう思う。乾杯といこうー」
そして枡酒をコンと合わせ、飛び散る酒の雫を素早く口で受け止めて口中を潤したあと、小鳥のさえずりを聴きながら静かに飲みました。これは悟りを開く以上の素晴らしい感動であります。そのあと老人はゴマセンベイをすすめた。私は頭を下げてそれをいただき、かじりながら頂上を目指した。
”悟りとは滅私有念有想、孤独になることである。求めぬ心に孤独はさわやかとなり、人の美しさに触れて己の心の汚濁を洗い清めてくれるのである”
頂上近くの仏閣に手を合わせたあと、私は山を下りました。
11月27日(土) ばーさまとぺ・ヨンニュン
男が見ますとぺ・ヨンニュン様はいい男ではない。それが、下は乳飲み子から、上は100歳過ぎの老婆に至るまで、あらゆる種類の女性から見ますと「いい男」となるから不思議であります。
泣いたり喚いたり、絶叫したり、ぺ・ヨンニュンさま出没の成田空港やホテルは大混乱、車にへばりついて目玉を剥き出すおば様、奇声を上げたり、髪を振り乱して飛んだり跳ねたり、一体、ヤマトナデシコの奥ゆかしさはどこへ消えたのだ。
そして、こちらのばー様もぺ・ヨンニュンの狂信者であります。
「あの顔、とろけるー、キャー、素敵、死ぬー、あんたと別れて、あの人と結婚したいわー・・・」
私はあまりいい気持ちではありません。いい気持ちどころか腹が立ってまいりました。
「・・・ならば、あいつと結婚したら? おれは寛大だ。お前の幸せはおれの幸せ、全面的に協力する。明日、おれは故郷の沖縄へ帰る。まあ、せいぜいしっかり頑張ってくれ!」
「冗談ですよ、あんたってやきもち焼きですね・・・」
「いや、冗談じゃない。もし、ぺ・ヨンニュンがお前に、結婚してくれ、と言ったら、お前はすぐにOKする。それがおれには許せない。お前とは絶対に離婚する」
「馬鹿だねー、あんたって。まるで、子供みたい、寛大じゃないねー」
「寛大だから身を引くのだ。おれは明日、絶対に帰る、分かったかー」
ばーさんの目が青白く光った。
「・・・あんたの魂胆は分かっている。私と別れて若い女を引っ掛けようと思っているんでしょう? 許せん、天に代わってたったっ切ってやる・・・」
「お前こそ、ぺ・ヨンニュンと一夜を共にしたいと思っているんだろー、許せん。絶対に故郷へ帰るー」
そこへ、倅がやって来て
「うるさい、静かにしてくれー、勉強が出来ない」
と、怒鳴った。
私は、はっと我に返り、己の愚かさを恥じた。それから歌を歌いながら部屋に戻った。
倅がバーさんに言っていた。
「この世にとーさんほどいい男はいない。ぺ・ヨンニュンは整形手術であんな顔になったのだ。だから、本物ではない。とーさんをもっと大事にしてください」
・・・さすが、おれの倅、私は静かにビールを飲んだ。今宵はなぜか星が美しく煌いております。
テレビを観たあと、バーさんがおっしゃいました。
「フィンランドの女は、1906年、世界で初めて国政参加の選挙権と被選挙権をとったんだね!男女平等、偉い・・・! その頃の日本は女が男に泣かされていた時代だから、ずいぶんと遅れていたんだね・・・?」
・・・ん? 私は改めて女の恐ろしさをばーさんのオーラーに見た。女に泣かされ続けてきたこの数十年間、私は地獄を歩き続けてきたのだ。それは私だけではないと断言します。
男は全て女の胸に陥ることなく、その手中に落ちて手玉に取られ、血で血を洗う阿鼻叫喚の地獄絵巻を描き続けてきたのだ。愚かにしてもろき者よ、汝の名は男なり、事件の陰に女あり、この世は女の陰謀と殺意の影が怪しくうごめく闇の世界、私は一瞬、背筋が凍った。
確かに日本は男尊女卑の時代が長く続いた。しかし、最終的にして決定的な強みを持っているのは女であります。男の無意識はそれを知っておりますので、性転換希望の男が多いのでございます。もし、この世から女がいなくなれば人類は100年前後で滅びてしまいます。
しかし、この世から男がいなくなっても人類は滅びないのであります。不思議にも男が少なくなりますと、受精卵でない卵子が卵割を開始し、処女受胎がおこります。キリスト様に伺いますと、「イエス」とお答えになるはずです。なぜなら、キリスト様も無精卵子から発生したからであります。
水槽で飼っていた「ソードテール」という熱帯魚など、雌はオスになったり、メスになったりしました。しかし、雄は雄のままで一生を終えるのであります。このことから、雌はその存続と種の永久的維持のために謎に満ちた万能パワーを隠し持っている、と言えるのであります。
しかし、根本的に怠惰な部分が大でありますので、男という便利なものを作って、それに重労働を義務付けて昼寝するようになったのでございます。
男が生き残る道、それは、女のご機嫌を壊すことなく、こちらの卓越さとパワフルなところを控えめにdisplayすることであります。男が男になるためには、いかに女に尊敬され、ペ・ヨンジュンさんのように女のハートを掴むかであります。
私はさり気なく答えた。
「・・・しかし、日本にだって1869年、大和の国の庄屋敷村で ”雌松雄松の隔てなし” と男女同権を唱えた農家の女がいましたよ。しかも、将軍や殿様もみな同じ人間、ホームレスも神様も悪魔も死神、貧乏神も、みな平等、同権でーす、と凄いことを叫んだのです。大事なことは心正しく、互いに助け合って働くことだ、と説きまわった・・・」
「へー、そんなこと信じられない。フインランドよりも37年も早いじゃん。なぜ、そんなこと知っている? 出鱈目とチャウか・・・?」
「なぜ、知っているかって? ・・・それは、教養と知性は隠そうと思っても、ちょっとした所からこぼれてしまうものだ。これから気をつけないといかん・・・」
ばーさんの眼が笑った。
「あんたのは狂妖と痴盛だ。出るのはボロだけ、がはははははー」
・・・やっぱり、女は強かでございます。これからビールでも飲んで寝ることに致します。
11月23日(火) 長芋と不老不死
長芋の学名は「Dioscorea batatas」だそうです。根菜類のヤマイモ科でありまして、中国が原産地で大昔から日本に伝えられ、各地で栽培されております。
奈良県で栽培されたものが「大和芋」と呼ばれる、と百科事典に書かれております。それに対して日本原産の山芋もありまして、「自然生(じねんじょう)」と言うそうです。縄文時代にはすでに山に生えておりまして、我々の祖先の重要な栄養源の一つとなっていたわけであります。
この長芋、体にすっごく良いんです。まず、消化酵素アミラーゼをたっぷり含んでおりまして消化をよくします。繊維質も豊富にあって、粘着性成分のムオンが胃腸壁を完璧にガードします。
他に、ビタミンB1、カリウム、コリン、サポニン、炭水化物、ミューシンなども有り余るほどあって、老化を退化させて若さを促進させ、美肌、体力増強など、体にいいことばかりでございます。
40億年前から生命体が探し求め続けてきた不老不死の原点と悲願は、この長芋がかなえてくれる、と私は声を大にして絶叫致します。
それで、私、この長芋を主食として、ご飯をおかずにしようと考えていたのですが、バーさんの愚かな反対によってプロジェクト半ばにして、残念ながらそれを断念したのでございます。
昨日、絶望の波間に漂いながら昼寝していた時、不思議な夢を見ました。5機のUFOが光速で飛来してまいりまして私の眼前に垂直に着陸し、それぞれの中から1人づつ、計、5人の宇宙人の美女が出てきたのです。
Space peaches、つまり、宇宙美女たちはコンチネンタルタンゴや阿波踊り、カチャーシー、裸踊りなどを披露した後、突然、まぶしい光となった。私はたまらず黒百合の花束で眼を隠した。黒百合がどこから出てきたのか、永遠の謎でございます。
・・・それから恐る恐る黒百合花束を下ろしながら眼を開けますと、何と巨大な5本の長芋が突っ立っていたのであります。下の写真がそれであります。なお、私のデジカメは安物ですが、夢の中の映像も写すことが出来ますので、不思議ではありません。
これで信用して頂けたと思います。とにかく変な夢だと思っておりましたが、それが何と正夢となったのでございます。きょう、宅急便が届きまして、写真そっくりの長芋が届けられたのです。送り主はSpace peache ちゃみままさんでした。キリ番20000ゲットのお祝いであります。
こんなうれしいことはありません。これで当分、念願の長いも主食が実現できます。次のキリ番は22222となりますか? それも、頂きたいものでございます。ぐわっはっはっはっはっははははははー・・・、ん? 何たる下品、たいへん失礼致しました!
というわけで、ちゃみままさんありがとー、バーさんとせがれの3人でいただきまーす!
11月22日(月) 二人の大男を撃破
三十数年前、米軍嘉手納基地内の「NCOクラブ(下士官クラブ)」で働いていた時のことでございます。昼下がり、事務所に黒人兵の大男、二人が入ってきた。
彼らはまず、窓際の白人女性事務員のそばに行き、その机の端に腰掛けて彼女をじろじろ眺めた。その頃、ベトナム戦争の真っ最中でしたので、ほとんどの米兵たちはあれ荒んでいた。侵入してきた二人も最前線行きが決まっていた、と思われます。
白人女性事務員は30代で美人、名前は忘れましたが、ジェーンという感じの名前でありました。ジェーンさんは恐怖に慄き、抗議することが出来ない。破れかぶれで、どうせ死ぬのだから何をしてもいい、という獣と化した連中であったからです。
彼女はタイプを震えながら打ち続け、マネージャー室に視線を向けたりした。ところがそのマネージャーも恐怖に震えて出てこなかった。
2匹の獣は次第に横暴となり、ジェーンさんの腰や胸に手で触れたりするようになった。彼女は悲鳴を上げ、「出て行ってください、Please! 」 と何度も繰り返したが獣たちは残忍な笑い声を上げて執拗に彼女に触り続けた。外にも白人の女性事務員とスナックバーの男事務員がおりましたが、恐れて姿を消していた。
私もおっかなびっくり、こんな大男二人と喧嘩でもしようものなら、殺されてしまいます。しかし、その日に書類を作成して、ケッシャー・ハウスへ送り届けねばなりませんでしたので、逃げ出したいのを我慢して懸命にタイプライターや大型計算機を使って仕事をしておりました。
そのうち一匹の獣が私に注目して近寄ってきた。「まずい・・・」 と思いながらも私はそ知らぬ顔で仕事を続けた。彼は私の横顔を奥歯を見せながらじろじろ見つめ、ガムをくちゃくちゃさせながら怒鳴った。
「おめーの鼻、でっかいぜ、日本人のくせになぜ大きいんだ。 You, a big nose, Wonderful ! 」
私は冷静さを必死に保ちながら対応した。 こういう連中は自分たちを恐れるものは徹底的にいたぶり、強いものは異常に恐れる。したがって絶対に弱みを見せないことが大切である、と判断したからだ。
「You should rearize that not only nose, but also great my penise」
彼は予期しなかった私の対応にたじろいだ感じだった。しかし、それがカチンと来たらしく私の胸襟をつかみ、そのまま上に持ち上げた。当時70キロの体重でしたので、もの凄い怪力であります。
「Ok,I'll check if it true or not 」
当時、沖縄の人は米軍の支配下にあって、何をされても泣き寝入りせざるを得なかった。しかし、この状況下におきましては、正当防衛が歴然と成立いたします。私にも沖縄空手仲間流3段の意地があります。「日本男児、なめられてたまるか・・・」 心の中で叫びながら反撃に出た。
まともに勝てない相手はその弱点を狙え! それが戦闘に勝つ第一の秘訣でありますので、特にか弱い女性は参考にしてください。
私は渾身の力を両親指に込めて、彼の両眼を突いた。野獣の悲鳴が起こり、私は自由の身となった。続いて両平手で彼の両耳をバシーッ、そして、弁慶の泣き所にタイプライターを激突させた。彼はそのまま崩れ落ち、パニック状態となった。
あ然としていた彼の相棒が突然、背後から襲いかかってきた。その腕の中をするりと抜けながら、彼の小指を掴み、それを思いっきりへし折った。悲鳴を上げる彼に対して、とどめの回し蹴りを股間にお見舞いした。
2メートル近くの二人の大男は床上にうずくまり、わけの分からない言葉で喚き続けた。そこへサイレンを鳴らして3人の憲兵がやって来て連行していった。野次馬たちが一斉に拍手喝采、私はしばらくの間、英雄扱いにされたのであります。特にジェーンさんからは感謝感激のキッスの嵐でありました。
これは嘘のようなほんとの話でございます。今、沖縄の米海兵隊はイラク中部のファルージャーにほとんどが派遣されております。ちょうど30数年前のベトナム戦争の頃の、あれ荒んだ精神状況下に置かれています。
いつになったら平和な世界が訪れるのか、そして、いつになったら、愛と正義と思いやりの心の時代が到来するのか、ただ、ただ、神に祈り、己自身を正していくのみでございます。
11月19日(金) 世界一の巨木と日本三大木
巨木と巨樹はどこがどう違うのであろうか? 古本屋で買ってきた格安百科事典を開き、夜も寝ないで昼寝して研究調査した結果、次のようなことが判明致しました。地上から約1・3mのところで、幹の周りが3m以上の木が「巨樹」だそうであります。それ以外の大きな木が「巨木」となるわけです。したがっていかに高く、いかに枝葉を縦横無尽に広げておりましても、幹周りが3mに満たないものは巨樹とはいえないことになります。
世界一広い木と言えば、カルカッタ植物園に生えております「Great Banyan Tree」ですね? 樹齢240年で、樹高25m、そして枝葉の広がり420mであります。一本の木が一つの森のようになっているのでございます。
しかし、それでも巨樹とはいえないですね? なぜなら、幹周りが3mに満たないからです。その長い枝枝はすべて気根によって支えられておりますので、幹が巨大化する必要がないわけです。
この Banyan Treeは「ベンガルボダイジュ」といいまして、お釈迦様が悟りを開いたときの木、インド菩提樹とは種類が違います。インド菩提樹の根源的呼び名は「アシヴァッタ樹」であります。「正しい悟りの智の木」という意味から「bodhi-druma=菩提樹」と呼ばれるようになったというわけです。
しかし、日本の三大樹となりますと、気根を出して枝を支えるという技がありませんので、幹が太くなってその巨体を支え、巨樹となっております。
その一つ一つを上げてみますと、
福島県三春の「滝桜」は樹齢1000年、高さ12m、枝の広がり22m、幹周り約10mとなって立派な巨樹であります。
岐阜県根尾谷の「薄墨桜」は樹齢1500年、高さ17・2m、枝の広がり23・9m、幹周り9・2mで見事な巨樹でございます。
最後に山梨県の「神代桜」は樹齢1800年以上、高さ13・6m、枝の広がり27m、幹周り13・5mとなっております。これは日本最大の幹の太さであります。
この日本三大樹の説明において、手引書はそれぞれ「巨木」という単語を使っておりますが、いずれも幹周りが3mをはるかに超えておりますので「巨樹」という表現が正しいのでございます。
しかし、一般的にはそんなことはどうでもいいことでありまして、一々こと細かく、屁理屈を並べ立てる価値はないと思います。巨樹が多く集まった樹林を巨樹林ではなくて、巨木林と呼ぶのも理屈に合わない話であります。
この木なんの木、気になる木、その気になって気になる木について書いたきょうの日記でございます。では、皆さんまた会う日までお元気で!
11月14日(日) おめでたい人
ここだけの話でございますが、私は 「あなたって、良い男ですね!」とよく言われる。それが外見上のハンサムを意味しているのか、あるいは人間性が良い、という意味なのかちょっと判断に苦しみますが、女性の場合は前者を、男性の場合は後者を意味している、ということが最近ようやく分かりました。
なぜ、私だけが・・・?全くこれは不公平なことでありまして、天の神様に抗議しなければならないと思っております。
先日、ばー様の命令で缶ビールと牛乳、その他いろいろを買うために、コンビニエンストアーへ行きました。店に入ってそれらを籠に入れてレジへいきますと、何と、レジ係の若い女性が私を見るなり「きゃー」という悲鳴を上げてよろめいたのであります。
なぜ、彼女が悲鳴を上げたのか、私はこれまでの長い経験で知り過ぎるほど知っていた。彼女は叫んだあと、はっとして顔を赤らめ、慌ててレジを打ちました。
・・・私は女を不幸にする男、彼女はこれから先、かなわぬ恋に悩み苦しみ、やがて地獄の中で悶え死ぬであろう・・・。ああ、神よ、我を許したまえ、アーメン、ソーメン、チャーシューメン、私は祈りながら店を出た。
家に戻りますとばーさんが叫んだ。
「どうしたんでありんすか? 顔色が悪い、・・・もしかして、この30分間を迅速に利用して不倫を働いたんとチャウか! ぎゃー、許せない、殺してやるー・・・」頭髪を逆立てて、メドーサと化したばー様は、核融合爆発レーザー機関銃を持ち出してきて私を爆破しようとした。私はびっくり仰天、あわてて、身の潔白と、操を守り通した証として元気な逞しい息子を見せた。
「・・・ん、なるほど、30分ではありえない現象だ。少なくともあんたの場合は回復までは24時間かかる・・・」
ばー様の毒蛇と化していた頭髪はやがてもとの穏やかな髪となり、急に気持ち悪い笑顔となってビールの勺をしてくれた。そこで、私は長年の悩みを打ち明けた。
「・・・なぬ、あんたを見て、レジの若い女が悲鳴を上げた? それはあんたがハンサムだから、だと言うのか?」
「そうなんだ、おれはどうしたらいいのであろうか、このままでは次々と女を不幸にしてしまう・・・」
ばー様はしばらく目をぱちくりして黙っていた。そして、急に笑い狂った。
「がははははははー、おめでたい人だねー、あんたは誰が見てもハンサムではなーい。レジの女はあんたが「強盗」だと思って恐怖の悲鳴を上げただけだよー、ぎゃははーはっはっはっはっははっはー、」
私は黙って自分の部屋に入った。ほんとにそうであってほしい、だが、真実はそれを永遠に否定し続けているのだ。ばーさんは何もわかってはいないのだ、哀れな女だ、私はビールを飲みながら悟りの世界へ迷い込んで行った。
11月13日(土) 古代都市遺跡と核戦争
ラーマーヤナと申しますのはご承知の通り、古代インドのサンスクリット叙事詩でございまして、世界3大叙事詩の一つであります。
内容はラーマ王子とその妃シーターの波乱万丈のSF的ストーリーで、古代からの伝承を3世紀頃、ヴァールミーキという偉い詩人が、現存の形にまとめたものです。インドには、それと並ぶ大叙事詩に「リグベーダ」というのがあります。
このリグベーダも、古代インドのバラモン教の聖典、ベーダの一つで、前1200年―前1000年に成立したということです。
ということは、インダス文明(前3000年〜前1500年)の頃から語り継がれてきたストーリーと言えますので、ラーマーヤナと共にインド古代文明都市、核戦争壊滅説の参考資料といたします。
ちなみに余計なことですが、世界3大叙事詩とは、イリアス、カレワラ、ラーマーヤナのことであります。イリアスはギリシャ最古の叙事詩、カレワラはフィンランドの民族叙事詩であります。
で、このリグベーダの中に、十王戦争の様子がこと細かく描かれ、英雄インドラが主役を演じております。
悪竜ブリトラをこてんぱんにやっつけたり、ヴァジュラという電撃飛行ミサイルを駆使して悪意に満ちた敵を撃破し、彼らの七つの防壁を破壊したりしたのでございます。後世において彼は擬人化されて英雄神となり、仏教では帝釈天となってしまいます。
ラーマーヤナにおきましては、ラーマ王と魔王ラーヴァナの戦いが描かれておりますが、空を飛んだり、ミサイル攻撃したりのSFが網羅、ハヌマンタというお猿の王様が一飛びで薬草の山へ行き、山ごと持ち帰ってラーマ王の奥様を助けたりします。彼は孫悟空のオリジナルであります。
ここで、いろいろと使われた恐るべき兵器をご紹介いたします。アグアネス=太陽を一万個集めた爆発力を持っている ヴィシュヌ神の「チャクラ(円盤)」 ルドラ神の「三叉の銛」 アグニ神の「火器」 インドラ神の「電火器」「空中網」 スーリアの「飛行矛」 そして極めつけは「ヴィマナ」 となります。
このヴィマナは前10世紀ごろに書かれた科学書「ヴァイマニカ・シャストラ」に詳細とマニアルが書かれております。これは神話とは全く関係なく、ヴァイマナのみについて記述されており、超高性能飛行物体と言わざるを得ません。
翼の展開と収縮、じぐざく飛行、レーダー探知、熱光線発射、偵察写真、毒ガス散布、敵機内透視、盗聴、太陽光線利用、気象センサー、カモフラージュ、煙幕、幻影投射、そして、用途によって、ロケット型、飛行船型、円盤型、デルタウイング型(三角形)など、豊富な機種を備えていたのでございます。
これ信じられますか? 信じなさい、というのが無理な話ですが、この話、ほんとのほんとであります。嘘とお思いの方は図書館などで「ヴァイマニカ・シャストラ」という本を探し出して読んでみてください。そして、何が真実かを判断いたしましょう!
以上のストーリーなどから推察いたしまして、古代インドにおきましては核弾道ミサイルに匹敵する何かがあって、それが使用された、と推察するのであります。・・・と申しますと、やはり、脳波の精密検査が必要だ、とお思いにおなりでしょうが、これも寛大に無視して、楽しみながらお付き合いくださいませ、ませ・・・。
で、ラーマーヤナに出てくる魔王ラーヴァナのことでございますが、彼の国が「ランカ」でありまして、モヘンジョ・ダロに違いないと言われております。前の日記でも述べましたが、このモヘンジョ・ダロは、考古学者の脳波を狂わす謎がいっぱいであります。
発掘されました46の遺体の中で、外傷があるのは2体だけで外は全くありません。その2体も頭部にちょっとした傷があるだけであります。モヘンジョ・ダロの意味は死人の丘という意味で発掘者のハーグリースさんがつけた名前だそうです。
遺体は全て高温で焼かれた痕跡を留めておりまして、この区域全体からは通常の数十倍という放射能測定結果が出ております。炭素14の分析結果と照合いたしますと、前2200年〜前2000年という年代測定結果が出ております。つまり、モヘンジョ・ダロは約600年間繁栄し、わが世の春を謳歌した後、突然、滅亡したというわけであります。
その原因を学者たちは、洪水、自然環境の変化、地形の異常隆起など、としておりますが、一瞬にして都市国家が崩壊したことを思えば、全て理屈に合わないものであります。
外に巨大隕石の衝突も考えられますが、その隕石の欠片は一つも発見されていないのであります。それと、火山噴火による毒ガス発生、・・・残念ながらインダス川流域には火山は一つもありません。
ということは、やはり、核兵器・・・、しかありませんね? 勿論、私のこの推察は90%誤りであります。しかし、誤りという名の愚かさには、その中に真理が混ざっておりますので、おろそかに致しますと、もっとも危険なのであります。
モヘンジョ・ダロに散在しておりますガラス化した小石は1400℃から1500℃以上の高熱で一瞬にして溶かされ、急速に冷却されたものであることが分かっております。このような遺跡は、周辺のアナトリア高原のハジュラル、コルジュペテ、ハラバ、カラホユックなど、その他いろいろな地点で発見されております。
破壊された年代はいずれも前2200年〜前2000年ごろという年代測定結果が出ておりまして、モヘンジョ・ダロと全く同じであります。
さらに驚くべきことに、このアナトリア高原には広大な地下都市群が広がっておりまして、それぞれ地下通路でつながっています。これはカッパドキア地下都市群と呼ばれております。地下8階建で、地表から150メートル下にあって、通気孔が要所要所に設置されております。
各階は階段や傾斜した通路でつながっており、井戸、共同炊事場、下水道など見事な都市計画となっております。これ、一体、何だとお思いになりますか? ・・・完璧な核シェルター、ですね? なんと、そこには100万人以上の人間を収容することが出来るのです。
シュメールというのは南部バビロニアの古名で、前3800〜前3000年頃にかけて、人類最初の都市文明を発展させたと言われておりましす。エジプト文明にも大きな影響を与えましたが、そのシュメールの古文書に恐るべき記述があります。
「七つの恐怖の武器が放たれるや、目も眩む閃光が四方へ飛散し、全てのものが焼き尽くされた。閃光は災いの雲を生み出し、それは空へ立ち上がった」
これって、原子爆弾の爆発と全く同じですね? もはや疑う余地はないでしょう! BC2000年頃、古代都市国家間で核戦争が行われたのであります。インドの神話によりますと、生き残ったのはバータラ族だけである、そうです。
古代都市からは電池も発見されております。1800年イタリヤの物理学者アレッサンドロ・ボルダさんが人類最初の電池を開発した、ということになっておりますが、BC2000年ごろにはそれがすでにあったことになります。高さ15センチ、幅9・2センチの壷の中に、銅製の円筒形物質が(長さ10cm、直径2・6cm)入っており、さらにその中に、一本の鉄の棒が入っております。
電解液はワインなども利用されたのでは、と考えられております。復元いたしますと、立派に1・5ボルトの電気が起きたそうです。それを直列にして金メッキの技法なども修得していたのであります。
さらに、さらに不思議なことに、カリフォルニア州のコソ山脈から取り出された晶洞石の内部から、セラミック製の点火プラグが発見されました。1961年の出来事であります。それが出来た年代はなんと、50万年前にさかのぼるのであります。その未知の金属セラミックスは、ダイヤ製の金ノコの刃が、ボロボロになるほどの硬さであります。
外にも、大量の電気を用いないと精錬できないアルミニウムの帯留が、中国江蘇省の墳墓から発見されたり、コロンビヤ北部のシヌー遺跡からは、直径5cmの精密に作られた黄金のシャトルなども発見されております。この黄金のシャトルには、三角翼や垂直尾翼、コクピットなどがありまして、航空力学的に見て実物を作りますと飛行可能だそうです。
・・・ここまで書き続けますと、さすがに疲れてまいります。そこで結論付けますと、BC2000年ごろインダス川流域の古代都市間で核戦争があって、インダス文明が崩壊した、ということが十中八・九断言できると思います。
・・・しかし、原子爆弾、どうやって作ったのでしょうか? 考えられることは、天然ウランやプルトニュームをロケット型の銅製の筒に入れ、その尻に避雷針からの超高圧電流を流した・・・、ってのはどうでしょうか? あるいはまた、それらの前と後ろに強烈な時限爆弾を瞬間接着剤でくっ付けた。そして、それを半人半鳥のガルーダという大鳥に運ばせて、敵国の上空から投下して爆発させた。
そのときガルーダは絶滅した、というストーリーなんですが、・・・あまりにも馬鹿馬鹿しい・・・? 確かにそうです。私もそう思います。
では、きょうはこれにて失礼致します。ながながと最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。皆様方のご発展とご健勝をお祈りいたしております。
11月12日(金) 世界でもっとも謎に満ちた古代文明都市「モヘンジョ・ダロ」
インダス文明が栄えたのはBC2600年〜BC1900年と世界史の教科書に載っております。ところが最近の発掘調査でそれよりもさらに古い生活堆積層が発見されまして、BC4000年頃からすでに文明があったことが証明されております。
諸行無常はこの世の事象、物象、物理的現象のみならず、教科書の世界にもあてはまるものでございます。
古本屋で買ってまいりました百貨辞典によりますと、インダス川流域を中心として、東西1600キロ、南北1400キロ(鹿児島から青森までが約1600キロ)に及ぶ広大な流域に、1500を超える大小さまざまな遺跡が点在しておりまして、インダス文明の名残を留めているそうです。
その古代遺跡の中で下流域のシンド地方にある「モヘンジョ・ダロ」と、中流域パンジャーブ地方にある「ハラッパー」が最も有名であります。いずれも見事な都市計画に基づいて整備されていたようです。
都市は行政、宗教、儀礼的な機能を持つ城塞区画と、商、工業、住居などが割拠する市外地区画にわかれておりまして、モヘンジョ・ダロの当時の人口は4万人ほどであったと推測されております。
都市は大通りによって整然と区画され、366mX182mのブロック12に区分されています。そのブロックはさらに小路で仕切られ、格子状に街路が走っております。
街路に沿ってレンガ造りの家が建ち並び、道路は幅8メートルで、中央分離帯が設けられ、牛が対面交通できるシステムであります。至る所に飲料水用の井戸が掘られ、下水道施設、浴室、水洗トイレなども完備されておったのであります。
ところがこのモヘンジョ・ダロ、先史学者たちの間では ”世界でもっとも謎に満ちた古代文明都市” と言われております。
1921年12月14日、DK地区での発掘で、家屋Vの第74室から子供をまじえた14の遺体が発見されました。ある者はうつ伏せ、ある者は仰向け、両腕を曲げて恐怖に引きつった顔を覆っている者、階段の途中で倒れている者、奇妙な状態の遺体だけであったのです。
同様の遺体がそれから次々と別の場所で発見されております。1965年には、狭い路地に子供を含む6体の遺体が一塊となってうつ伏せ状態で倒れているのが発見された。
外にも5体の子供の遺体を、4体の大人の遺体が守るようにして覆い被さっているのもあったということです。現在までに46体の同じような遺体が発見されておるそうです。
この46の遺体はモヘンジョ・ダロ最後の住人だった、とも言われております。発掘者のハーグリースは、「何かとてつもないことが起こって、みな一瞬にして異常な死を遂げたことは明らかだ」、と断言しております。
「遺体は高温加熱の跡があり、焦げた骨は普通のより保存状態が良い」 と言っているのはインドの考古学者グーハー博士であります。
モヘンジョ・ダロは周囲が5キロ以上もある大遺跡ですが、至る所に溶けてくっ付いたレンガ、溶けて捻じ曲がった壷や食器類のガラス化した破片などが見られます。特に不思議なことに北へ数キロ行ったところに原爆の爆心地のようなところがあって、そこにはガラス化した黒色の小石が一面に広がっているのであります。
ちなみに、岩石は2500℃以上の高温で溶解し、それが急激に冷やされないとガラス化は致しません。ということは今から4000年ほど前に、古代都市国家間で核戦争があったのでしょうか?
・・・しかし、原子爆弾製造、そんな科学知識と技術にまでインダス文明は及んでいたのであろうか? いや、そんなことは絶対にありえない、・・・筈だ。・・・いや、もしかして、何らかの原始的方法で核爆発を起こす方法を発見したのかもしれない。
原子爆弾の仕組みは、元素に中性子を激突させてその原子核を二つに砕き、核分裂エネルギーを放出させることが第一段階となります。
その時のエネルギーはたいしたことはないのですが、砕かれた原子核から新たな中性子が飛び出しまして、お隣の元素に激突して同じようなことを起こさせます。それが一気に連続し、同時連鎖反応で核分裂が起こるのであります。
これが原爆の爆発でございまして、広島におとされたリトルボーイは核分裂物質としてウラン235が使われております。長崎に落とされたのはファットマンと呼ばれ、プルトニュウム239が使用されております。
リトルボーイのウランは10キロから35キログラムでしたが(本体の前と後)、そのうちのわずか1キログラムが爆発を起こしたと計算されております。ちょっとした量でいかに物凄いエネルギーを出すかが想像できます。
そういう原子爆弾の原始的製造法と考えられることは・・・? あれ、ばーさんが騒いでおりますので、一応この辺で休憩いたします。これから新宿へ出かけてきますので、つづきは夜間工事と致します。では、皆さんそれまで、さいならー・・・。
2004年11月5日(金) 小説・光の妖精女が言った。
「もう生きられません。ですから一思いに殺してください」
色の白い、澄んだ瞳の女だった。その瞳の深い奥には青白い炎が揺らいでいた。
「どうして生きられないのですか?」
僕はその炎を見ながら訊いた。
「光が消えて、闇が重すぎるからよ・・・」
「そんなこと、どうでもいいじゃないか。どうせ、いつかはみんな死んでしまう。光も闇も、そして、君も僕も・・・、だから、急ぐ必要はない」
「でも、嫌なんです。あとわずかでも生きるということが・・・、とっても苦しいんです。ですから一思いに殺してください。お願い、お願いします」
「かわいそうに、あなたはそれでは死ねない。ほんとの死が何であるのか分かっていない。死にたいと願うところに死はないんです」
「それはどういうことですか?」
「あんたは死と戯れているだけだ。ほんとの死というのは、その死すらも無にすることなんだ。死は死を意識しない次元にあるんです」
「・・・でも、やっぱり殺してください。そんな難しいこと、どうでもいいんです。」
「君は赤ちゃんを殺した。しかし、僕には君を殺すことが出来ない」
女はじっと僕の顔を見つめた。乱れた黒髪の広がりに、彼女の顔が花のように落ちていた。洞穴口の近くで艦砲弾が炸裂した。その爆風で黒髪が激しく巻き上がり、白い花を覆い隠した。ぼくは髪をそっと掻き分けた。
「赤ちゃんの母が頼んだのです。殺さないと、闇の重みが、赤ちゃんを押しつぶし、地獄が飲み込んでしまうのです。そんな恐ろしいこと、あなたは黙って見ておれますか?」
「しかし、やっぱり僕には君を殺すことは出来ない。そんな残酷なことは出来ない。不可能だ・・・」
「簡単です。私を抱いてキスしてください。長い、長いキスをしてください。・・・光の妖精たちが迎えに来るまで・・・」
「その光の妖精たちが来るのはいつ・・・?」
女の瞳が微かに笑った。奥の青白い炎がその輝きを弱め始めている。僕は慌てて彼女を抱きかかえ、キスをした。青白い光が漁火のように現れて揺らいだ。女の唇から力が抜けたとき、漆黒の重い闇が幾重にも重なり合って現れ、あっという間にその光を飲み込んでしまった。
女の唇に唇を重ねながら、私は洞穴の闇の中で光の妖精たちが現れるのを待ち続けた。長い時間がすぎた。しかし、苦痛は感じなかった。不思議にも束縛感や窮屈感はなかった。眠気と陶酔が穏やかな波にもまれ、どこまでもどこまでも漂い続けるだけであった。
一秒一秒がゆっくりと歩いた。一日一日が足早に歩いた。1月が大股で歩く。そして一年が走り続ける。私はその中で10年が飛ぶのを見た。
しかし、光の妖精たちは現れなかった。女の唇は温もりを失っていた。しかし、冷たいとは感じなかった。それは、温もりが温もりを失ったように、冷たさも冷たさを失ったからかもしれない。
いくつかの10年が飛んだとき、まぶしい光が洞穴口から一気に雪崩れ込んできた。重い闇が飛散し、光の中に老人が現れた。どこかで見たような顔であった。
彼は私を見て立ちすくんだ。次の瞬間、私はその老人に吸い込まれ、合体した。眼前に異様な光景が現れた。
赤子の骸骨を抱くように息絶えたあの女が横になっている。私が、・・・鉄血勤皇隊・永和鋭作が、女から離れ、空間に解けるかのように消えた。
「奇蹟だ・・・」
私は思わずつぶやいた。同時に女の体が青白く輝き、それが無数の光に分かれて漂った。まるで花弁が舞っているかのようでもあった。
「光の妖精・・・」
私は茫洋と女を見つめた。やがて女は光の消滅と共に骸骨となってくずれた。
女と赤子の遺骨を袋に入れ、それをリュックに入れて背負い、私は洞穴を出た。入り口に生える竜舌欄が長い花茎を青空に突き上げていた。その先端には白い花が咲いている。70数年に一度だけ花を咲かせるリュウゼツラン、洋子と私の年齢はこの竜舌欄と同じかもしれない。
私は、岩場の斜面を下り、道路脇に止めてある車へ向かった。女は第二歩兵隊所属・従軍看護婦名護蘭隊・海藍洋子、当時17歳であった。断片的記憶喪失、外にも何かあるはずだが、それはどうしても思い出せない。
11月2日(水) 新宿御苑にて
膝の怪我は順調に回復し、かなり楽に歩けるようになった。となりますと自由の天地を探し求めて外に出たくなります。男が外に出ますと7人の敵がいる、と申しますが、それ以上に感動の新しい発見に出会うものであります。
玄関に出て、ドアーを開けようと致しますとばーさんの恐怖の声がした。
「アータ、どこへ行くんでござんすか?」
「え? ・・・あの、その、ちょっと、外出してまいります。お天気も大変良く、膝の具合もよろしいので、わはははははー・・・」
「まさか、どこかの若い女とデートじゃないでしょうね? あんたは馬鹿なくせに、いい男だから、すぐ虫がつく。それに変なことをして、せっかく直りかけた膝を痛めてしまう。だから、ボディー・ガードとしてあんたの最高にして最愛なる妻がついて行く。・・・なんか、文句あるか?」
「いえ、とんでもごさーません、この上ないありがたき、ふしあわ・・・、いえ、幸せであります。あなた様のご恩は山よりも高く、海よりも深い、僕はふしあ・・・、いや、幸せだなー・・・」
というわけで新宿御苑の菊花壇展を観にいくことになりました。今月の15日までやっておりますので、ご希望の方はどうぞ! 入園料はたったの200円であります。私の所からですと電車賃は410円であります。
ばーさんの後ろから7歩下がりまして、その影を踏まないようにして中に入りますと大勢の人々で賑わっておりました。プラタナスやイチョウ、ナンヨウスギ、メタセコイヤなどの巨木が至る所で聳え立ち、なだらかに波打つ広大な芝生はグリーンに輝いております。その芝生に寝転がり、重なり合う若い男女が激しいキスをしておりましたので、びっくり致しました。
「我々も負けずにやりましょうか?」
と申しますと、いきなりばーさんの平手打ちが飛んだ。とたんに眼からハート型の小さな火花が無数に飛び散った。この世で最も恐ろしいのは女でございます。
菊花壇展のメインは日本庭園にあります。しかし、まだ満開ではなかった。4分咲き、といったところであります。・・・だが、それでも見事であります。一本に500の花が付いているのもあります。ここまで仕上げるのにどれだけの忍耐と汗、涙があったことか、私はその背後にうごめく心、精神、魂の波動に打たれ、しばらく陶酔し、痺れていた。
それからあっちこっちと歩き回りまして、最後に温室に入りました。そこは熱帯植物が繁茂し、まるで沖縄ヤンバルのジャングルに入ったような錯覚に陥ります。ツタや羊歯類、ゴクラクチョウ花、蘇鉄、榕樹、アダン、芭蕉、ダイオウヤシ、その他いろいろ、子供の頃の故郷を思い出しながらデジカメでぱちぱち・・・。
そのとき背後で声がした。
「Woud you please ? 」
びっくりして振り向きますと、外人の娘さんがカメラを差し出している。その後ろには母親らしき方と、姉らしき方がニコニコ顔で立っていた。3名一緒のところを撮ってください、という意味であります。
「OK, I'll be glad to」
私は気根を複雑に絡ませている巨大なタコヤシをバックにパチリ、そして角度を変えてパチリ、3人は大喜びであります。
「Thank you !」
「You are welcome」
彼女たちはドイツから観光に来たということでありまして、日本大好きであるそうです。しばらく、会話をしておりますと、遠くでココナツの実を見ていたばーさんが近づいてまいりました。ばーさんは昔、英語の先生をしておりましたので私以上に英語はぺらぺらであります。たちまち彼女たちと仲良くなりまして、私は無視されてしまいました。
仕方がないので孤独となった私は、缶コーヒーを自動販売機で買って飲んでおりました。リュウゼツランの群生がありまして、そのうちの一本が開花の気配を見せていた。70年に一度花を咲かせるリュウゼツラン、これはラッキーであります。さっそくデジカメでパチリ、と撮りました。
ばーさんと外人の彼女たちは意気投合、唾を飛ばしながらぺちゃくちゃであります。笑ったり、奇声を上げたり、どこの国の女も一緒であることが分かりました。そして1時間ほどして、私とばーさんは彼女たちと別れて外に出た。門を出るとき、撮影を頼んだ娘さんが、私のほっぺにチュウをしてくれた。柔らかい感触が一瞬の中に、バラ色に輝く無限の空間を築き上げた。巨大なハート型の火花が無数に飛び散り、宇宙の隅々まで広がった。
「アータ、何をぼけっとしておるか、さっさと降りろ!」
はっとして現実に戻ると電車は駅に着いておりました。慌てて外に出ましてばーさんの後を追い、無事、帰宅と相成りました。 膝の怪我、これで完治も間近いと思います。・・・ところでばーさんには内緒ですが、ほっペにチュウをしてくれたあの娘さんに一言いいました。
「イッヒ・リーベ・ディッヒ」
「Oh,me too...」
昔、ドイツ語を少し習ったことがありまして、その一言だけが忘却の沼から突き出ていましたので利用したのであります。その意味は、「I love you ! 」であります。せめてあと30年若ければ、と思いました。 ぐわっはっはっはっはっはははははー、ん? 大変失礼致しました!
9月1日(月) 生きながら火に焼かれて
人生いろいろ、男もいろいろでございますが、怪我で仕事が出来ない男はつらいものです。狭い6畳一間がわが世界、ばーさんの顔も見飽きたし、テレビもおふざけ番組だらけでうんざり、仕方がないのでお茶を飲んで寝るだけであります。
そんな時、一冊の本を読んだ。それは「生きながら火に焼かれて」という言う題名で、スアド著の松本百合子訳であります。発行所は株式会社ソニー・マガジンであります。これを読んでいるうちにびっくり仰天、あまりの恐ろしさに耳鳴りと共に目まいを覚えた。
中東のある国に何とかという村がある。スアドはそこのある中流階級の家に3女として生まれた。ところがそこは女にとっては地獄のまたドン底地獄であった。
その家に必要な女は5人だけでよかった。それで後から次々と生まれてくる子供は、女なら母親がその場で、片っ端から羊の皮で首を絞め殺して葬ったのであります。
それで5名以上の女の赤ちゃんが殺されたのであります。その何人目かに男の子が生まれた。男の子は家の宝、神からの授かり者、両親は蝶よ花よと大切に育てた。
女の子は奴隷であり、男に奉仕するためだけにこの世に生まれてきたもの、汚れた者、殺してもいい存在であります。それでスアドは二人の姉と二人の妹たちと共に、父親から毎日のように殴り倒され、罵倒され、家畜の糞にまみれて働き続けた。
しかも、黒い衣に身を包み、黒いベールで顔を隠して外に出なければならない。男と一言でも話をすると淫乱女として家族の者から殺される。ましてや肌の一部が露出していたりしようものなら、よってたかってなぶり殺しであります。
それはスアドの家だけではなく、その村、その国に昔から続いている絶対的掟であります。
しかし、女の命蔑視と虐殺の風習は決してこの国だけではなく、トルコ、イラン、イラク、イエメン、インド、パキスタン、そしてイスラエルやヨーロッパのどこかにも根強く残っているのであります。
それは絶対的秘密厳守のベールに包まれ、我々が知らないだけの話であります。
女が男と話をした、肌を見せた、性行為があった、あるいはそういううわさがあると、それを出した家は村八分となる。
その家の伝統は汚され、末代まで続く不名誉となる。その汚名挽回が問題を起こした女を殺すことであります。殺した者は勇者として崇められ、その家は逆に栄誉と賛辞を村中から賜ることになる。殺し屋は家族か身内のもでなければならない。
スアドの妹カイナは目の前で、弟アサドに首を電話線で絞められて殺された。理由は分からないが、その時の恐ろしい光景がスアドの無意識をかきむしっている。
夫以外の男を絶対に受け入れてはならない。もし、そういうことをすれば必ず殺される。
”昨日はマー坊、きょうトミー、明日はジョージかケン坊か、恋ははかなくすぎて行き、夢は夜ひらく”
などと歌っておりますと原爆を投下されることになります。
しかし、そういう状況下の中においても、やはり不貞を働く女はいるものであります。スアドの母親がそうであります。羊の放牧のとき、7歳のスアドの近くの草むらで見知らぬ男と激しく、見事に合体したのであります。
その時の母親の輝く顔がスアドには快感として残っている。それは、おそろしくて憎い父親に、恨みの一鞭をあびせた様なものであったからだと思います。・・・なんと申しましょうか、女の強かさを見せ付けられたような気が致します。
姉が17歳のとき嫁入りが決まった。風習として嫁ぐ前夜、母と姉の二人だけが秘密の部屋に入って一夜を過ごすことになっている。
その部屋から一晩中、姉の断末魔のうめき声が聴こえた。・・・朝、姉は顔面蒼白で、母は輝く満足の顔で部屋から出てきた。・・・何があったのか、スアドは知る術もなかった。
ここだけの話ですが、貴方だけに真実を明かします。何と、母親が毛抜きで姉の陰毛を一本一本引き抜いてツンツルテンにしたのであります。
中東の人は特に毛深いので、人跡未踏ジャングル地帯の難工事だったと思います。ツンツルテンではなくて、赤ただれ、ミミズ腫れツンツルテンですね?・・・大変失礼致しました。
そして、目出度くご成婚の儀と相成りまして、新婚初夜、良い子の寝る時間となります。それからイザナギとイザナミの人類創造がありまして、太陽が黄色く輝く朝を迎えます。すると庭には村中の人々が集まっているのでございます。
新郎は窓を開けます。そして、大群衆の歓声に手を上げて応えた後、しとねにしていた白いシーツを取ってまいりまして、ぱっと一振り、ベランダに広げて干すのであります。
すると、その中央には真っ赤に輝く太陽が燦然と輝いております。歓声は轟音となって爆発、姉は嫁さんとしての第一段階資格を獲得いたします。後は、男の子を産めば完全資格獲得となります。
これ、出鱈目の嘘ではありません。今も実際に行われている事実なのです。嵐も吹けば雨も降る、女の道よなぜ険し、などと言える次元をはるかに超えた地獄ですね?
・・・そして、スアドが17歳になったとき、お隣さんの息子と恋仲になりまして、秘密の花園で一瞬の、そして激しい合体が行われてしまいました。そして、6回の逢瀬の後、男は心変わりしてスアドと会わなくなります。
たった6回でスアドはご懐妊、これは完全な死を意味します。激怒した父親はめっちゃくちゃにスアドをなぶり半殺しにした。そして、家族会議、誰がスアドを殺すかということに相成りまして、姉の旦那が勇者候補となります。
スアドが井戸端で洗濯をしていたとき、殺し屋は背後から忍び寄り、ガソリンをかけて火をつけた。あっという間に火達磨となったスアドはわめき騒ぎ、悲鳴を上げてのた打ち回った。
そして、勢いあまって隣の庭に転がり落ちた。その家から驚いて出てきた二人の姉妹が、慌てて衣類などで火を打ち消した。そして、病院へ運ばれた。
だが、スアドは瀕死の状態、いつ死んでもおかしくなかった。しかし、医者や看護婦たちは手当てはしない。そういう女は手当てする必要はない、早く死ねばいい、という考えなのであります。
また、命を救えば、逆に恨まれ、汚れた者の味方として蔑まされるのであります。警察も全てグルですので、また法律自体もそういう風習を認めておりますので、何の取調べもありません。
ベットに仰向けのままスアドは放置されます。隣のベットにも、同じような女が仰向けになっておりましたが、これも瀕死の状態でありました。
そして、20日後、スアドは男の子を出産したのであります。7ヶ月の未熟児でありました。しかし、命は助かり、最悪の施設に引き取られていきます。そこに引き取られた子供は人間扱いされずに育てられ、最後は奴隷のように扱われます。
臭いのでバケツの水を頭からかけられるだけのスアド、それでも彼女は生き続けた。顔だけは免れたものの、全身火傷、その激痛の癒えることはなかった。隣のベットの女はいつの間にか消えていた。死んで処分されたのだ。
そんな彼女を救ったのが「人間の土地」という福祉団体で働く ”ジャックリーヌ”という方であります。彼女は悲惨な目に遭っている子供たちを救うために、中東の病院から病院を回っていた。
そして、スアドの赤ちゃんが施設に引き取られた,という情報から、スアドの病院へやって来て、彼女のおそるべき最悪の状態を確認したのであります。
スアドは母親から何度も毒殺されかかった。しかし、その病院にいる若い医師アッサンがその度に母親が持ち込んだ毒入り差し入れを破棄していたのであった。
彼は西洋で医学を学び、ある程度は悪習の弊害を理解していた。ジャックリーヌは彼の協力を得てスアドと彼女の赤ちゃん救出に成功したのであります。
未成年のスアドと赤ちゃんを国外に出すには両親のサインが必要であった。しかし、両親がそれを認めるわけがない。それに、たとへ国外へ脱出したとしても、殺し屋はしつっこく付きまわって居所を探し、確実に殺す。周囲の全てが殺し屋の味方となるからだ。
そこで、ジャックリーヌは一計を案じた。
「娘をここで殺し、あなた方の土地に埋葬すれば家名に傷がつき、末代続く恥、汚点となる。しかし、外国で埋葬すれば娘とあなた方の関係は完全に抹殺されることになる。家名を不名誉から守る唯一の残された手段はこれしかない・・・」
両親は納得し、旅券手続き事務所へ同行して身分証明書と旅行に必要な書類に指紋捺印をした。
今、スアドはある国で平和に暮らしている。結婚もし、二人の女の子が出来ております。救出された男の子は20歳となって嫁さんを迎えて幸せです。
しかし、過去の恐ろしい記憶は時を選ばず、悪夢となって彼女に襲いかかります。数回に及ぶ自殺未遂はその悪夢のなせる業です。国と素顔を隠すのは彼女の生存を知られないためであります。もし、それが知れ渡ると、必ず殺し屋がやってくるのです。
・・・こんな恐ろしい話が信じられますか? こんな恐ろしい国が多く存在しているということ、先進国は一刻も早く救いの手を広げるべきだと思います。
10月31日(日) 強制でないことが望ましい
10月28日、天皇・皇后陛下が主催する秋の園遊会に米長邦雄永世棋聖(61)も招待された。彼は将棋の風雲児、タイトル履歴を見ると「凄い」の絶句に尽きます。
棋聖= 7期ーー→永世棋聖 棋王= 5期 王将= 3期 名人= 1期 十段= 2期 王位= 1期
これは、凄いというより「恐るべし」と言ったほうがいいのかもしれません。私は詰め将棋で5手先を見るのが精一杯、しかし、彼は無限に先を読んでしまうのであります。コンピュータも彼にはかなわないと思います。恐るべし米長、その頭脳で世界平和実現の偉業も成し遂げてほしいと願います。
場所は元赤坂の赤坂御所、各界の功績者約1700人が参加いたしました。アテネオリンピックのメダリストや、新潟県中越地震、台風16号や23号で被害を受けた各地の長や議長らもおり、両陛下は一人一人に温かいお言葉をかけられた。
そして、米長さんの前で立ち止まられ、お言葉をかけられた。いろいろな話題の応答のあと、天皇陛下は次のように言われた。
「教育委員として本当にご苦労さまです」
米長さんはかしこまって答えた。
「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございます」
とたんに陛下のお顔が曇られて、次のように言われた。
「やはり、強制になるということ、でないことが望ましい」・・・そのニュースを知ったとき、私はびっくりのあまり、しばらくものが言えなかった。昭和、明治天皇もしかり、やはり、凡脳をはるかに超越した世界観、人類愛で世界を見つめておられることが分かりました。
58年ほど前、勝ち将軍・マッカーサーは天皇制を解体するつもりでやって来た。そして昭和天皇と会った。 ”他国の敗軍の将と同様、おそらく責任を部下に擦り付け、己の正当性を主張し、命乞いをするであろう・・・”とマッカーサーは侮蔑の態度で昭和天皇を部屋に入れた。しかし、昭和天皇は違っていた。
「責任は一切、私にあります。部下には罪はありません。ですから、部下のすべての命を助け、私一人だけを処刑していただきたい・・・」
その一言にマッカーサーは愕然とし、慌てて椅子から立ち上がると昭和天皇に拝をしたのであります。皇室の存続は昭和天皇のあの一言によって救われた、といえます。
・・・別に、私は右翼でも皇室崇拝者でもありません。世界中の王様、王室を眺めたとき、己の存在を絶対的なものとするためなら、陰謀、暗殺、大量殺戮、などいかなる非常手段も選ばない、というのがほとんどであります。しかし、わが国の皇室は全く違うということであります。
米長さんの「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございます」に対し、どこにでもいるような王様なら、「いやー、うれしい、いろいろとバックアップするから、頑張ってくれ!」 というところであります。
天皇陛下の「やはり、強制になるということ、でないことが望ましい」のお言葉に対して、東京都の石原知事は困惑した表情でテレビで言っていた。
「それは、強制ではないが、義務ですよ、日本国民が全て守るべき義務です・・・」 そこに「Trick or Treat !」のハロウィーンが出てきそうであります。
天皇陛下の心が全く分かっていない、ということが分かります。私なら、義務でも強制でもなく、納得と敬意の上からそれを受け入れます
10月28日(木) 奇蹟ワゴン車は時速50キロほどで走行していた。突然、地鳴りと共に車が上下に激しく揺れ、次に左右に揺れた。巨大地震だ。母親はブレーキを踏み、車を止めようとした。
しかし、それは全くの無意味だった。眼前の道路が山と剥離し、あっという間にその亀裂が車のそばを過ぎった。大きく揺れて無重力空間を浮遊したあと、車は流落に乗り、下方の川へと流された。後部座席には2歳と3歳の子供がいた。
母親はハンドルを必死に握り、車の安定を維持しようとした。錯綜する巨岩群が前後左右でぶっつかり合い、激しく飛び跳ね回る。
車がいったん停止した。その隙に母親は叫んだ。
「大丈夫よ、大丈夫よー、心配しないでー・・・」
しかし、再び大きな揺れが起こり、落下してきた巨岩の一つが車の屋根に激突して突き刺さった。車は空間で反転し、その岩と共に腹を見せながら上向きとなった。
それから岩石群に巻き込まれながら、スローモーション映像のように数メートル流落して止まった。車はほぼ垂直で、腹部の一部を見せるだけとなった。
車内は土砂で埋まり、岩石の直撃を頭に受けて母は即死、3歳の女の子は足だけを出して土砂に埋まった。2歳の男の子は割れた窓ガラスで頭部に傷を負い、そのまま失神した。
小さな体は羽毛のように衝撃に逆らわず、土砂に埋もれることなく、車内の小さな空間に閉じ込められた。
男の子が目覚めたとき、あたりは真っ暗であった。何がどうなったのか、彼には理解できなかった。というより、2歳には大人と違って、現状を掌握し、理解しようとする心の機能はインプットされていない。
したがって、恐怖があるのみで、現状の非常性からショック死するというパニック、ストレスは生じない。そして、母の最後の言葉が耳に焼き付いていた。
「大丈夫よ、大丈夫よー、心配しないでー・・・」
彼には人間の生と死がなんであるかも分からない。つまり、存在に対しては存在があるのみで、生と死が、存在に対してなんであるのかという認識はまったくない。
したがって母が動かず、ものを言わない存在と化しても、その存在は母そのものに変わりはない。母がすぐ側にいる、それだけで男の子は心強く生き続けた。
余震が何度も起こった。男の子は泣き叫んだ。そして、動かない母を呼んだ。手だけを出している3歳の姉の名も呼んだ。何も答えない母と姉、彼は心細さに泣き続けた。彼は何度もおむつにおしっこを漏らし、便もした。これは母に叱られることであった。
・・・しかし、それに対しても母は怒らない。いつもの母のように叱ってほしい・・・。子供は自分が悪かったとわび続けた。・・・昼になると光がわずかに入って、中の様子が見えた。
割れたガラス窓の外にわずかな隙間がある。男の子はそこに這い出て、ズボンを脱ぎ捨て排泄をした。しかし,今度は中に入ることが出来なくなった。
夜になると気温が下がった。男の子は寒さに震えてじっとしゃがみ込み続けた。雨が降り、岩を伝って水が滴る。それを舐めた。そして、寝た。意識が朦朧とし、本能的に死を察知した。
その意識の中で、男の子は母に抱かれていた。
「もうすぐ、お父さんが迎えに来ますよ。もう大丈夫、最後まで頑張るのですよ・・・」
突然、上のほうで声がした。
「誰かいるかー、聞こえるかー・・・」
男の子は現実に戻った。そして、叫んだ。しかし、それは「うー・・・」という、うめきにしかならなかった。
「危ないから奥にいてー・・・」
その声に男の子は素直に奥に下がった。
岩がいくつも取り除かれ、エアー・カッターで車体の枠が切断された。そして、長い手が伸びてきて男の子の両脇がつかまれた。大歓声を上げて、眩しい世界が男の子を迎えた。
彼の名は「優太」・・・、頭部に負った傷口が ”U” の字になっていたのは何かの意味があるのだろうか・・・?
2004年10月26日(火) 一刻と未来永劫
「一刻を争います。大至急救助ヘリを送ってください」というときの「一刻」は、元来、秒単位の時間を意味するものではありません。中国で一昔前まで使われていた時間の単位で、一日を10刻としておりましたので、1刻は14分24秒ということになります。ですから、「緊急工事だ。事態は一刻を争う。急いで現場へ急行せよ」と言われた土木作業員が、1分で行ける現場へ15分後に着いても怒鳴られる筋合いはないのであります。これは命令を下した人間の勉強不足が非難されるべきであります。
それで中国では、1時15分を1時1刻と言ったり、1時45分を1時3刻と言ったりするのであります。ただし30分に対しては刻は使いません。そのときは〜半を使います。つまり、1時30分は1時2刻ではなくて、1時半と言うのでございます。
外に、未来永劫の「劫」という時間の単位があります。これは仏教用語として中国から日本に入ってきた時間の単位ですが、根源は古代インド仏教哲学にあります。国語辞典で調べてみますと、劫は想像できないほどの長い時間、とあります。
想像できない長い時間とはどういうことをいうのか、想像できないので古い書物を調べてみました。すると、下記のようなことが分かりました。
一里(約4キロ)四方の巨岩があって、4年に一度、天女が天下ってきてその羽衣でサーッと撫でる。つまり、オリンピックの年ごとに天から舞い降りてきて、そのドレスの裾で岩を一回、撫でるわけであります。
その摩擦によって磨り減り、この巨岩がなくなるまでの年限が「劫」であります。なぜ、天女がそうしなければならなかったのか?私にはよく分かりませんが、出来るなら私を撫でてほしいものであります。私なら磨り減ることはなく、逆に巨大化するはずです。
くだらない話はこれぐらいにして、あと一つの説は、一里四方の大きな穴があって、4年に一度、天女がケシ粒を一粒づつ入れていき、それがいっぱいになるまでの時間、ということです。これもまたほんとに気が遠くなるような時間であります。
ケシ粒の実の直径を0・5〜1ミリと致しますと、およそ100億となりますね? 1劫=100億年、・・・これは想像しても想像しかねます。頭がおかしくなりましたので(もともとおかしい)、きょうはこの辺で失礼致します。では、みなさん、元気で明日も頑張りましょう! 参考のために数の単位を紹介しておきます。
一、十、百、千、万、億、兆、京、垓、杼、穣、溝、澗、正、載、極、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数
(いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、おく、ちょう、けい、がい、じょ、じょう、こう、かん、せい、さい、ごく、ごうがじゃ、あそうぎ、なゆた、ふかしぎ、むりょうたいすう)分、厘、毛、忽、微、繊、沙、塵、挨、渺、漠、模糊、逡巡、須臾、瞬息、弾指、刹那、六徳、 虚空、清浄
(ぶ、りん、もう、し、こつ、び、せん、しゃ、じん、あい、びょう、ばく、もこ、しゅんじゅん、しゅゆ、しゅんそく、だんし、せつな、りっとく、きょくう、せいじょう)
10月24日(日) 明和の大津波
昨夜の新潟地震(10月23日)、怖いですね? 震度6強が立て続けに3回、その間に震度5強と震度4が入っていますので、生きた心地はしなかったと思います。それから余震が今もなお治まらず、いつまた震度6クラスが来るかわからないという。
こちらは震度4でしたが、まるで大きく揺れる船に乗っているようでびっくり仰天でございました。ばーさんと息子は慌てて立ち上がり、悲鳴を上げて外に出ようとした。私は歩けないので机を前に座ったままであった。外は危険である。私は二人を制して落ち着かせた。
テレビではアナウンサーが、激しい余震の中で顔を引きつらせてわめいていた。「うわー、す、凄い揺れです。・・・皆さん、落ち着いて、冷静に行動してください。大丈夫、大丈夫ですよー、わははははー・・・」 その後、画面がパッと変わりましたので、彼は失神したのだと思います。
今月、10月15日、与那国でも震度5弱の地震がありましたが、八重山群島の地震というと、今から200年前の明和の大津波が、不気味なイメージとして浮かび上がります。
これは1771年4月24日(旧暦3月10日)、石垣島、白保崎南南東40キロの海底を震源地(震度7)とする地震によるもので、宮古、八重山の両方合わせて11,861人の流亡者を出しています。
その時の人口が約5万人ほどでしたので、約24%が犠牲になったということになります。八重山だけですと流亡者9、313人で、人口が28、896人でしたので犠牲者は32%となります。
その日の朝8時、男たちは野良仕事に精を出し、女たちは家で家事や反布織りにいそしんでいた。突然、激しい地震の後、島を揺るがして白保崎の沖合いで轟音が起こった。島民たちはびっくりし通しで海を見た。
すると海水がもの凄い勢いで沖のほうへ吸い込まれて行き、視界の果てまであっという間に乾上った。そして、いたる所で大小さまざまな魚がパタパタ飛び跳ね回っていたのであります。
島民たちは我先にとカゴを抱えて海へ駆け下りていった。そして、天の助けとばかり、競って魚をつかみ取りした。久しぶりの動物性蛋白質、今宵は泡盛とワインを飲みながらカラオケ、宴会だ・・・。
そして、カゴがいっぱいとなり、島民たちは喜びの笑顔を満面にたたえて帰りはじめた。そのとき、水平線の果てから果てを結ぶ巨大な波が、天を巻き込むように現れたのであった。不気味な響きと共に白い泡の線をその頂上に引き、逆巻きながら押し寄せてくる。
びっくり仰天した島民たちは懸命に島を目指して駆けた。しかし、魚の詰まったカゴを捨てる者はいなかった。必死に重いカゴを抱え、走り続けたのであります。食べ物の恨みがなぜ怖いのか、そのわけが分かるような気がします。そういう時の波は時速100キロを軽く越します。
ちなみに水の力というのは、その流速の二乗となります。100×100×0・1=1000・・・。つまり、その圧力は1平方mあたり、1000キロとなります。これは破壊的、おっそろしい絶望であります。
波は島民たちを飲み込み、陸を襲い、村々を瞬時にしてじゅうりんした。嘉崎浜海岸から宮良川に入った波は、轟川から侵入してきた怒涛と合流して高々と盛り上がり、、一気に島の中央、牧中の頂上に逆上した。
その高さは85メートルであります。それから島を飛び越えて反対側の名蔵湾にごうごうと流れて行った。生存者ゼロの、全滅した村もあり、石垣島だけですと50%近くが流亡しております。それから、幾重にも連なる山脈のように怒涛は海を走り、100キロ離れた宮古島に襲いかかった。高さ30mに達する怒涛、平べったい宮古島はひとたまりもなかった。そこでは2、548人が死亡しております。
以上が明和8年に起こった琉球史上最大最悪の「明和の大津波」であります。この周期が「200年」と琉大の教授が言っておりますので、もうそろそろ、という怖い思いが致します。天の神様、アーメン、我々をお助けください! (なお、資料は、牧野清著の「八重山の明和の大津波」を頂戴いたしました。)
新潟地震による災害、・・・素早い救援と復興を祈願します。
10月22日(金) 首を挟まれた男
完全ではありませんが、ようやく歩けるようになりましたので池袋へ映画を見に行きました。題名は今、話題の「ディープ・ブルー」であります。美しくて壮大である一方、食うものと食われるものの壮絶なドラマに、怪我した膝の痛み以上の痛みが胸を締め付けました。シャチの群れに子供を奪われる鯨の母親、鮮血に染まる海、海を真っ黒く染める魚群に突入する鮫やイルカ、鯨の群れ、そして空からの海鳥の大群襲来、小さき存在は食われても食われても次々と数を増やしていく・・・。
食物連鎖・・・、弱いものは弱いものなりに、強いものは強いものなりに、それぞれの存続と数の増加の術を修得しているものなんだな、と感心いたしました。そして深海、光の全くないところで、生き物たちは発光する術を身につけて懸命に進化する。宇宙の神秘以上の神秘が深海には広がっている。
私は膝の痛みと胸の痛みに耐えながら映画館を出た。260円で切符を買い、それから改札口を通り抜けて急行に乗った。座席に座るとさすがに激痛が膝から起こり、鈍痛が頭の芯まで伝わってきた。
5分ほど経ってからベルがなり、列車のドアが閉まった。それと同時に駆け込みがあって、首を挟まれた男がいた。「ぎえー、ぐわー、ア〜、あ〜・・・」という凄まじい悲鳴、・・・悲鳴というより断末魔のうめき、という表現がふさわしかったと思う。挟まれた頭が目だけをぎょろぎょろし、青ざめていく。
外の乗客たちはびっくりしてその男を見たが、どうしていいか分からす、じっとしているだけであった。私は咄嗟に立ち上がり、その男の首を挟んでいるドアーに両手をかけ、全身の力を振り絞って左右に開けた。かなりの抵抗のあと、扉は開いた。そして、男は中へ転がり込んできた。
彼はしばらく、ぐったりとしていたが、ようやく立ち上がり、照れくさそうに私に頭を下げた後、隣の車両へ移動していった。列車は動き出して速度を上げた。再び座席に座ると、激痛が爆発した。そういえば私は怪我人、無理なことは絶対にしてはならなかったのだ。
私は、また寝たっきりとなってしまいました。これからは完全に直るまで外に出ないことにする。・・・皆さんも怪我には十分気をつけましょう!
母が5・6歳の頃まで、曽祖父の母が健在だったという。つまり、ひいおじいさんのお母さんが生きていたのであります。「アカミー・ウマ」と呼ばれていたと母が言っておりました。アカミー、というのは瞼や目尻など、目の周りが赤くただれているという意味であります。ウマは老婆という意味です。昔は戸籍などありませんでしたので、何歳だったかははっきりしませんが、一人一人を計算しながら遡っていきますと、1802年、江戸時代の享和2年にたどり着きます。
ということは軽く120歳を超えていた計算になります。背が高く、面長で、時々、野良仕事にも出かけたということです。しかし、世間の風は冷たく、子供や孫、曾孫たちの身内が老衰や病気、事故などで死ぬたびに、アカミー・ウマがその命を吸い取っている、と陰口を言い合ったそうです。それで彼女は自分の長寿を嘆き、「プーッチ、スナバーユー」と母に口癖のように漏らしていたという。それは自分が、「はやく死ねばいいのに」という意味になります。
現代なら、マスコミがどっと押しかけて世界の英雄、女の鏡、人類の光、として大々的にクローズアップされたはずですが、当時はラジオもテレビも、セルフォン、Window XPなど、何もなかった時代ですので当然のことであります。
彼女が生きた江戸、明治時代と申しますと、沖縄、特に先島の農民たちは全くの奴隷でありました。人頭税というのがありまして、15歳から50歳までの男女がその納付義務者となっておりました。しかし、宮古島では、高さ1メートル25センチのブバカリ(人頭税石)というのが荷川取部落の海岸に設置され、その高さになった者は直ちに、納税義務者となったのであります。その石は現在でも残っております。
その人頭税の割り当ては各部落ごとに随時決められ、一人当たり宮古島では粟で約2石、俵にして6〜8俵となっていた。それはドラム缶の二つに匹敵します。しかし、それだけではなく、反布を幅30センチの、長さ50メートル、48種目にも及ぶ物産(なまこ、貝柱、ジュゴン、海人草、木耳、猪皮、牛皮、松脂、煙草、船具,船材、・・・その他いろいろ)、などを収めねばならなかった。
しかも公共工事に無償で従事したりする義務も負わされておりました。でありますから、当時の農民は朝4時から起きて納税のための仕事に就き、夜は月や星の明かりを頼りに畑仕事したのであります。滞納者には恐ろしい拷問が待ち受けておりました。その道具は、脛やま(6角の敷き棒)、鋏棒、肩棒、割口(竹製の鞭)、革鞭、その他いろいろがありまして、今なお保存されております。
彼らは大雨や台風で仕事が出来ない時など、酒を飲むと必ず泣いたという。泣き上戸ではなかったはずですが、絶望のドン底にあって、泣かずにはおられなかったのでしょう。この情け容赦のない、過酷な取立てに対して彼らの残した呪いの言葉があります。
しじゅうやあつぬ、ぐゆうむつ、ふぐば納め、穀上納ぬ7・8俵ん、ぐゆうふんしだしあげ納めてん、ぬちばあそうばが力あらぬ、天神ぬうたすけどやる。
(48種の御用物、船具を納め、穀上納の7・8俵も、また、御用布も調整して納めて、それでもなお命を保っているのは、決して自分の力ではない。全く神霊のご加護によるものである。)ですから、この時代の平均寿命は大変短く、40を過ぎるとほとんどがあの世への旅立ちとなったのであります。60を過ぎて生きている方はほとんどいなかったといいます。この地獄の風雪に耐え、明治、大正の120年余を生き抜いたアカミー・ウマ、どこにそのパワーが潜んでいたのか、不思議でたまりません。(昔は沖縄でも雪は降りました)
もしかすると、150歳以上を生き抜いたかも知れないアカミー・ウマ、いつまでも記録にとどめて大事にしたいと思います。
10月19日(火) インド仏教消滅の背景(最終回)
第二結集後、仏教は長老中心の上座部と、大衆を視野に置いた大衆部に分裂いたします。上座部の「戒律至上主義」に異議を唱えて「出家中心主義」が分立したわけであります。その後、前者は11部に、後者は9部に別れます。
意見の食い違いというのは悲劇ですね?今の日本で、一年間に4対1の割合で離婚が成立しているのも、意見の食い違いなんです。ちなみに昨年は、80万組のうち、20万組が離婚しております。執着を捨て、釈尊の教えである涅槃寂静の世界に入れば、そんな意見の対立はなかった、と思いますが、彼らは悟りが足らなかったのでしょうか?
それから、さらに分裂が続き、お互いに自分が正しく、他は間違っているとの論争が続くのでございます。この状態を「枝末分裂」と言うそうです。
上座仏教の本家、テーラワーダ仏教は伝統を守り、スリランカを経て東南アジアへと広がっていきます。南方へ広がったため「南伝仏教」とも呼ばれます。出家中心主義の仏教も同じく分裂を続けますが、仏教界が形式化し、大衆救済から離れていく傾向に懸念を抱いた一派が、紀元前後に大乗仏教を打建てます。
大衆救済を掲げる大乗仏教は実践道として「六波羅蜜」を掲げ、その実践者を菩薩、と致します。経典には、般若経、維摩経、法華経、無量寿経、などがあります。竜樹というお方が発起人で、空観という方と協力して大乗教学を完成させた、ということです。
中央アジアから中国、朝鮮、日本へと伝わりましので、「北伝仏教」ともいわれます。六波羅蜜とは、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ) のことで、八正道で己を磨き、六波羅蜜で世のため、人のために貢献いたしましょう、ということであります。
さて、仏教界のこういう状況下にあった当時のインドの民間宗教は、祭祀中心で祈祷、呪術、魔術的な信仰が根強く沁み込んでおりました。それがバラモン教と混ざり合いまして、ヒンズー教の外郭を作り始めていた時期であります。
仏教はバラモン教で行う祭祀や祈祷、呪術、魔法などを排斥し、カースト制に反対、人間は全て平等である、との態度を堅持し続けていた。その高踏的で独善的な姿勢は庶民には受け入れがたく、苦しい修行と悟りによって救われるというのは、拷問に等しいようなものであったと思われます。それより、悩み苦しみ、災いを祈祷と呪術、祭祀によって取り除いてもらうほうがはるかに楽であった。
一方、仏教は上流階級の王、貴族、富豪商人などのバックアップを受けて、その存立の安定を確保していた。したがって、一般庶民に馴染んでいくという必要性はなかったわけで、ただ、奥深い大寺院の中でお経を唱え、真理とは何か、悟りとは何かを考えておれば良かったのであります。つまり、教理と戯れて自己満足に浸るような傾向が、伝染病のように広がっていきます。
また、寄進された莫大な土地を小作させて現金収入としたり、同じく寄進された大金をいろいろな商人に貸して、その利息を頂いたりしていた、という記録もございます。これは立派な金融業でもあります。
庶民離れという仏教徒の傾向が強まるにつれて、インドにおける仏教はその本来の教えから次第に異質のものへと変貌していきます。もちろん初期の大乗仏教には、積極的に民衆に働きかけ、教えを広めて導こうとする仏教徒も多かったわけですが、先祖伝来の民間宗教に依存しきっている彼らを導く、ということは容易ではなかった。そこで、庶民に浸透していく手段として、仏教も呪術的要素を取り入れるようになります。
梵文の句を集めて「陀羅尼」というお経の類がいろいろと作られ、経典読誦による霊的パワーを信じ込ませようとしました。その延長線上に「密教」が現れたのであります。そこでは大日如来が主人公でありまして、他の宗教のメインとなる神々は全て大日如来のことである、とした。そして、密教のある一派はタントラという卑猥な宗教を採用したのでございます。
これは、全宇宙は己の内なる一点から発し、その一点を定めることによって永遠不滅のパワーが収得できる、とする神秘主義的教義を持つ宗教であります。その儀式は、祈り、呪文、呪術的図式・記号、特別神、の崇拝に基づくもので、その最高形態は、マディヤ(酒),マツヤ(魚),マーンサ(肉),ムドラー(印契),マイトゥナ(交接)を共にすることであります。
ムドラー(印契)とは10本の指をいろいろと組み合わせて神秘的パワーを発揚したり、意思表示をするものです。彼らは女性の創造のパワー、シャクティをあらゆる力の源として崇拝していたのであります。
儀式の中において、酒肴と肉を飲み食いし、怪しげにムドラーを行って男女が交わる。これを密教の一派は公然と取り入れていったのです。しかも、薬物乱用まで出てくる始末でした。飲酒と邪淫を厳しく禁止した釈迦の教えはここでは完全に破壊され、裏切られています。それからインドにおける仏教は著しく荒廃していくのであります。
グプタ王朝(320年成立)以降、王が仏教を弾圧するようになり、ヒンズー教を保護するようになった理由はそこにあると思います。民間信仰とバラモン教の合体であるヒンズー教は、結婚、葬式、出生、命名、厄払い、家庭円満、豊年満作、商売繁盛祈願、など、彼ら独自の宗教儀式で対処し、一般庶民のハートを完全に掴んでしまった、というわけであります。
さらに、海外貿易の最大の拠点だった西ローマ帝国が、傭兵隊長オドアケルの叛乱(476年)によって滅亡したため、仏教の経済的支援をしてきた富豪や商人達が次々と倒産し、破産宣告する者や、夜逃げする者が続出して仏教の衰退は一気に速度を上げていきます。
そして、八世紀初頭、アラブ軍が侵入し仏教弾圧が始まり、1203年、仏教最後の拠点のヴィクラマシラー大寺が、何の痕跡を残さない迄に徹底的に破壊され、 致命的な打撃をこうむります。13世紀の初め、トルコ系異民族の政権成立とともにインにおける仏教の殆どが滅び去ることになります。密教の一部の僧侶たちはチベットへと逃れていったのであります。
以上で「釈尊とインドにおける仏教消滅の背景」を終わりと致します。9回に及ぶシリーズ、疲れました。そこに、いかなる価値があるか?と問われますと、答えは"Nothing" です。しかし、誰が何と言おうと、価値観を無視して信念の実践に集中する、ということが人間には大切だと思います。
しかし、私も釈迦の教えの根本が、微かながらもようやく分かったのですが、物理的視点における宇宙構造や自然現象、その原因、物質構造などが全く分からない時代に、よく、ここまで悟りを開かれたものだと感心いたします。おそらく釈迦が現代社会において、あらゆる科学知識を習得し、その上に立って、苦行から中道に則った悟りに至ったとき、全く異質の世界観が広がったと思います。
釈迦は教団としての仏教は望まず、真理と人類救済、心の完成としての仏教を、はるか2500年前の過去から波紋のように広げております。そして、彼の最古の言葉集である3原典の一つ「パリニッバーナ」では、誰かが唱えたものが真理であれば、それは間違いなく仏陀の言葉である、としております。ということは、仏教の教理は真理から真理へと拡大していきなさい、という無言の指示があるということです。
釈尊はあらゆる執着を捨て、煩悩を払拭すれば苦しみはなくなり、涅槃の境地に達する、としております。しかし、彼が現代社会で悟りを開いたとするなら、制御された清浄な執着と欲こそ人類発展の鍵、としたかもしれません。なぜなら、人類は不老不死の時代に入ろうとしているからであります。科学はそこまで進化発展しております。
では、これにて長かった勉強を終わります。皆様ご苦労様でした。なお、お望みの方には修了書を渡しますのでご連絡ください。
10月17日(日) 釈迦の入滅とテーラワーダ仏教簡単に申し上げますと、釈尊はバラモンの祭式万能主義や、氏姓制度による人間差別に反対し、男女平等、人間完成を、愛と正義と思いやりの上に立って強く叫び続けたということであります。
人間の価値は生まれながらにして決まっているのではなく、その存在と行いによって決まる。真理を追究し、それにそった生活をするところに救われる道がある、ということであります。
他宗と大きく違うところは、神に救いを求めるのでなく、「人間の人間による人間のための心の完成」に救いを求めた点であります。現実に対する正しい認識を、「縁起」「四諦」「八正道」によって確立し、自分自身の中に真理なるもの、正義なるものを実践しようとするのが根本課題となっております。 このことは次に述べる逸話によって実感できると思います。
教団が安定したとき、釈迦は従弟でもある弟子の阿難を連れて説法の旅に出ます。その道中でガウタミーという女性に出会いました。彼女は釈迦の高名と偉大さを知っておりましたので、平伏してお願いいたしました。
なにとぞ、死んだ子供を生き返らせてください」
それに対して釈迦は静かに答えた。
「では、この町でまだ一人も死人を出していない家から白芥子(しろからし)を貰ってきなさい」
彼女は町中を駆け回り、必死になってまだ死人を出していない家を探し回りました。ところがそんな家は一軒もなかった。ガウタミーはその時、初めて目覚めたのであった。
誰もが肉親の死に遭遇している。誰もがその苦しみの中から這い上がって生きている。彼女は己の生きるべき道を悟り、出家して釈迦の弟子となったのであります。
それから、あるところでは残虐非道な殺人鬼・アングリマーラに襲われます。これまで999人を殺し、釈迦を殺せば1000人達成、というところでした。弁慶が牛若丸を襲い、1000人達成、というストーリーはこれのパロディーかもしれませんね? しかし、釈迦は泰然自若として説法を説きます。
「ばかものー、てめーに俺が殺せるか? その前に鼻から指突っ込んで、奥歯がたがた言わせるぞ!」
とは絶対に言わなかったと思いますが、彼は釈迦の堂々たる態度に口をアングリ(それでアングリマーラ)と開けて恐れ入り、神妙に説法を聞いたのであります。そして己のこれまでの悪行を悔い、出家して釈迦の弟子となった。
釈迦の教えは広がり、いろいろな階層に浸透していきます。後で十大弟子の1人となったウパーリは下層階級のシュードラであった。
最初、他の修行者たちから軽視され、食事を共にすることも嫌がられましたが、修行者間に身分の差などない。人間全て平等である、という釈迦の説法でみなは納得し、彼と対等に付き合うようになった。
説法の旅は続きますが、70歳過ぎた頃から体力が極端に衰えてきます。教団を仕切っていた一番弟子の舎利弗が亡くなり、マハーカッサパ(摩訶迦葉)がその後を引き継ぐようになります。
そして、80歳のとき、クシナーラ郊外の沙羅双樹の間で、阿難たちに見守られながら北枕の西向きで入滅いたします。一説によりますとパーヴァーの町で、鍛冶屋のチャンダという青年が差し出したきのこ料理を食べて中毒死した、とか、直腸癌であったとか言われております。
釈迦は自然死ではなくて、何らかの病で死んだ、ということは確かなようであります。
釈迦の出生地、悟りを開いた場所、初めて説法した初転法輪の地、入滅した場所、の4箇所を仏教の4大聖地と言います。それはルンビニー、ブッダガヤー、サールナート、クシナガラでありますので、しっかりと覚えてインド旅行に行くときは資料情報源にいたしましょう。
釈迦がお亡くなりになった後、異端邪説を唱える者が次々と出てまいります。従弟であるテーヴァダッダなどは教団を離れ、独自の宗教集団を作ってしまいました。
そこで釈迦入滅後、3ヶ月してマガタ国の王・アジャータサットゥは釈迦の言葉や教団の戒律を編纂してまとめ、後世に長く伝えるために編集会議を開くことにいたしました。
なお、アジャータサットゥは、釈迦の国、カピラを攻め滅ぼしたコーサラ国を攻撃して壊滅させております。それが、釈迦のための敵討ちだったかどうかは定かではありません。
この編集会議を第一結集と言いまして、500人の弟子が集結し、摩訶迦葉が議長となり、最後まで釈迦のそばにいた阿難、そして戒律に詳しい優波離 (うぱり)が中心的な役割を果たすのであります。
第二回結集は100年後に行われましたが、その後も何回か行われ、仏教は戒律の解釈から分裂、保守派の上座部と革新派の大衆部に分かれます。さらにその大衆部は小乗仏教と大乗仏教に分離し、さらにその後、20余の派に分かれてしまいます。
しかし、第一回結集時の上座部はかたくなに釈迦の言葉、原典を忠実かつ正確に守り通し、口述によって前1世紀までの300年間、それを維持するのであります。
しかし、スリランカや中国へ大乗仏教が広がっていったため、その教理と、自分たちが守り通してきた口述の教理が混同される懸念が出てきたため、文字によって書き残すことを考えたのであります。なお、この上座部はテーラワーダ仏教と言われ、長老仏教という意味になります。
分かれた大衆部からさらに大乗仏教が分離し、母体である大衆部を小乗仏教と呼んで卑下しております。この小乗仏教とテーラワーダ仏教が同一視されておりますので、それを知らない仏教研究者は、新たな分野から調査研究して確かめてください。つまり、テーラワーダ仏教は唯一根源的仏教と言うことになります。
最初に書かれた口述の経典は、スリランカ文字で椰子の葉に書かれました。それは書くと言うより掘り込む、と言ったほうがいいのかもしれません。鉄の棒の先端を尖らし、それで椰子の葉に掘り込んで墨汁を流し込む、と言う作業が延々と続いたのでございます。
・・・今日も長々となってしまいました。ん、この勉強、終わるつもりが終われません。続きは明日と明後日に持ち越しそうです。
では、きょうはこれにて失礼いたします。夜も更けてまいりました。暗い夜空には星は見えません。しかし、心の眼には、宇宙の無限性にきらめき輝く壮麗な星空が見えます。It's a wonderful space. Have a nice dream !
10月16日 伝道
「苦は欲望と執着によって生じる。したがってそれを断ち切れば苦はなくなる。断ち切る方法は八正道を知り、それを実践することである。・・・これを四聖諦という。八聖道とは、物事を正しく見る、正しく思う、正しい言葉を話す、正しい行動をする、規則正しい生活をする、正義を全うする、仏法を念じる、心のバランスを維持する、という簡単なことだ・・・、Can you understand ? この世は一切が諸行無常で、永遠に生滅を繰り返す、しかも、諸法無我であり、個体が死んだらそれまで、輪廻転生なんってものはない。でありますから、じだばた足掻くことをやめて、涅槃寂静、悟りを完成させなさーい!」
初転法輪はこのような内容のことが記載されております。5人は、これまでのバラモン哲学を根底からひっくり返す論理にびっくり、無条件で釈尊の第1〜5号弟子となります。原始仏教では、上述の諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三つを「三法印」ともうして教の根本としております。
この時代はなぜか世界的に、精神革命が同時多発的に起こっております。エレミア書とユダヤ教、ザラシュトラによるゾロアスター教、孔子による儒教、プラトンのイデア論提唱、その他いろいろがいたるところで噴火したのでございます。
インド国内におきましても、バラモン教に反発する過激な思想が多数発生しております。その集団の主なものを6派あげまして、初期の仏教経典ではこれを「六師外道」と呼んでおります。
人間は地・水・火・風の四元素から出来ていると主張し、死後には何も残らないとしたアジタ派、人間は快楽の七つの要素からなる存在、として道徳を否定したパクダ派、極悪非道を行ってもそれに対する報いなどは絶対にない、として倫理道徳を否定したプーラナ派、運命の流れが全てで、因果関係も、個人の自由意志も何の役にも立たない、としたマッカリ派、この世に真理なんってあるのかしら?と懐疑論を唱えたサンジャヤ、極限の苦行を通して霊魂(アートマン)のパワーを得ることが出来る、と主張したジャナイ教の開祖・ニガンダ派、がそれであります。
釈尊の教えもそうですが、どれもこれもバラモン教の根本教義に真っ向から逆らっております。人間の魂は永遠不滅であり。悪行を働いたものは来世は畜生に生まれ変わり、善行を働いたものは苦しみのない極楽や上流家庭に生まれてくる。ですから現世で不幸な人は前世で悪いことをした人ですから、その悪因縁を生きているうちに払い、綺麗な心、魂となって来世はいい所へ生まれ変わりましょう・・・。
というのが大体の意味ですが、それがアーリア人優位の氏姓制度を強固なものにしていたのであり、トップに君臨するバラモンの下層階級軽視と傲慢さ、それにマンネリ化した退廃に対する反発が招いたものであります。
しかし、その時のカースト制は現代のそれとは趣をことにしており、アーリヤ人からなるバラモン、王族、庶民、そして原住民系の奴隷、という区切りでゆるやかに構成されておりました。しかし、現代はその間の仕切りが鉄壁でありまして、世襲制の閉鎖社会となっております。貧富の差が天と地の差ほどあり、高貴と不浄の価値観がもっとも厳しく、人間差別が世界一激しいところであります。人間扱いされないシュードラ、そのカーストの種類は現在、2500以上もあるといわれております。
話が横道に逸れましたが、初輪転法は最初の伝道のスタートであります。それから釈尊は80歳になるまで伝道の旅を続けます。当時の人々の寿命が40歳だったことを思えば、換算して現代人が150歳も生きたことになりますね?。
・・・第六の弟子はヴァーラーナシーの豪商の息子・ヤサでした。現代でいえば財閥の甘やかされて育った道楽息子、ということになります。やりたい放題の全てが満たされますと、なぜか人間は虚しさを感じ、死にたい、死にたいと思うようになります。ヤサはそういう状況にあった。
そのヤサが釈尊とすれ違ったとき、ただものではないと直感し、教えを乞った。そこで釈尊は道楽息子にぴったりの言葉使いで説法しました。
「この世ってのはよ、苦しみだけがあっていいことは一つもねーんだ。お前もそう思うだろう?おれもつくづくそう思う・・・、ほんとに嫌な世の中に生まれてきたものだ。・・・だがよー、何で苦しみがあると思う?それは自分が何をすればいいか、まったく分からないからだ。つまり、心の勉強をしないからだ・・・」
というような感じだと勝手に推察いたしますが、こういう相手に合わせた説法を「対機説法」と言うそうです。苦行者には苦行者にふさわしく、商人には商人にふさわしく、釈尊は言葉使いを選んで説教いたしました。
ということでヤサは感激感動し、その場ですぐに弟子入りいたしました。続いて彼の両親、4人の友人、そのまた友人の50人が芋づる式に入信し、両親を除いて出家するのであります。出家しないで入信する男をウパーサカ、女をウパーシキーと言います。つまりヤサの両親は、ウパーサカ、ウパーシキとして入信した、というわけであります。
それから優秀な弟子たちが次々と入信してまいりますが、釈尊は伝道目的でウルヴューラーへ向かいます。その途中、ジャングルの中の大木の下で休憩しておりますと、30人の若者たちが血走った目でやってまいりました。
「女が我々の持ち物を盗んで逃げた。見かけなかったか?」
そこで釈尊は答えました。
「お前たち、同じ探すのであれば、愚かな女より、おのれ自身の宝、真理を探したほうがいいのではないのか?」
若者たちはびっくり、釈尊をただものではないと直感し、説法を聞いた後、弟子入りしたのであります。・・・そして、ウルヴューラーに到着いたしますと、そこにバラモン出身で、カッサパという姓の3兄弟がおりました。彼らの名は、上から順に、ウルビラ、ナダイ、ガヤと呼ばれていた。彼らは火の神を信じる宗教を築き上げ、千人余りの修行者を抱えていた。
そして、長男のウルビラと釈尊の宗教討論が行われたのであります。ブッシュとケリーのテレビ討論よりも激しかったと思います。結果はウルビラがコテンパンにやられまして、脱帽、その場で丸坊主になって入信いたしました。
それを見た彼の500人余の修行者たちも、丸坊主となって後に続いたのでございます。さらに、二人の弟もお兄さんに続け、というわけで500人の修行者を引き連れて入信いたしました。釈尊の弟子はあっという間にこの時点において、1500人を超えたのであります。
その後も信者は増え続け、庶民、王族、バラモンの中へ浸透していきました。特にマガタ国の王は釈尊の教えに深く感銘し、住居として王舎城の郊外にある竹林園を寄進したのでございます。さらに、コーサラ国の王も感銘し、首都・舎衛城の郊外に祇園精舎を作って寄進いたします。しかし、そのコーサラ国はカピラ国(釈尊の母国)を攻め滅ぼしてしまいますので、ちょっと理解に苦しみます。
その祇園精舎について一つの逸話が残っております。ほんとかどうかはよく分かりませんが、半分ほどは信用できると思います。
舎衛城に、スタッタという長者番付一位の富豪がいた。彼は商用で王舎城へ行ったとき、釈尊の説法を聞き、深く感動しその場で帰依いたしました。
そして、コーサラ国の王子ジェータに彼が所有する園林を売ってくれ、と頼みます。しかし、ジェータは断った。スタッタは諦めずに何度も懇願した。最後にジェータは皮肉たっぷりに言った。
「それほどまでに言うのであれば売ってやろう。ただし、土地に黄金を敷き詰めてみろ。その分だけ売ってやる」
スタッタは喜んで黄金を敷き始めました。これで諦めるだろう、と思っていたジェータはびっくり、そのわけを聞きます。そして、スタッタの誠真実の心に感激し、その土地を無償で提供したのであります。そこにスタッタは祇園精舎を建てて釈尊に捧げた、ということです。
平家物語の冒頭にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。・・・」の祇園精舎がそれであります。
今日の勉強はこれぐらいにしておきます。この勉強、なかなか終わりそうで終わらないですね? 私も疲れてきましたので、次は、インドでなぜ仏教が消滅したか、を勉強して終わることにいたします。 Ok, See you tomorrow !