このテキストは、こちらの続きです(症例11さん)。


・Kさんの大学時代以降

[大学時代]
 この頃には肌も良くなりバイトで知り合った彼女と初H。オタ趣味はアニメをたまに見るぐらいだった。3年になり彼女と別れ、オタ漫画やアニメに戻ってくる。ゲームはしなくなり、もっぱらネットでアニメ、エロ同人を見る日々。女友達はいたので特にあせらず過ごす。

[脱オタきっかけ]
 オタアニメを見ていてふと思った。「なぜ子供キャラしか出ていないんだろう」、「自分は大人なのにどうして子供が主体のストーリーが楽しめるんだろう、と。 そしてオタク産業そのものに興味がわき、調べていくうちに、薄薄は感じていたが相当未成熟な恋愛観を持つユーザー(自分も含め)によって構成されている事がわかり、頭が痛くなった。また同い年の男なら確実にひくような二次ロリを見ても何も思わない自分にいる事に気づいた時、心底自分自身が恐ろしくなった。

 なんとかしなければと。

[脱オタ期]
 一ヶ月半ぐらいかかりました。最初の2週間程は上のような事を自分で考えたりネットなどで調べました。次の二週間は、朝から晩まで可能な限りアニメを見ていました。その後は秋葉原に三日連続で行き一日中、店をまわり、商品を見て周り、自分にとっていわゆるアキバ系趣味はなんなのか、どういった位置づけなのか、アイデンティティーにどのように関わったのか、どうしてこの趣味に入ったのか等、今後どうするのか等就職活動期の自己分析のようにノートに書き連ねてみました。正直に書いてみると、構造分析のような事ができ自分自身の感性やありのままの恋愛観を受け入れる事ができました。結果憑き物が取れるようにスーッと関心が薄れていきました。



・Kさんが今思うこと

 以上が私の経験です。読んで頂ければわかりますが、私の場合異性を巡る気持ち”“異性との出会い・コミュニケーション”が脱オタの動機ではありません。異性、対人コミュに葛藤があったわけでもありません。逃避的にこの分野に入ったというより、カースト中〜上の一般人にオタ趣味もくっ付けたと考えてもらえるとわかりやすいと思います。私の場合波のようにオタ趣味が現れ、結果的に十年近くここに関わった事になります。他の投稿者様は、何か強烈なインセンティブ(こっぴどく振られたとか、知り合いのキモオタを見て決意した等)により脱オタに動いたようですが、私の場合それが無かったため、逆に抜けきれず続いたようです。ただ活動していなかった期間も、オタ趣味には関心も向かなかったが、ギャルゲー的恋愛観とでも言いましょうか「恋に恋している」ような状態が続いていたと今は考えています。

 脱オタとはオタグッズを捨てるとか服に気をつかう等物質的な問題ではなく、もっと精神的、内面的(恋愛観)な問題なのではないかと今は強く感じています。






 Kさん、貴重な経験談ありがとうございました。

 大学生時代以降の様子からも、Kさんがいわゆるコミュニケーション弱者であったという形跡は見受けられません。コミュニケーションなり非オタク文化圏との交流なりが可能なKさんにおいては、オタク趣味はしがみついてなければならない(また逆に当人を呪縛して離さない)ものではなく、必要な時に必要なだけ付き合い、不要な時には沈静化するものだったのでしょう。エロゲーなどのオタクコンテンツは挿話的には登場するものの、人生行路の過半を占めるものではなかった。まただからこそオタク趣味から比較的短時間に手を離すことが可能になったのでしょう。

 Kさんは、私のサイトの“侮蔑されるオタクがそれを何とかしていく”というニュアンスの脱オタというよりも、純粋にオタクコンテンツから離れたという意味でオタク趣味を離脱したようです。しかし、ギャルゲーの幼児的恋愛観なり何なりに対する嫌悪感のなかには、何らかの同族嫌悪が含まれていたようですね。よって私は、以下の疑問に到達することになります。皆さんはどう考えますか?


 ・エロゲー・ギャルゲーとKさんの恋愛観との共通するモノとは?

 Kさんの場合、異性との交際があまり出来ない状況下における欲求を補うツールとしてエロゲーやギャルゲーが機能していたと思ってます。AVとかよりも親和的な何かがあったということでしょうし、スポーツや芸術などで昇華する方法だってあったことでしょう。しかし、Kさんはエロゲー・ギャルゲーを消費しました。“自己分析”後の嫌悪感も、自分自身の恋愛観と相通ずるところがあるからこそのものでしょう。では、Kさんにとっての恋愛と、エロゲー・ギャルゲーの幼児性といわれるものにどのような共通点が見いだせたのでしょうか?そしてどのような恋愛観が(脱オタ前の)Kさんにあったのでしょうか?


 ・この脱オタの前後で、Kさんの恋愛観はどう変わったのか?

 脱オタする前後で、Kさんの恋愛観が変化したとか人生観が変化したとかあったのでしょうか?中学校の頃から丸井に行っていたことから考えるにつけても、服飾上の問題とか対人コミュニケーションの問題とかはかなり少なかったと思いますし、そういった面での変化はさほど大きくはなかったことでしょう。お話を伺う限り、Kさんはギャルゲー的・エロゲー的恋愛観、「恋に恋していた」といいます。ですがそこを越えて新たな恋愛の地平に到達した、と推測されます。だとすればKさんは、どのような変化を迎えたのでしょうか?

 Kさんが今回の経験を通してどこに向かったのか?恋愛観にどのような変革をもたらしたのか?興味は尽きません。Kさんの恋愛観の変化とエロゲー的・ギャルゲー的恋愛観とを比較すると、現代男女交際について有用な考察が得られるのではないか?と私は疑っています。


 ※本報告は、Kさんのご厚意により、掲載させて頂きました。今後、Kさんの御意向によっては、予告なく変更・削除される場合があります。ご了承下さい。



 【2007.04/18追記】
 注釈で触れた質問に対して、Kさんからお返事をいただきましたので、レスポンスを掲載してみます。


 ・エロゲー・ギャルゲーとKさんの恋愛観との共通するモノとは?

 回答:エロゲーやギャルゲーにありがちなハーレムを目指すような心理は無く直接に意識は無かったと思います。ただあまり現実的に考えた二人のこれからのような付き合いでは無く、文章にしづらいのですが遊んでまた今度のような恋愛観だったと思います。、美少女娯楽にありがちな楽しい学園生活と恋愛生活(なにも考えなくてもいいであろう)に影響を受けていたのは否定できません。
 またこちら方が影響を受けたんでしょうが、ドラマなどにありがちな良くも悪くもイベントが起きるだろうし、起こさなければならない(常に頑張ってデートスポットに向かうなど)と考えた節がありました。(実際は特に付き合うとイベントも起きず、のんびりした日々が多いですが…) この辺は少女漫画の影響もあったのかもしれません。自分の未来に相手があまり入っていないとでも言えばいいのか、とりあえず遊んでいるという感じでした。 

 アイドルを通した補償はほとんどありませんでしたが、前文の通りドラマの補償が強く、AVもありました、スポーツ(大学はテニスサークルでした)も学問も人並みにしました。kanonは友達の家で読んだ雑誌に泣けるゲームがあるとあり、ちょうど友達が持っていのたのがきっかけです。おそらくエヴァブームに乗っただけの一般人はあの絵で引いてしまうでしょうが、同人誌をエロ本として少し読んでいたのと、私がレイアースからアニメ絵に接していてそれなりに耐性があったのがあまり抵抗もなく入っていけたんだと思います。今考えますと、AVで異性を補償し、ギャルゲーで恋愛事を補償していたんだと思います。


・この脱オタの前後で、Kさんの恋愛観はどう変わったのか?

 恋愛観についてですが、相当変わったと思います。今までは恋愛相手に、学生だった事もあるでしょうが、異性として見ている面が強かったと思います。これからは(異性以外の面も)相手をちゃんと見られる気がします。また男女問わずオタク(自分も含め)や恋愛に縁が遠い人間は、どこか各自「恋愛こうすべし、女性にはこうあるべし」のような考えが強いような気がします。また自分自身に対してのキャラ作りが一般人より強いのではないでしょうか。私の場合「オトナ」っぽいキャラを目指していた感があり、縛られていた感があります。

 一般人は自分自身にも、恋愛観、恋愛相手にも、もっとナチュラルに見えます。つまりオタク、非モテは、恋愛面、異性面では先に頭の中の「フィルター」を通して見ているのではないでしょうか。これはもてない訳では無く、自分に合う相手(頭で考えている異性と言ってもいい)がいないだけと自分に対して他人に対して主張できますが、言い換えると、ありのままの異性、恋愛を見ていない事になります。実際に接したことはありませんが、腐女子の人達は男性の性欲に関する部分を受け止めきれてないように見えます。また現実の女性は駄目だから、二次元へ云々もここから来るのでしょう。両方とも自分にとってはつらい(イメージしているのと違う)かもしれないが、ありのままの異性を見ていません。
特に恋愛の部分が先に頭の中に出来上がってしまっているオタクは多い感じはします。
 「頭の中にある恋愛と違うぐらいなら、無理に付き合う必要もないし、焦らなくてもいいか」との考えが、特に恋愛していなくても危機感は正直生まれないにつながるのではないでしょうか。これはおそらくまともに恋をする前にフィクションを取ってしまった(ドラマか、漫画か各自違うでしょうが)ために起こるのでしょう。
ようするに先に頭に異性、恋愛があり、次に現実の異性、恋愛が来る感じです。先に出来上がってしまい、現実の恋愛、異性に違和感が生まれる、生まれたと言っていいかもしれません。私もあったと思います。
 一般人も多少はあるのでしょうが、我々は特にそれ(頭で考えている)が強いのだと思います。オタク恋愛娯楽は、プラトニック路線がより強く(現実の恋愛との対比でしょうが)、現実恋愛はフランクです。この乖離もなかなか恋愛しずらく、どこか嫌悪感を抱かせている原因なのではなかろうか。前文で「恋に恋していた」と書いたのは、独立した他者というよりも自分の中の恋愛観、自分の中の異性像に相手を当てはめ恋をしていたのではないかとつまり相手と付き合っているのに、相手そのものを見ていなかった、存在が弱かったとの意味です。恋愛ごっこをしていたんだと思います。この事を自分で発見できたのはよかったと思っています。ただこれが脱オタしたからなのか、そうじゃないのかはよくわかりません。これからは、ありのままの自分でありのままの異性とありのまま恋愛できる気がしています。

 人生観の変化ですが、なにかとても主体的に動いている気がし、精神的に楽になった気がしています。オタク娯楽も一般娯楽も私にとって補償や同一視の面が、人よりも強かったんだと思います。特にキャラ作りが無意識の内に結構あったみたいで肩の荷が下りたような感覚です。補償や同一視ですんでいた事を色々やってみたいと考えています。恥ずかしい話ですが自分の人生を生きている感じがすごくします。
正直脱オタしなくても恋愛も結婚もできたと思いますが、私はやってよかったと考えています。脱オタよりもその過程において自分の内面に目を向ける事を今までちゃんとした事が無かったので、色々見えたものがあったし成長したと自分で感じる事ができたからです。


※シロクマ注:句読点の位置幾つか以外は原文ママです。荒削りな文章かもしれませんし、「これはモテだ!」などと批判する人もいるかもしれませんが、少なくとも私はかなり気になりました。“私達は、オタは、異性に恋しているのか?それともメディアを通して形成された何かを異性に仮託して視た気になっているのか?”は重要な指摘だとおもいます。オタクに限ったことではなく、私やあなたは、異性・恋愛に対してどこの何を実際は視ているんでしょうね?