【現状の観察1:“非モテ”“モテない男”を自称する人達にみられる共通点】(2006/01/30)
・“非モテ”“モテない男”達にみられる、異性に対する能動性の欠如
私は一人のオタクとして今なおオタク界隈をうろつき続ける身である。と同時に、ネットを漁ってコミュニケーションスキル/スペックに関して観察・議論することも道楽にしている。ことにオタクの社会適応の在り方や予後については強い関心を寄せていて、その周辺領域もじーっと眺め続けている。今回、男性の能動性欠如のカテゴリー群の一例として紹介する“非モテ”“喪男”達も、オタク界隈の周辺現象として着眼するに至ったものである。
ここ半年ほどの間に、私は脱オタ研究に関連した御縁で
“非モテ”なるものを自称している人達の文章を観察する機会を得た
※1。時には私自身も茶々を入れ、例えば
こんなやりとりにコメントしてみたこともある。世代も考え方も文化も異なった若い人達による、新鮮なテキストに目を通す事はとてもよい刺激と勉強になっている。ホントにありがたい限りだ。
それにしても、ここ数ヶ月ばかり彼ら“自称非モテ”達のテキストを眺めているうちに、面白い特徴があるなぁと気付くようになった。特にここ最近はっきり認識させられるようになったのは、“モテない事を自称する彼ら”のテキストには
1.自分(達)が今、異性・環境に対して受動的にどうであるかに議論が終始し、
2.自分(個人)が今、異性・環境に対して能動的に何が出来るかが欠落している |
という特徴がほぼ一貫してみられるのである。これまで非常に多数の非モテサイト・モテない男サイトをみてきたが、2.の
自分個人が異性や環境に対して具体的にどう能動的に振る舞っていくのかを議論したサイト・記事が非常に少ないのである。無論、非モテを自称しない論者においてはこの限りではないが。
そんなわけで、彼らのモテ/非モテ関連のテキストや議論は、
・自分達が異性からどう評価されるか
・異性から選ばれるか否か
・異性に愛されるか否か |
といった、女性側から自分がいかに評価されるか
(彼らの場合はモテるか否か)というpassiveな視点に立脚したものが大半を占めている。即ち、“自分達がいかに女性に選ばれない存在なのか”とか、“自分達がいかに非モテ
(選ばれない階層)なのか”とか、そういう話が延々と繰り返されているのである。偶には彼らも“能動的に逃避”を選択する方法論を考えることもあるが、この場合も、異性をはじめとする環境に対して当人自身が能動的に働きかける風は無く、あくまで受動的な評価軸・環境を受ける状況から
退却する事にだけ主体的であるに過ぎない。結局のところ、
彼らの議論からは(異性などの)他者への能動性がほぼ綺麗に欠落しているのは間違いなさそうである。
さらに、彼らが議論対象を異性問題に限定せずに対人関係全般・社会全般に広げた場合、
自分達※2が社会(環境)からどう評価されるか
自分達が社会(環境)のなかでどういう立ち位置か
自分達が社会(環境)のなかでどう評価されるか |
という形に変化する事例が極めて多い。この議論でもやはり、非モテ⇔異性・社会という関係のなかで評価・選択・行動するのは社会
(環境)の側という含意がみられ、彼ら非モテ自身はあくまで評価を受けるばかりの受動的立場に留まっている点に注目して頂きたい。
彼らの側から社会に(一個人として)能動的に働きかける視点はみられない――逃走するような内容の記事こそみられるけれども。
“自称非モテ”達のテキストにおいては、「他人からどういう評価を受けるか」という受動的視点に基づき、『いかに非モテ達が虐げられているのか』『いかに社会が自分達に理不尽な仕打ちをしているのか』等が語られる。異性の場合も社会の場合もそうだが、
彼らは自分自身⇔異性・社会という関係に対して、受動態でしか問いかける事ができないようなのである。
それとも、『女性』『社会』『他者』に対して能動態で問いかける意志をみせない
(あるいは無い!)、と表現するのが妥当だろうか。彼らのモテ/非モテ関連のテキストや議論には、
自分個人がいかに異性を評価するのか(好みの異性含む)
自分個人が恋に落ちるのはどういう時か
恋した時、これから自分個人は何をするのか
異性に自分個人が実際にアプローチするための方法論 |
といった、能動的に対象に働きかける議論が滅多にみられない。特に極端な何名かに至っては、徹頭徹尾欠落しているような気がする。以前
こちらでも指摘したが、例えば自分自身が誰かに惚れてしまうという事態も、彼らの議論では全くといっていいほど考慮されていない。異性だけでなく、社会に対してという文脈でも同様の傾向が色濃い。非モテ達は、「異性がおかしい」「社会がおかしい」という視点からは面白い提言を行う事が多いし、異性・社会から退却する議論も活発に行われていることは認められる
※3が、これら一連の議論には視点の偏りが観察され、非モテ⇔異性・社会という
関係を論じる際に能動態たるよう要請されるのは非モテの彼らではなく、常に異性・社会の側であり続けているのである。非モテ⇔異性・社会
(あるいは他者、と換言すら可能かも)という関係を俯瞰するにあたって、非モテ達は常に受動のスタンスを選択し、
「他者に何とかしろよと主張するものの、自分はこたつの中から動かないorこたつの中にうずくまる」。能動的に自分個人が異性・社会に向かい合う・自分個人が異性・社会にアプローチするという視点が驚くほど欠落しているのだ。
・補足
なお、彼らは能動的に異性と対峙しないというだけでなく、「異性と対峙しないことが劣等で、異性と対峙し交際する者が優等」という評価軸を固持しているという特徴も併せ持っている。彼ら非モテ、特にインターネット上で非モテを語っている者達の殆どは、自分達が非モテを自称しつつ、非モテである事を劣等とみなすような価値観から脱却しようとしていない(また、価値観から脱却していないからこそ、自分がモテない事やモテるモテないに言及するとも言える)。モテない事への拘り・葛藤を解消する手段のなかには、異性との交際をよい事とする価値観のなかで能動的に這い上がる方法以外にも、モテる・モテないという価値観から脱却し異なる価値観のもとに生きるという方法もあるわけだが、彼らの殆どはそれを採用しないし、採用しないからこそ“モテるモテないという評価軸に居残り続ける”。彼らのなかには、女性を敵視するような発言をしたり、モテる男達や男女交際が可能な男性への怒りを表明する者さえいるわけだが、そんな彼らもまた、彼らの嫌うところの価値観・価値体系から一歩もはみ出すことがない――否!彼らこそがそうした価値観に最も強く拘っているとさえ言える。不満を持ちながら、その価値体系のなかで這い上がろうとするわけでもなく、価値体系を脱却するわけでもなく、その場に留まるというこの特徴…この特徴は、非モテ以外のカテゴリーにおいてもみられるものなので、ちょっと覚えておいて欲しい。
・何故、彼らは同じ価値体系のなかで能動的にならないのか?
では、異性・社会・環境に対してこれほど彼らがパッシブな立ち位置に固執するのは何故だろうか?もちろん要因のなかには
・俺達は異性や環境を選べるようなカースト(階級)じゃないから。
・それに生物学的原則としては、雄は雌に選ばれる立場だし。 |
といったものが含まれている事を考慮しなければならない。
しかし上記の要因だけを考慮しても、「異性に惚れたらどうするのか」や、「片思いの時に、自分が異性に何が出来ること」や、「異性にアプローチするにはどんな方法論があり得るのか」などの、“
必ずしも両思いでなくても、モテモテイケメンでなくても”考察可能且つ要請されそうなテーマが欠損している理由までは説明しきれない(ついでに、価値観の脱却を目指さない理由も説明しきれない)。モテ/非モテという男女交際の分野のみならず、社会と自分“達”を取り扱う議論においても受動態のdisussionばかりが目につくことを考慮するにつけても、やはり彼らが抱える問題点のキモは、「彼らがモテないから」「彼らが不遇だから」という特徴に由来するのではなく、「彼らが異性や社会に対して能動態をとれずに受動態しかとれない」という特徴にあるのではないだろうか。
虐げられていても、あるいはモテなくても、社会なり異性に対して能動態をとることは個人レベルでは幾らでも可能である※4。各試行の確実性に固執さえしないなら、どのような状況・境遇・スペック下においても、個人は幾らでもアクティブに問題と向き合う事が可能な筈だし、それこそが彼らが唯一期待値をあげビンゴに至る道である…ただし、
心理的葛藤を度外視さえできるならば。実際、コミュニケーションスキル/スペックを改善させて何とか生きやすくしようとする少数のオタク達
(この少数派は、脱オタ者と呼称される)は、異性・環境・社会に対してある程度以上は「個人として能動的に」コミットすることを迫られ、事実その方向で考えたり実行したりしている。しかしそれらと対照的に、非モテ論者達のテキストにおいては、このような異性・環境・社会に対する能動性は実に乏しく、自分達がそれらに対して受動的にどうあるべきなのか・どうであるかばかりが論じられるのである。勿論、受け身のまんま議論だけ続けていてはコミュニケーションスキル/スペックは低下する一方だし、益々能動に打って出る事が困難な心理的背景を抱える事になるわけだ。
よって、非モテや喪男の男女交際を考える時、この
“能動欠落現象”は十分に吟味すべき&議論すべきポイントではないだろうかと私は感じずにはいられない。
モテない事に言及する人達の議論を眺めていると、「評価されるか否か」「スペックがあるか否か」「異性に受け入れられ得るか否か」についつい視点が向いてしまいやすい。だが実際は、彼らが「異性・社会への受動過多」「異性・社会への能動過小」こと著しく、劣等感ばかり醸成して少しも一歩も葛藤解決&願望成就にアプローチしない姿勢をとり続けている事のほうが根源的で深刻な問題点と私は考える。少なくとも、
この“能動欠落現象”のほうが(例えば)“コミュニケーションスキル不足”などよりも問題解決の足枷として厄介なのはほぼ間違いあるまい。コミュニケーションの技能・資源は、適切な技術習得や社会的地位の確立などを経ればかなりの所まではカバー可能かもしれないし、トライアンドエラーによって徐々に成長していく余地があるだろう。だが、
“能動欠落現象”のみられる非モテ達は、そもそも他者に対するトライアンドエラーに接近する事自体が困難だし、だからこそ、問題解決のないままその場にうずくまり続けるしかない。これは厳しい。これほど厄介な問題点に見えるにも関わらず、議論好きな“非モテ論者達”が揃いも揃って“能動過小現象”をスルーしているというのは、一体どういう事なのか。彼らの議論の能力や思考力が劣っているからだとはとても思えない以上、そうなる原因が隠れているように思われるが…
(後続テキストにて補足予定)。
本来、非モテ論者達は、異性の側&社会の側がどうすべきか&どうあるべきかを論じる――もちろんそれはそれで建設的な視点である――だけではなく、彼ら自身が個人としてどう能動的に振る舞っていくのかに関しても十分議論したほうが建設的で、個人の葛藤や願望を何とかするには向いている筈なのである。
彼らが最も欠いていて、なおかつ問題の根源となっているのは、ルックスでも金でもなく、「異性や社会に対する能動態」ではないか。それらに対して願望なり欲望なりを持っているにも関わらず非モテをやっている人達は、異性・環境・社会に対する能動態の過小ゆえに、これからもずっと非モテであり続けるしか途がなさそうにみえる。かといって、現在の“非モテ劣等、モテ=優等”という価値体系の枠から飛び出す意志もなさそうにみえる。自称非モテの人々の多くは、現在の自分自身⇔異性や社会との関係を快く思っておらず、もっと違った関係になる事を願望しているのがミエミエなので
(繰り返すが、だからこそ強迫的な言及を反復せざるを得ないのだ)、これからもモテ−非モテ価値体系の檻のなかで呻き続ける可能性が高かろう。不満やルサンチマンに呻かなくなる日まで強者にぶたれながら受動に徹するのか、見知らぬ他者
(異性・環境・社会)から逃走するか、防衛機制という目隠しで不満やルサンチマンに蓋をするか。いずれにせよ、“自称非モテ達”は能動性の過小ゆえに、外部に対する選択肢を制限された状態を余儀なくされ、過去も現在もこれからも葛藤に呻き、不平等に怒り続けるのである。
・おわりに――このような能動過小傾向は、非モテだけに留まるものではない
以上、ここまで“自称非モテ”という、ネット上で発言を繰り返している極めて小さな一群だけを対象として“能動過小現象”という心的傾向を抽出してみた。しかし、この傾向はネット上の極一部の集団だけにみられる心的傾向なのだろうか?とんでもない!この現象はもっと幅広いスペクトラムにわたって認められる傾向ではないかと私は疑っている。非モテという一群から抽出される“能動過小現象”は、あくまで典型例のひとつであり、他の幾つものカテゴリーに属する同世代の男性にも広く観察される傾向ではないだろうか。次のページでは、“自称非モテ”以外の幾つかのカテゴリーにおいて認められる“能動過小現象”について紹介してみたいと思う。そういう男達が、30代以下の世代(オタクで言えば第三世代以降)でぞろぞろ増えている!
→続きのテキスト(能動過小傾向に覆われる、20代〜30代の諸カテゴリー)を読む
【※1文章や議論を観察する機会を得た。】
ここでいう『非モテ』『モテない男』を自称する集団とは、
2005年〜2006年初頭においてはてなダイアリー界隈で盛んに語られたり、2chのモテない男板で多用されているものを指す。彼らは大真面目に自分はモテないという事をネット上で表明し、それについて
“ネタや芸風ではなく本気で”自分はモテなくて苦しんでいたり嘆いていたり憤怒していたりすることをあらわす。彼らが論理を用いてリリースするテキストの論点も、それらの本気な気持ちや問題意識に根ざしたものとなっている。グーグルで「はてな 非モテ」あたりで検索して頂ければ色々なサンプルが検出出来るので、興味のある方はご覧頂きたい。
一方、テキストサイトなるwebsiteが流行した
1999年〜2001年頃に自称されていた『非モテ』はすこし異なっているので注意を要する。彼らは『非モテ』であるという事――即ちモテない・付き合っている異性がいない事――をあくまで
“ネタや芸風”として加工したうえでテキストにしており、モテない事の悲劇喜劇をあくまで軽やかに面白く、サイトを彩るネタの一形式としてアップロードしていた。もちろん主たる視聴者もネタを承知のうえで愉しんでいた向きがある。時代が変化しているため代表例を挙げるのはなかなか難しいが、坊主系サイトでなおかつこうした非モテをネタとして見事に調理するサイトとして『
坊主めくり』を挙げておこう。坊主めくりは、軽妙なタッチ・仏教知識・非モテネタ化などを組み合わせて上質の娯楽を提供する優秀なサイトである。また、旧いテキストでも構わなければ、1999年の
X'mas殲滅委員会が秀逸である。これらのテキストは、
現在の自称非モテ・自称喪男がモテない事を語る場合と比べて、エンターテイメント色の濃い文章が多かったと言えるだろうか。
[参考]:鳥舵さんのこの記事
ただし、鳥舵さんが先の記事で指摘なさった通り、どちらの『非モテ』においても、異性に対しての積極性・能動性がみられず、消極性・受動性だけがみられるという点では共通している事は断っておく。よって、今回の私のdiscussionは、少なくとも議論前半については旧い定義の非モテは該当しない。
ちなみに現在“自称非モテ”と言っても様々なサブタイプが存在し、例えば
こちらではサブタイプの分布がプロットされている。私のサイトはどこにも該当しないが、強いて言えば「電車男派」と位置づけられるだろうか。2005年〜2006年の「自称非モテ」達は、図中の「鯛派/ポジ喪派)」に属さない人々によって構成されており、図中にある通り、具体的に対異性行動を働きかけることが無いという点で共通している。
【※2自分達】
私はここで自分“達”と書いた。
彼らがモテるモテないを論ずる時、一人称複数形が多いのも大きな特徴である。彼らは一人称単数、即ち自分自身の問題として議論を行うことがなく、それをもって自称非モテの定義にしてしまいたいほどである。あくまで彼らは
一人称複数形を使い、問題は社会的・集団的なものとして取り扱われ、自分個人の要請・事情・営為は議論から丁寧に除去されるのである。具体的には、問題に対峙する時彼らは「社会が非モテという“私達”にどうあるべきか」という手続きを踏むので「“私個人”が社会にどうすべきか」という葛藤は回避されるというカラクリである。この図式は、“彼らが異性・社会に対して個人としての能動性を持たない”傾向ともよく一致している
(上記の社会“が”という助詞からは、問題解決の主体や葛藤が非モテ達自身ではなく、社会にあるべきでありたいという願いが透けてみえる)。
このような一人称複数を用いた議論形式は、少なくとも以下の可能性を非モテ形テキスト執筆者達に与える事だろう。即ち、
・個人的問題や個人的葛藤への直面化を回避または軽減化する可能性 |
これの心理的利得は、心理学的に十分了解可能な範疇のものであり、
防衛機制という文脈における解釈を容易に許してしまう。よって、こうした営為が葛藤を防衛する目的に沿ったものであると勘ぐりたくなる、というか私ははっきりそうだと思っている。彼ら自身の議論内容と、彼ら自身の日常の適応を比較した時、あのような“一人称複数”“問題解決の主体の転嫁”への偏倚は
いかにも葛藤から自分自身をマスクするのに適しすぎているように見える。もうちょっと適していなければこんな勘ぐりを主張する必要もないのだが、あからさま過ぎるので敢えて記述する。読者の皆さんも、この視点で彼らのテキストに“葛藤に対する防衛”という蜜がどっぷり含まれていないか是非再点検してほしい。いや、各個人が防衛機制を幾ら展開しようとも構わないけれども、もちろんそれでは議論の質・内容に偏りが生まれるのは避けられないわけで、
(防衛を要する当人以外の閲覧者は)そのような偏りからは自由でいたほうがいいだろう。
防衛機制という意味がよくわからない人は参考としてこちらなど如何でしょうか:
[ 参考]:
オタクにみられる防衛機制
[参考]:
Wikipediaの防衛機制
【※3活発に行われていることは認められる】
異性なり社会なり環境なりに対して、主体的な働きかけが欠如し、常に受動態かつ“自分達”という集団視点で臨みがちな彼らでも、自分自身⇔異性・社会からの退却ぐらいは能動的に選択可能のようである。勿論、このような能動性は、異性・社会・環境などに対して働きかけることには決して発揮されない。異性・社会・環境との関係から能動的に退却することこそ可能だが、こうした関係に対して能動的に働きかける事はやはり出来ないようである。
【※4個人レベルでは幾らでも可能である】
真面目にシステマティックな視点を採用した場合、個人が異性・社会に対して能動態をとることが「厳密な意味で能動態をとっている」ことにはなってないと指摘する人もいるかもしれない。だが、その指摘は哲学的論考の次元においてその能動態に待ったをかけることこそあれ、一個人の日常生活の次元における能動性を全否定してしまえるものなのか、些か疑問を感じる。ましてやその考え方をもって個人の能動性の必要性や不必要性を云々することまでは出来ないと思う。
システマティックな視点において能動態がどうであるかという視点は、私が目の前の異性に恋するか否かには微塵の影響も与えなかったし、今夜のパスタをアラビアータにするかボンゴレビアンコにするかの決定に差し支えるものではなかった。それらはあるべくしてあった、偽りの能動性とみなす事は勿論可能だが、仮にそうだとしても個人としての私の能動的決定が無きものになるわけではないと思う。システマティックな視点で眺める眺めないの如何に関わらず、個人のなかには能動性の高い者もいれば能動性の低い者もいる。「全員一致で真の能動性無し」と厳密な視点に基づいて叫ぶ事は確かに可能だろうが、しかし叫ぼうが叫ぶまいが、日常生活レベルでで能動性の高い者は依然として能動性の高い者のままだし、能動性の低い者は依然として能動性の低い者のままであり続ける。
哲学的視点においてどうであるか、何を叫ぶかに関わらず、娑婆と当人達の関係は何も変わらない。叫んで変わるのは、せいぜい叫んだ当人のアングルだけである。