【現代都市空間というコンクリートジャングルで、デジタル原始人化する私達】2007.06/29



 東浩紀先生は、日本のポストモダン社会がいよいよ到来したのは90年代以降だとは仰った。その時期と呼称はさておき、2007年現在の私達が、技術面でも文化面でも価値観の面でも相互に細分化・分断化され尽くしたなかで生きているのは間違いない、と思う。都市郊外型マンション・地方の国道沿いの風景・ファーストフード店などで出会う他人は、本当の意味で全き他人であり、お互いがお互いの事を何も知らず、共通基盤や共通価値観と言うべきものを何も持たない状態のなかで一回限りのコミュニケーションを強いられることが当たり前となっている。かつては人と人とを結びつけた(或いは束縛した)村レベル・地域レベルのコミュニティは、多くの地域において機能を大幅に低下させており、とりわけ人的流動性が高く若年層だけで構成されている現代都市空間においては、それらの消失は決定的なものとなっている。

 こうした21世紀の状況については、これまでにこちらこちら、またはこちらでも色々と書いた。このテキストでは、日本型ポストモダン社会の延長線上として、近未来の都市空間におけるコミュニケーションシーンがどのようなものになっていくのかを予測してみたいと思う。



・共通基盤のデジタル化と、人脈のデータベース化

まず、従来のコミュニティが人々の共通基盤・共通理解を抱えていた頃について以下の図1に示す。



 ところが先にも述べた通り、既存のいわゆるムラ社会的なコミュニティは、現代都市空間においては殆ど失われてきており、コミュニティの成員が広い範囲で共通基盤・共通理解を持つことは困難になっている。勿論、宗教的な共通基盤・共通理解や、我が国/地域固有の伝統文化といったものがコミュニティ成員を結びつける接着剤となる事も殆ど期待できない(また同時に、それらに束縛され過ぎる恐れも無い)

 代わって、個々のシーン・レイヤー・文化ニッチごとに異なる相手と限定的な共通基盤・共通理解を持つことが一般化してきている。既に現時点においても、「会社の同僚」「オンラインゲーム上の付き合い」「フィットネスクラブの知り合い」といった人々はそれぞれのシーン限定の共通基盤・共通理解しか持たず、共通の興味や利害を離れた部分については殆どコミュニケートを行わない。例えば「オンラインゲームの付き合い」においては、ゲーム以外については共通のコミュニケーションを行う必要性が少ないし、ゲーム以外の共通基盤を持たなければならない要請も必要も無い。会社の同僚やフィットネスクラブの知己についても同様で、現代都市空間の相互コミュニケーションはあくまで個々のシーン・レイヤー・文化ニッチに限定されがちであり、相互に共有される共通基盤・共通理解も特定のシーン・レイヤーに限定されている。



 この帰結として、私達は自分自身を構成する(または自分自身が帰属する)種々のシーン・レイヤー・文化ニッチごとに、きわめて限定的な共通理解・共通基盤だけを共有したコミュニケーションをあっちにもこっちにも持つことになる。この「デジタルな関係の集積」「人脈のデータベース化」は、都会の生活においては既に20世紀後半から進行しつつあったし、コンテンツだけに依拠した繋がりを形成しがちなオタク達においては一般的なものだったが、現在では地方都市レベルでもいよいよ徹底されつつある。現在〜近未来の人達は、従来のコミュニティ内の人間関係に比べて限定的な価値観の共有を、より沢山の相手とより断片的な形で進行させていくと私は推定する。

 近未来の個人は、個々のレイヤー限定のデジタルで不特定多数な価値観共有を、まるでコラージュのように形成するのだろう。この、限定的でデジタルな共有は、個々の関係のしがらみを最小化し、シーン・文化ニッチに用が無くなればいつでも関係を切り捨てたり取り替えたりすることを可能にすると同時に、個々の人間関係を濃密なものへと深化させることを難しくもするだろう。それらがどのような問題を惹起するのかは、後に述べる。



・コミュニケーションスキル/スペックを向上させるか、コミュニケーションから退却するか

 ところで、個々人が個々の興味・職能・立場の領域で、領域内の共通理解だけを前提としたコミュニケーションをしていくなら、コミュニケーションスキル/スペックは大して要らなくなっていくのではないか、と言う人がいるかもしれない。また、文化ニッチの細切れ化が進んで無限に近い蛸壺コミュニティが存在するようになれば、コミュニケーションの場と機会も無限に近くなるので、“相性の良い所を探せば何とでもなる”と考える人がいるかもしれない。だが、私はそうならないと考える。それは何故か。

 まず、かつての村社会なら、小さい頃からお馴染みの共通基盤・共通理解を、時間かけて学んでいけばとりあえず不適応に至る可能性は低かったし、人的流動性も乏しかったので個々のコミュニティ内成員への対峙の仕方もゆっくりと学ぶことが出来た※1が、今はそんな事は期待できないので、相手がどのような文化ニッチに所属しどのような価値観を持つのかに関係なくコミュニケートする能力が初期段階では求められる。それだけならいいのだが、問題は、個人の選択肢も文化ニッチも多様化を極めている現在、私達は“期待薄”とおぼしき人物と根気強く付き合うよりは、初期スクリーニング段階で見切りをつけて他の可能性に目を向けてしまいがちだし、そのほうが人間関係の効率性を高めることが出来る、ということである。つまり、どこのレイヤーでどのようなコミュニケーションを行うのであれ、お互いがお互いを“好ましい交際相手か否か”をスクリーニングしあい、駄目だと思ったらさっさと切り捨てて次の可能性を当たったほうが現代都市空間においてはであり、事実そうしているということが大きな問題になるのである。これが取り替え不可能な人間関係の村社会であれば、さっさと駄目出しをするよりは相手の長所を探り伸ばしていったほうが良いのだろうけれど、現代都市空間におけるレイヤー限定のコミュニケーションは、幾らでも代替可能なので“要らない関係は早々に捨て去る”ことが効率的とされてしまうのだ。

 よって、どこの文化ニッチだろうがどこの職場だろうが、比較的初期の段階のスクリーニングをくぐり抜けることが出来ない人は高確率で切り捨てられるのである。隠れた長所を律儀に探してくれる人など滅多におらず、殆どの人は“あいつに時間を割くよりは、他の人との交流可能性を探ろう”とすることだろう。勿論、人間関係にこういった効率性を求める風潮は、コミュニケーションスキル/スペックの脆弱な人をいとも無惨に切り捨てる。速効性・汎用性に優れたコミュニケーションスキル/スペック(その代表が審美性も含めた非言語コミュニケーションスキル/スペックであることは論を待たない)を持たない人は、対象人物への初期アプローチ段階において「この人はやめておこう」と疎外される大きなリスクを抱えることになる。わかりにくいが奥深い長所を隠し持っていようとも、この、初期段階のコミュニケーションスクリーニングを切り抜けることが出来ない人は拾われにくい。そして逆に「わかりやすさ」「当たりの良さ」を持つ人は初期スクリーニングで優位に立ちやすく、(ある種不当に)望ましい適応を獲得しやすい。

 いくら文化ニッチなどが多様化しようとも、それが代替可能・自由選択可能なコミュニケーションシーンである限りにおいては、人は自分のニードに合う確率の高そうな人物と交際しようとするし、代替可能・自由選択可能な度合いが高ければ高いほど「ちょっと合わないだけであっさりと手をひきやすい」。文化ニッチ間で幾らかの程度差はあれど、それぞれの文化ニッチにおいてコミュニケーションスキル/スペックに左右されがちなスクリーニングが行われる限り、そこはコミュニケーションの戦場であり、好かれる者と好かれない者が発生することになる。勿論、かつての村社会においても好かれる好かれないはあったし、一定のラインを越えて村八分になった時の凄絶さは言うまでも無いが、村社会における人間関係が代替不可能なもので、かつ幼少期から時間をかけてコミュニケート出来るが故に“わかりにくい長所”“伸ばせば延びる長所”が拾われやすいのとは対照的である。

 よって、日本型ポストモダンの進行に伴い、個人はコミュニケーションスキル/スペックの出来不出来が個々の文化ニッチ・レイヤー・シーンごとにますます問われるようになると私は推定する。コミュニケーションの初期スクリーニングに供されるべき技法やスペック(審美性、プリミティブな感情表出、感情読み取りなど)は、デジタル化した人間関係の個々のセグメントにおいて常に要請されるため、それが欠けている人はあらゆるセグメントからつまはじきになってしまいかねない。あの懐の深かったオタク趣味分野でさえも、若い世代の台頭(関連:→こちら)がすすみ、「他称オタクはキモいもの」という風潮がオタク達の内部にまで浸透しつつあるため、スペックの低いオタクが差別される事態を迎えてしまう近未来が危惧される。こうなると、コミュニケーションスキル/スペックを十全に整備して各シーン・各文化ニッチに各個に適応していくか、コミュニケーションを巡るリソース競争から退却するか、どちらかを個人は迫られがちになるだろう(圧倒的多数は、多大な犠牲を払いつつも前者を選ぶだろうが)。コミュニケーションへの投資を迫られて過剰適応の果てに破綻するリスクを背負うのも地獄、コミュニケーションを巡るリソース競争から退却して娑婆で生きる選択肢を失っていくのも地獄。全くひどい話だが、この二者の中間項を選びきることは今後もっともっと困難になっていくのではないだろうか。※2



・デジタルな人間関係と、コミュニケーション圧のなかで、どれぐらいの人は生きていけるのか

 人間は、本当にデジタルで断片的な人間関係の集積に堪えることが出来るのだろうか。そして高水準のコミュニケーションスキル/スペックを当然のように求められる状況に誰もが堪えられるだろうか。いや、多分無理だろう。この、有史以来一度もホモ・サピエンスが経験したことのない社会情勢に、近未来の人達はいがみ合い、苦しみ、出口を求めて様々な現象を巻き起こすだろう。2007年までの情勢を参考に、今後起こりそうな現象について私見を提案してみる。これらのラインを念頭に入れながら、私は現状の観察を続けるのだろう。


 可能性1:反動としての、狭いコミュニティへの回帰運動
 ムラ社会への回帰。これは可能性というよりも、むしろこれまでの都市空間において充分に発生してきたことと言える。最もハイリスクなところではカルト教団の集団生活などが該当し、よりマイルドなレベルでは様々な“繋がることが目的化したの運動や宗教”が該当するのかもしれない。共通基盤や共通理解をコミュニティ内で共有することの出来るような(色んな意味で)クローズな集団を願望する人は、現代までの都市空間に既に続出していたし、これからも続出するだろう――コミュニティがまっさらな状態でスタートした高度成長期の郊外マンションにおいて、幾つかの新宗教が共通基盤・共通理解のニードを満たしたように――。

 当然そのなかには、コミュニティへのデジタルな関係の欠点をあげつらい、かつてのコミュニティや組織宗教を美化したうえで犠牲者をハメようとする悪辣なカルト教祖も現れ続けることは不可避だろう。また、ムラ社会への回帰願望をかき立てるようなコンテンツは益々多くの人をアトラクトするだろう。



 可能性2:ポストモダンの暗闇で悪意を投げ掛け合う人達
 個々がデジタル的に保有する文化ニッチ・シーン・レイヤーといったものは充分に多様化・島宇宙化しており、それら全てを網羅することは不可能に近い。コミュニケーションスキル/スペックの高い人は、この島宇宙化した多種多様な文化ニッチ間を渡航することが可能かもしれないが、それでも全てを知ることは不可能でしかない。

 よって、「一個人が他者との部分的共有に供することの出来る文化ニッチは原則として限られていて、一個人の目の届かない大多数の文化圏・シーン・レイヤーはポストモダンのジャングルの暗闇に覆われている」と普遍的に言うことが出来るだろう。自分の見知った僅かばかりの(僅かとは言っても、数十〜数百程度はあるだろうが)デジタルセグメントの外側は全て暗闇、というのが、日本型ポストモダンにおける一個人の視覚限界だと考える。暗闇の向こう側には、もちろん魑魅魍魎や敵対的な部族が存在している(と人々は臆断してしまう)。ジャングルの狩猟採集社会において小さなコミュニティ同士が不信感を募らせあったが如く、ポストモダンという文化とテクノロジーのジャングルのなかで、個人は自分の視野がカバーしきれない暗闇の向こう側に敵対的・不審的なまなざしを投げかける。勿論メディアはそれを緩和するよりはむしろ助長する。「エロゲーオタクはペドフィリア」「ゆとり世代は頭が悪い」などなど、手の届かない暗闇の向こう側に対して人は悪意や偏見を投げかけやすく、それは個人が抱えきれない不安を解消する手段としては優れている。私の知る限り、暗闇の向こう側に対してまでニュートラルな評価が出来る人いうのは、いるようで実は滅多にいるものではないし、せいぜい少数派でしかない。人が人としての限界を抱えている限りにおいて、細分化され尽くしたポストモダンは、個々人が狭小な視界の外側に悪意や偏見を投げかけるような真っ暗な不信ジャングルの様相を呈する、と私は考える。勿論、そこには不毛な“部族抗争”が展開されるわけだが、細分化が進めば進むほど、それは不可避的に発生するのではないだろうか。


 可能性3:all or nothingの対人関係・対人評価
 効率性のもとに選択された、デジタルな人間関係とデータベース化された人脈は、総体としてまず好ましい他者との全体的交流を促進するというより、他者の好ましい断片との部分的交流を選別する。幸か不幸か、デジタルな人間関係においては、村社会におけるソレとは異なり、気に入らない部分に目を瞑ることは容易で、むしろ気に入らない部分が目に入りにくい。インターネット越しの付き合いや、デートスポットだけの男女交際などといった今日的なコミュニケーションは、まさにこのような部分的交流にうってつけであり、部分的交流では見えてこない外側については己自身の願望(想像力)が投射され、埋め合わされることになる。「アイドルがうんこしない」的な理想化は、もはやマスメディアのidolやオタクコンテンツの美少女萌えキャラだけでなく、デジタルな人間関係においては普遍的に沸き起こってくる。そしてこの理想化の帰結として、「あのアイドルが枕営業をしていた!」「あの萌えキャラは処女ではなかった!」を視たくなかったファンが掌を返すのと同様の憤怒が、理想化にそぐわない他者の振るまいに対して沸き起こることになる。


 可能性4:心的傾向の変化
 この、「まるで萌えのような人間関係」は、日本型ポストモダンが進めば人間関係ステロタイプとして今以上に定着していくものと思われるし、デジタルな人間関係が一般化した社会においては必ずしも不適応と言い切れないものが含まれているかもしれない。デジタルな人間関係の構築模様が一般化した社会においては、当然ムラ社会な時代とは異なるパーソナリティが「社会に適合するパーソナリティ」のステロタイプとして立ち現れてくるだろう。そしてまた、成長の途上において強調されてくるだろう。紙幅の都合で今回は触れないが、DSM-IVで言えばB群・C群人格障害に含まれる成分が重要なヒントを呈示していると私は考えているし、そのようなアイデアは1980年代のアメリカにおいて充分に論議されているとも思う。


 可能性5:自己承認の断片を求めて
 そして果たして、人間は自己承認の断片をつなぎ合わせてアイデンティティを維持し続けることが出来るのだろうか。自己承認欲求を(ある程度)恒常的に満たすことが出来るのだろうか。先にも述べた通り、デジタルな人間関係はいつでも取捨可能な関係であり、しかもそれは全人的なものというよりは、一部のレイヤー・シーン限定の良いところ取りでしかない。それらを継ぎ接ぎして人格の安定やアイデンティティの維持を図るということは、一体どういう事なのだろうか。デジタルでコラージュのような人間関係と人脈のデータベースのなかで、(例えばマズローで言うところの)自己実現・自己承認や、(エリクソンで言うところの)アイデンティティといったモノを人々はどのように維持・獲得していくのだろうか。また可能なのだろうか。テクノロジーと人間関係の双方においてデジタル化が進んだ状況下において自己承認・自己実現がどのような様相を呈するのかに関する議論は、わりと前人未踏に近く、手間暇をかけて今後ゆっくり慎重に議論したいところである。

 現状の日本のインターネット環境においては、ウェブログにせよSNSにせよ、(一部のアルファブロガー達を除けば)自己実現と自己承認に飢えた人達の飢餓補完ツールとして専ら用いられている。その様子を見る限りにおいては(そして我が身を顧みる限りにおいては)、この飢餓補完には果てが無いように、みえる。とりわけ、デジタルな人間関係に依存する度合いが高い人においてその傾向は顕著であり、その飢餓補完の為に他の諸々の可能性や適応を犠牲にしている人も少なくない。デジタルな人間関係ばかりを持つようになった私達は、満たされない自己承認の断片を永遠に拾い集め続ける、のだろうか?後日、別テキストでゆっくり検討したいと思う。




・共通基盤を失い、疎通を失ったサバイバルする人達

 これらの未来予想はちょっと悲観的過ぎるだろうか。しかし、現在の延長線上として近未来を予測すると、ジャングルのなかで言葉も風習も違う小部族同士が彷徨う風景を想像せずにはいられなかった。

 コミュニケーションに寄与するテクノロジーは発達したにせよ、文化細分化とコミュニティ崩壊に伴って、私達は共通理解も共通基盤もないまま個々に分断されてしまった。共有される言葉はもう少なく、原始人さながらにプリミティブなコミュニケーションスキルに頼らざるを得ない。また、文化の爛熟と細分化は、目に届かない広範囲の暗闇を生み出し、もちろん人々は暗闇に不信感と悪意を投げかけあってしまう。デジタルな人間関係もまた、all or nothingで他者の良い所だけで繋がる極端な人間関係と、終わりの無い自己実現の彷徨を生み出すばかりで、ある種の人間疎外と、その帰結としてのパーソナリティ偏倚を避けられない。

 光ファイバーで連結された都市空間がもたらすのは、進歩的な生活や“客観性”ではなく、むしろ狩猟採集社会に逆行したような日々ではないかと私は考える。テクノロジーの進歩と文化的爛熟、それらに伴うデジタルな人間関係と文化的分断に、平均的なホモ・サピエンスの能力的・行動遺伝学的諸特徴は追随出来ないのではないだろうか。せいぜいごく一部の能力的突出者だけがそれらの恩恵を正しく享受するにせよ、私達の大半は置いてけぼりをくらってまごつくばかりなのではないか。そうした諸々の結果として、21世紀のコンクリートジャングルのなかで、大衆の大半がいがみ合い、奪い合い、村社会を懐かしむということが近未来に実現するのだとしたら(そして一握りの能力的突出者が大衆を体よく操作するのだとしたら)、技術の進歩や文化の爛熟の功罪が改めて問いかけられることになる、のかもしれない。








 【※1ゆっくりと学ぶことが出来た】

 しかも、コミュニティ内の一個人に関する情報は、銭湯・村祭り・仕事場・商店街といった様々な彷徨から収集する事が出来た。「仕事場ではAという態度をとっている人も、他のシーン・レイヤーにおいてはBという態度をとり得る」ということを視ることが出来れば、その人との付き合いは多面的なものに出来るだろう。また、そういったことが常態化していれば、一シーンだけの評価で他人をall or nothingで評価するようなせっかちさも回避しやすいことだろう。

 しかし、現代都市空間における、個々のレイヤーごとの限定されたコミュニケーションにおいては、コミュニケーション対象の“他の顔”を垣間見ることは困難で、コミュニケーション対象がどのような素振りを嫌いどのような価値観を好むかについて一面的な学習・対応しか出来にくい。勢い、コミュニケーション対象の多面的な価値観には抵触しないようなジェスチャーを乱発することがコミュニケーションの作法として注目を集めやすくなるし、レイヤー限定のコミュニケーションを踏み越えることに躊躇いを覚えることも多くなる(し、実際に難しくもなる)だろう。



 
【※2今後もっともっと困難になっていくのではないだろうか。】

 ここで決まって反論が出ることを私は知っている。曰く、「コミュニケーションに関する諸価値を転倒させればいいんだ」とか「審美性や非言語コミュニケーションの価値体系を破砕すればいいんだ」といった反論である。

 私はそういった反論に対して懐疑的である。そういった反論を行う諸氏も含めた多様な価値観のなかだからこそ、ホモ・サピエンスに普遍的・通文化的な諸価値や諸シグナルが相対的に威力を発揮するし、逃れることもまた難しいからである。これまで、ホモ・サピエンスに普遍的で通文化的な諸価値や諸シグナルを強権的に“理想追求”しようとしたあらゆる試みは、悲劇の失敗に終わっている。ましてや強権的矯正によらずにソレを実行することは不可能と言える。もしかしたら遺伝子操作などをすればいずれ可能になるかもしれないにせよ、それは近未来の話ではない。