1.メンタルヘルス上のリスクの、今日的増大
メンタルヘルス上の問題や障害が後を絶たないという。実際、精神科や心療内科領域における受診者数は増加の一途を辿っている
(→参考)。統合失調症・典型的躁鬱病・psychotic depressionのような、生物学的にも深刻な障害が想定される疾患群に関しては増加がみられないものの、比較的軽い病像の抑鬱状態や
B群人格障害、摂食障害などの増加は著しい。このテキストでは、現代社会の有り様が個人のメンタルヘルス全般にどのような負荷を与えてるのかについて考えてみる。日本の津々浦々においてここまで精神科を受診する個人が増えている以上、これを個人の素養
(特に生物学的/遺伝的素養)に由来した現象と考えるのは妥当ではなかろう。
もっとマクロで統計的な、微弱にせよ広範囲なメンタルヘルス上の負荷が日本全体にかかっていて統計的増加に繋がっていると考えるのが妥当ではないだろうか。
2.本題に入る前に――社会病理・社会構造に由来する以外の精神科受診者増大要因に関して
このテキストを通して私は、「“社会構造の変化によって、数十年前よりもメンタルヘルス上の問題が増加しやすくなっている」と指摘したいわけだが、その前に、社会構造の変化というよりも精神科界隈における変化が受信者数増大に繋がっているっぽい部分を、予め紹介しておこうと思う。
まず、精神医学にアクセスする敷居が下がった事を挙げなければならない。一昔前の精神病院は、色んな意味で敷居の高い存在だった。ところが、メディアによる啓蒙や心療内科の立て看板の普及などによって、精神医学や精神科薬物療法などへの距離感はグッと縮まった。このため、
比較的軽症で以前だったら精神科にアクセスしなかったであろう一群も精神科の門をノックするようになった、ということが例数増加に繋がっている点に留意しなければならない。
また、折からの心理学ブームや「アクセサリーやサプリメントとしての心療内科通院」も例数増加に拍車をかけている点も見逃せない。様々な文化シーンで心理学的解釈を用いた描写が1990年代やたらと流行したが、こうした文化シーンにおける流行が心療内科にある種の“ファッション性”を与えてしまった可能性を私は否定することが出来ない。まるで
流行のドラッグか煙草のようにリストカット・OD・向精神薬・“カウンセリング”を消費し、時にはaddiction(依存)にすら至る人達の存在もまた、精神科受診者の増加に一役買っているかもしれない。最終的には、“ファッショナブルな心療内科的”作品がやんやの喝采を浴びた原因もまた社会構造に由来するところが大きいわけだけれど、本テキストではこれ以上踏み込まない。
加えて、精神疾患の概念の拡大、とりわけ
ICD-10や
DSM-IVに登場した
SADや
GADなどの幾つかの疾患概念の普及によって、
精神科/心療内科が治療の対象とする状態のレンジが広がった可能性にも注目しておこう。操作的診断技法とSSRI等による治療法の宣伝によって、これまでは見過ごされてきた
(または疾患として取り扱われてこなかった)傾向の人達が精神科の門をノックするようになった事も、症例数の増加に繋がっているだろう。例えば、かつては絶対に精神科受診に繋がっていないであろう、比較的社会適応の疎外されていないSADや割と軽度の
パニック障害の症例は、最近の臨床現場ではごくありふれた存在といえる。
このように、精神医学側からの働きかけによっても症例数はしていることだろう。この事を差し引いて考えていかなければならない。
3.数十年前の日本人よりも(メンタルヘルス上の)負荷を被っている現代都市空間の住人達
では、本題にうつる。
これから、私達がかつてないほどの負荷をメンタルに被っているのかを紹介していく。ここから挙げる各要素は、どれも単一では個人のメンタルヘルスを躓かせることは少なかろう。だが、複数重なった場合、無視しえない負荷となって個人の“自律神経系や中枢神経系”を侵すに違いない。幾つかの負荷がかかった程度でメンタル上のホメオスタシスがひっくり返るほど、人間の神経はヤワではない
※1が、引っ越し・親しい人との離別・昇進などのように地に足がついていない状況下ではそうはいかない。もし、
数十年前よりも現代都市空間が“広く薄く”負荷の大きい状況だとすれば、引っ越しや昇進に伴って任意の個人がメンタルヘルスの面で躓く確率は、数十年前よりも高いものになるに違いない。それに伴い、マクロのレベルでは統計的に例数が増大することだろう。そして、私の考える限り、現在の日本型ポストモダン社会はメンタルヘルス上、きわめて負荷の大きな社会に思えてならないのである。
以下の文章では、
・メンタルヘルスを侵す因子の増大(メンタルヘルスを悪化させる因子の増大)
・回復ファクターの低下(メンタルヘルスを改善させる因子の減少)
・メンタルの耐性強化やコーピング学習の低下(メンタルヘルスを維持する個人的素養の低下)
に分けて説明してみよう。
4.メンタルヘルスを侵す因子の増大
A.労働を巡る状況の悪化
社会学的な論説において真っ先に挙げられがちなのは、『労働時間の増大』『労働環境の苛烈化』『失業やニートの増大』『終身雇用制が崩壊したのにやり直しの利かない社会』などといった労働環境を巡る問題であり、事実それらは十分に着眼に値すると思う。だが、このファクターについては既に語られ尽くした感があるので、本テキストには言及しない。
他サイト等の優れた総説をご参照いただきたい。
(ここで色々拾えます)
B.コマーシャリズムに煽られる、強迫的消費欲
成熟した消費資本主義社会は、実はそれそのものがメンタルヘルスにとっての負荷なのではないか?
個人の消費欲を煽る沢山のコマーシャル・溢れんばかりの商品の山・セレブだのプレミアムだのと煽る金銭や文化の消費は、二つの意味で個人のメンタルヘルスにダメージを強いるものだと思う。
まず第一に、
レジャーや文化コンテンツの消費は実はそれなりに疲れることだという事を指摘しておきたい。消費する事は楽しいことかもしれないが、実は肉体なり神経なりを使って消耗している、少なくとも休息していないという点には注目しておかなければならない。例えば海水浴場や避暑地に向かう高速道路はひどい渋滞を呈するし、行った先でも神経を遣う機会は数多いわけだが、こういう部分はしばしば忘れられがちである。たとい温泉に行く場合でも、近くて馴染みの宿ならともかく、遠くて見知らぬ宿で果たしてどこまで“心身をひとやすみさせているのか”は怪しい。とりわけ渋滞やハードスケジュールが伴う時は尚更である。だが、現代の消費資本主義社会は強烈な消費願望を惹起してやまず、欲望を抑制する事のメリットなり抑制する為の方法論なりがテレビの主流を占めることは無い。
レジャーや各種活動(スポーツすら!)において消費されるのは、金銭だけじゃない。体力・精神力も失われることも忘れるわけにはいかない。時には気分転換が必要なのはわかるとしても、家でゴロゴロしているほうが体力と精神力を温存しやすい事を誰もが忘れてレジャーに狂奔しているのだから恐ろしい。家にいても、インターネットやらテレビやらで消耗するチャンスは幾らでもある。レジャーと消費がメンタルを追い剥ぎしているが如しである。
第二に、
(各個人が)消費熱を煽られた結果として、金銭を稼ぎ消費しなければならないという強迫性が増大している点も私は懸念する。“セレブ”だの“プレミアム”だのといった売り文句は、身の丈以上の消費に死にものぐるいになる個人を増大させていることと思う。そもそも、身の丈そのものがわかりにくい。しかし、個人の可処分所得には限界があるため、
消費熱に煽られれば煽られるほど、財政的に個人は圧迫され、生活に余裕がなくなったり、働ける限界まで働いて金銭をかき集めて吐き出さざるを得なくなるのが定め。
高利貸の存在やクレジットカードの利便性もまた、こうした事態に拍車をかけており、気の毒な人達の金銭的余裕を磨りつぶし、
(連鎖的帰結として)生活そのものの余裕をも奪っている。消費資本主義社会の誘惑に耐性の無い個人は、コマーシャリズムに踊らされるまま消費しまくり、本来被らなくても良かったかもしれない窮乏に立たされやすい。また窮乏とまではいかないにしても、広告をみていなければ不要だった筈の労働やポジションに心身をすり減らす人で街は溢れかえっている。キーワードは、“もっと欲しい”“もっと消費したい”。消費資本主義的煽りによって欲深になればなるほど背負わなければならない対価も上昇していくのだが、メディアは、消費に伴うメリット
(心地よさ。その中にはアイデンティティの補強すら含む)ばかり喧伝するものの、それに伴う対価を喧伝することを好まない。
消費資本主義が現在のように回転する状況が続く限り、“必死に稼いで必死に吐き出す”ことに心身をすり減らす個人はなかなか減少しない、と私は懸念する。だが、
これはもう社会構造上不可避のものとして、お付き合いしていくほか無い娑婆苦と考えざるを得ない。「強迫的な消費が金銭のみならず心身の余裕をも奪いかねない」と主張してみたところで、
欲望や執着に拐かされた人の蒙を啓く事は容易ではないだろうし、スローライフすらといった概念すら欲望の対象としてパッケージングされている昨今、出口を抜けたつもりがやっぱり強迫的に消費していたなんて事態も想定されるので厄介である。
C.取り扱い情報量の増大と、それに伴う判断の機会の増大(現代都市空間特有の負荷)
狩猟採集社会や農耕社会に比べると、現在の日本、とりわけ都市部の生活においては、単位時間あたりに個人が取り扱う有意味な情報・判断を要する情報が著しく増大している。立て看板、見知らぬ人間、メディアetcは、関わるか関わらないか程度とはいえ
脳に判断を迫る有意味な情報として負荷をかけている。網膜から飛び込んでくる映像バイト数自体は、動きの無い農村社会でも現代都市空間でもあまり変わらないが、
判断を迫る情報か否かや、
慣れ親しんだ情報か否かという点では農村と現代都市空間には雲泥の差がある点に着目していただきたい。目に飛び込むどぎつい看板
(とりわけ体の良い文句を書いてある奴)・初対面の人との度重なる会合・大群衆、などは、実はどれもこれも情報負荷を脳にかけているが、都会ではあまりにも当たり前のものになっているせいか、現代人はこうした情報負荷のリスクとストレスに意外なほど鈍感なことが多い。猥雑な都市空間や初対面のコミュニケーションといったものが、いかに脳に負荷をかけるものなのかに気付いた頃には、心療内科や精神科を受診せざるを得ない状況になっているという人は枚挙に暇が無い。というか、脳が機能障害を起こしてはじめて、それらが微弱なりとも負荷であった事に気付く人は少なくない。
いつも似たような景色で顔見知りの限られた人間・情報にしか出会わない田舎世界に比べて、現代都市空間で現代人然とした生活をとっている人は、大量の情報を否応なく演算処理せざるを得ない点に私は注目する。
現代都市空間と言う名のヒト・情報の大河は、脳に負荷をかけずにはいられない。とりわけ、初対面の他人と交渉する機会の多い人・職場を転々とする人・新規の情報を大量に取り扱う人、などは、どれほどそつない対人適応を達成していたとしても
(否、そつない対人適応をしている場合にはなお一層!)大量の情報負荷を脳にかけていることだろう。今日日、情報・ヒト・都市空間に背を向けるという選択は、そこそこ以上の社会適応を達成する場合にはまず許されないし、一定以上のステータスを保とうと思ったらむしろ積極的にそれらと向き合わなければならない。が、脳の情報処理にはハードウェア上の限界が個人個人に明確に存在している。
野心や社会的要請のままに、己の脳のスペックを超えた情報量を取り扱おうとした個人は、メンタルヘルス上、大きなリスクを負うことになるだろう。
D.地域社会の崩壊に伴う、個々の場面における新規性と不確定性や不安の増大
C.を補足する要素として、地域社会の崩壊や文化細切れ化に伴う、個々の対人場面の新規性・不確定性の増加と、それらに伴う不安の増大も指摘しておこう。
初対面の人間や勝手を知らない人間とのコミュニケーションは、推測の難しさや共通理解の乏しさもあって、脳をめまぐるしく回転させる傾向にある。付き合いの枠付けも定まらない不確定な関係性の場合、その傾向はとりわけ顕著であろう。近くに住む人達との距離が遠のき、文化ニッチが細切れ化した現代都市空間においては、隣近所の人達との遭遇すら気安いものではない。昭和時代の下町のような、相互の価値観や文化に共通点が多い状況下のコミュニケーションと比べた時、現代都市空間におけるコミュニケーションは相手の振るまいや意図が明らかに読みにくい
(けれども読まざるを得ない)。“隣りにどんな奴が住んでいるかわかったものではない”という状況では、近隣住民が危機に際してサポートしてくれる可能性は失われやすく、見知らぬ人への不安も増大しやすい。そのうえ
地域社会の崩壊によってpublic spaceにおける自己中心的振る舞いが増大する可能性がある事も考慮した時、
街で遭遇する他人はストレスや負荷の源になる事こそあれ、ストレスバッファやサポートの源泉としては期待できなくなりつつある、と考えざるを得ないだろう。地域社会の崩壊や文化的細切れは、人的流動性と様々な便利さの代償として仕方の無いもの
※3だが、隣近所の人達とのコミュニケーションがしんどいものとなり、しかもsupportiveなネットワークも無くなってしまっている点には十分意識的であっても良いのではないだろうか。
なお、地域社会の崩壊は近所付き合いに由来する手間暇・ストレスを減弱させる事には成功しており、これによって救われている人は決して少なくない点にも留意しなければならないだろう。とはいえ、前述のとおり地域内コミュニケーションの負荷は大きくなり、地域のサポートも失われた事を差し引きすると、地域社会がある状況に比べると致命的状況に至る確率は高くなっているのではないだろうか。また、
セキュリティの点でも、地域社会の崩壊によって個人にかかる物的心的コストが増大している点も見逃せない。
E.非言語コミュニケーションの有用性に目をつけた過剰適応プレイヤー達
価値観や文化の細切れにも関わらずコミュニケーションを維持し、個人の適応を守るためリソースとして非言語コミュニケーションスキル/スペックが脚光を浴びる時代が到来したわけだが、この非言語コミュニケーション――とりわけ自分自身の情動操作など――は言語レベルのコミュニケーションに比べて自律神経をすり減らしやすい。文化ニッチ細切れの状況下において文化越境を果たすには、言語レベルのコミュニケーションでは心許なく、どうしても非言語レベルの情動送受信も要請されるが、非言語レベルの情動操作を意図的かつ頻繁に行えば、神経の摩耗は避けられない。とりわけ、相手から良い評価を得ることに汲々としている場合には尚更である。
非言語レベルのコミュニケーションを多用することは、その場その場の個人的適応を有利に導きやすいが、脳や自律神経に過大な負担をかける。が、この点に自覚的な人は意外と少なく、
巧みな非言語コミュニケーションスキル/スペックを持ちながらも神経を摩耗させて“燃料切れ”に至る人は少なくない。こうした適応スタイルのプレイヤーは以前から存在してはいたが、非言語コミュニケーションの有用性と必要性の高まった現況ではさらに増大してきていると私は推定している。
F.非言語コミュニケーションが生来的に苦手な人達の不適応
また逆に、生来的に非言語コミュニケーションが苦手な人は、現代都市空間の流れの速さのなかで取り残されて、不適応に至る可能性を増大させていると思われる。文化も価値観もまちまちな現代都市空間においては、それらを越境してコミュニケーションする為のプリミティブなコミュニケーションスキルの獲得が非常に重要になってくるが、それらが乏しい人の為のトレーニングの場や苦手な人付き合いを学ぶ場は、かつてないほど少なく狭くなっており、
コミュニケーションスキル/スペックを後天的学習によってカバーするのは今まで以上に容易ではない(→参考)。現代都市空間で要請されるコミュニケーションスキル/スペックのなかでも、基軸通貨として有用性の高い非言語コミュニケーション能力が不十分な人は、
コミュニティのなかで後天的にそれらを学習する機会も乏しいまま現代都市空間に放り出され、人の間で生きていくのが辛い状態を経験することになりがちと思われる。
この結果、生来的に非言語コミュニケーションが得意ではない人やコミュニケーション上のフレキシビリティが遅い人
(これらはいずれも、女性よりも男性に多い傾向と思われる)は、現代都市空間のコミュニケーションシーンに氾濫する非言語シグナルやフレキシビリティの要請に追随しきれず、社会的ステータスを維持できなくなったり適応を疎外されてしまうリスクを負いやすくなっている。過剰適応者がメンタルを酷使しすぎて墜落するリスクを抱える一方で、非言語コミュニケーションが元々苦手で後天的学習も不十分だった人達は、コミュニティや社会のなかで望ましいポジションや関係を構築しにくい状態に追いつめられて潰れてしまうリスクを負っている。不適応・社会的活動範囲の狭小化は、それ自体は“disorder”ではないが、葛藤やらストレスやらを生み出しやすく自己実現を妨害しやすいという点ではメンタルヘルスによからぬ影響を与える因子として考慮しなければならないと思われる。
[そういう人達が不適応に至らない為に実際に取っている適応形式]:能動過小傾向が該当する、彼らの適応形式について
5.回復ファクターの低下
A.睡眠時間の低下
脳みそを休める時間として、睡眠時間は非常に重要にも関わらず、現代人の生活においては軽視されやすい。
仕事・レジャーなどによる圧迫によって睡眠時間が脇に追いやられるという事は、脳を酷使する時間を増大させ、脳を休ませる時間を減少させる事に他ならないのに、誰もが睡眠時間を削って平然としている。睡眠不足がメンタルヘルスにどのような影響を与えているのかは、実は定かではない部分も多かったりするが、一定以上の睡眠不足や不眠の持続が殆どの人の中枢神経機能を低下させること疑問の余地は無い。睡眠時間低下はもっと着目されても良い筈なのだが…。
関連:
都道府県別の生活時間配分
関連:
wikipedia、睡眠
B.宗教のストレスバッファ機能等の後退
宗教は色々と面倒くさい副作用を持つ一方、価値観の共有・ストレスバッファ
※4・過度の執着に対する節制・互助性を提供してくれる一面を持っている。しかし、ご存じの通り、日本における仏教・神道・土着の宗教的風習・祭りの類は衰退と形骸化の一途を辿っており、厄介な副作用だけでなく便利な作用も失われつつある。
宗教は、その宗教の内側と外側を峻別してしまう傾向を持つものが少なくないし、種々の判断に制約を課す傾向も否定できないが、内側のメンバーに対しては一定のストレスバッファ作用をはじめとするメンタルヘルス上の様々な恩恵を与える点に注目したい
(少なくともまっとうに機能している宗教はそうだ、と思う)。だが、そうした機能は現代日本のとりわけ都市空間では非常に少ない。
苦境に立たされた人のストレスを減弱し、理不尽でどうしようもない現状の受容を容易にしてくれるような宗教的恩恵は失われてしまった。
C.家族のストレスバッファ機能の後退
家族機能のひとつとしてのストレスバッファ機能は、家族内の軋轢の増大とともに機能しなくなり、むしろストレスを溜める場になってしまう。家族がギスギスする要因は様々
(地域社会崩壊、核家族化、労働時間や通勤時間増大、恋愛結婚への幻想執着、他多数)には違いないにせよ、“家に帰って家族と会ってホッとする”機能が失われれば失われるほど、個人のメンタルヘルスを改善させることは難しくなるだろう。離婚率増大は必ずしも家族機能の後退を意味するとは限らない
(なぜなら、離婚は、ストレスフルな家族状況から個人が離脱するプロセスとしての意味合いも持つからだ)し、核家族化によって嫁−姑の衝突などが減少したのも事実だが、
家族を構成する人員の減少・家にいる時間の減少などは、家庭内のディスコミュニケーションを促しやすく、家族のストレスバッファ機能を脆弱にしやすいと私は考える。
また、祖父母や近所の人に子育てや家事を手伝って貰う頻度が低い家庭では、両親/子どもの双方にとって心的/物的負担が大きいと予測される。平時はそれでも何とかなるだろうが、余裕のない状況下に厄介なインシデントが重なった場合には、家族機能の大幅な後退と、ひいては家族成員のメンタルヘルスへのダメージ蓄積が進行する可能性が懸念される。
6.メンタルの耐性強化やコーピング学習の低下
(以下の話は、ホモ・サピエンスの精神機能に関する遺伝的/生物学的脆弱性は数代程度の淘汰では大きくは揺るがないであろう、という前提に基づいて書かれています。)
A.メンタル耐性なり適切なコーピングなりを構築・学習する場の質的/量的減少。
こちらに散々書いたが、現在の子どもには、様々な形の人間関係を学習する場があまり与えられていない。少なくとも、数十年前以前の田舎に住んでいた子ども達に比べた時、都会暮らしをしている子ども達に与えられている人間関係練習の場・ストレス耐性学習のバリエーションetcは限定されていると言える。大人になるまでの日々において、人間関係に揉まれるトレーニングが質的・量的に減少し、少ないトレーニング機会と少ないトレーニングバリエーションで大学や社会に出ちゃった人は、複雑化する一方の状況や人間関係に右往左往する確率が高くなろう。
ただでさえ非言語コミュニケーションを中心としたコミュニケーションスキル/スペックが求められる時代が到来したにも関わらず、それを幼児期〜思春期のあいだに学ぶ機会が減少しているんだから、上手く立ち回る力もストレスに堪えるための立ち回りも不得手な人が増加するのは当たり前といえる。とりわけ、そういった方面の素養が乏しい子が、コミュニケーションやストレス対処を後天的学習によって補わずに塾通いなど続けていた場合、悲劇はほとんど不可避ではないだろうか。巷に溢れる、対人ストレス耐性が低くコミュニケーションシーンへの追随性の乏しい若年男性達をみていると、後天的学習によってもうちょっと何とかなった可能性はなかったものかと、ついつい考えてしまう。