【プチ『萌え』化しているのはオタク『コンテンツ』か、オタク『達』か?
1997年から2004年までの流れを踏まえて】 2004. 12/06
最近、Make New Communityさんの「秋葉原から排除される萌えとプチ
『萌え』化していく日本」をLovelesszeroさんで発見し、早速興味深く拝見
させて頂いた。
この文章の中で筆者・のざわ氏は、メディアにおけるオタクコンテンツの
肯定的評価についてやオタク系市場の展望・そして冬ソナなどには無い
オタクコンテンツの特徴(例としてでじこが挙がっていた)についての鋭い
考察を展開なさっていた。これらの考察を踏まえた上で、のざわ氏は、
オタクコンテンツ(氏はオタク系文化、と表現しているので、もしかしたら
微妙に違うのかも)の今後の可能性として、
「キモいとかエロいとかいったネガティブなオタクのイメージを排除した方向に
向かっていくのではないか」とか、
「キモさを排除されるオタク系文化と、プチでキモくない萌え心理を
植えつけられていく一般消費者の距離は近づいていくんではないか?」
という可能性を指摘なさっていた。 オタクバッシングとモテ/非モテに
関する考察についても非常に鋭い視点で、興味が尽きない。
のざわ氏は、今回初めて秋葉原を訪問なさっただけで件のテキストを
作成なさったのだろうが、実に着眼の鋭いスマートな問題提起だと思う。
結果として、私はのざわ氏の呈示したのとは異なる結論をこのテキストで
呈示していくのだが、だからと言って氏のテキストが意味のないものとは
到底思えない。ちょっとここでは魅力を伝えきれないので、是非原文を
お読みいただきたい。僅かな視察で多くを感得する人間はいるものだ。
率直に、敬意を表したい。
さて本題に入ろう。私が件の文章を読んだ時、一番に感じたのは新鮮さ
ではなく既視感であり、驚愕ではなく納得だった。
「私はこういう印象を、昔にも持ったことがある!」
これこそが、私が文章を読んでのファーストインプレッションだったのだ。
あまりにその感覚が強烈だったので、今回このテキストを書くことにした
次第である。こういうインプレッションは現在だけではなく、例えば1997年
当時の私も感じたものだったと思う。現在だけにこういう事態が起こって
いるわけではないような気がするのだ。だとすれば、導き出される考察も
また少し違ってくるんじゃないか、とも思うのだ。
・私が感じた既視感−1997年当時と現在の類似
私が既視感を感じたのは、1997年当時のオタク文化を巡る状況と、あの
文章の文脈が指し示す内容に、ある種の共通点を感じたからに他ならない。
1997年というと、ゲームの世界ではプレイステーションとセガサターンが
激しい覇権争いを繰り広げながらコンシューマーゲームの黄金期を巻き起こし、
アニメの世界では新世紀エヴァンゲリオンを中心とした大ブームが起こり、
文化論者達による活発なdiscussionが行われた時期だった。1997年当時は、
今以上にオタク市場もオタク文化も鼻息が荒かった時代だったのだ。
このことは、当時からオタクコンテンツに触れ続けている人なら、誰もが
記憶しているはずだ。
1997年頃は、オタクコンテンツがメディアにさかんに登場しただけでなく、
エヴァを筆頭にその文化的価値を激しく議論されていた時代だった。相当に
有名な知識人までもが、オタクコンテンツの可能性や問題点、現代現象として
の解釈などを続けていたこの時代、メディアは競ってオタクコンテンツを取り
上げ、宣伝し、狭義のオタク以外の人々(オタクをヘビーコンシューマとすれば、
ライトコンシューマと呼ぶに相応しい人々)までがオタクコンテンツをこぞって
消費していた。ジャニーズアイドルやタレントすら、「エヴァンゲリオン好き」とか
「プレステのゲームが云々」と番組の中で発言するようになり(いや、それ以前
からドラクエなどについては芸能人は触れていたけどね)、言うまでもなくその
ような場合には肯定的な文脈でメディア登場することが多かった。エヴァなどの
一部オタクコンテンツは、ヘビーコンシューマもライトコンシューマも巻き込んで
消費されていたと記憶している。
また、1997年頃はオタク産業が右肩あがりといわれた時代で、その経済的な
可能性についてさかんな議論がなされていた時代でもあった。オタクコンテンツ
の経済的可能性については、2004年よりもむしろ1997年においてこそさかんに
議論されていたぐらいではなかったか。オタク系市場はその後現在に至るまで
徐々に縮小していくわけだが、以後も株式会社ブロッコリーの一部上場といった
出来事があるたびに、彼らはオタクコンテンツの経済的な可能性について言及
し、どうすればパイが大きくなるのかやパイの規模がどれほどのものなのかに
ついて皮算用を続けていたことを皆さんも思い出せる筈だ。
この件については、ゲーム市場の動向を書いたMasaoさんのテキストが参考になるかもしれない。
こちらなどどうですか?→)
オタクコンテンツやオタク市場がこのように称揚され注目される一方で、この
時代にオタク達がどのように扱われていたのかを思い出してみよう。オタク
「達」がキモいと思われてなかったかや、メディアがオタク達を興味本位で
テレビに晒していなかったかを回想してみると、答えは明らかだ。2004年の
ez!TV!!(注:リンク先はアキバblogさま)で曝されていたオタクの姿について
の放送と同じ程度のオタクバッシングもしばしばだったし、オタクを奇行師か
何かのようにとりあげた放送を、私は何度となく目撃されられた。そこで登場
するオタク達の姿は、オタク達のアベレージではあり得ない、極端なエッセンス
だけが抽出されたものだった。オタク達に関する何らかのステロタイプ形成に
寄与こそすれ、オタク達のアベレージを伝えられるとは思えない“分かり易い”
番組が放送されていたのは今と何も変わらない。
コミケの会場を紹介するフジテレビのレポーターも、コスプレパーティーを紹介
するドキュメンントも、To HeartやOneなどの美少女ゲームを紹介する番組も、
オタク文化圏に住まうオタク達に関する限りは、奇異なものを取り扱うかのように
紹介することが多かった(オタク文化、ことにエヴァのようなメジャーコンテンツに
対しては肯定的な文脈で語っていたのとは対照的に)。ちょうど、秋葉原blogさん
で紹介されていた、「Dの嵐」による「アキバ系 8つの法則」に挙げられている
ようなメディア曝しに出会った時、新鮮さよりもむしろ1997年当時のオタク達に
対する扱いとの類似性を私は感じずにはいられないのだ。
あーあ、何も変わってないね、と。
1997年当時から、ネタっぽい、明らかにオタク達を揶揄する報道は繰り
返されていたのだ。あのオタク文化黄金期の1997年、オタクコンテンツの
文化的側面/市場としての魅力について肯定的な評価を含んだ議論が
あれほど行われていたにも関わらず、そこに住まうコンシューマのなかでも
ヘビーコンシューマ達、つまりオタク達に関しては否定的な文脈や見せ物的な
文脈を持った報道が繰り返されていたのだ。オタク然としたオタク達は実際に
奇異の目でみられがちだったし、エヴァンゲリオンやプレイステーションが
どんなに世間に受け入れられていたかに関係無くオタクは叩かれていた。
当時のこんな状況を思い出すと、現在のオタク「コンテンツ」への評価と
オタク「達」へのバッシングの乖離は、1997年当時の状況にかなり似ている
んじゃないかと感じずにいられないのだ。のざわ氏のテキストは、現状の
秋葉原と現状の報道を踏まえた書かれた文章なので、ああいう推論に
繋がっていくのは合理的だと思う。けれど、この1997年と現在の相似をも
考慮するならば、おのずと違った推論が可能になってくるのではないかと
思われるのだ。
・オタクコンテンツの評価と、オタク達のバッシングはいつから存在するか
そもそも、このようなメディアによるオタク「コンテンツ」への評価とオタク
「達」へのバッシングという二重構造は、2004年や1997年だけのものだろうか。
いや、とんでもない!オタクコンテンツはもっと昔からそれなりの文化的評価
/市場可能性を言及されていたし、一方でオタク達に対するバッシングと
オタク達への偏見も昔から存在していた。
まず、オタクコンテンツへの肯定的評価は、「ゼビウス」や「ガンダム」などの
時代から、それなりに存在していた。エヴァンゲリオンが一世を風靡した
1997年などに比べれば盛んではないにしても、ゼビウスやガンダムなどは
それなりの評価をそれなりの人々から受けていたし、ビジネスとしての可能性
についても(1997年ほどの鼻息ではないにしても)なされていたことを忘れては
ならない。幾つかのオタクコンテンツの評価は年を追うごとに高まっており、
一般に受け入れられやすくなってきているが、その評価の源流は相当に
昔までさかのぼることが出来る。まだまだオタクコンテンツがごく一部の
オタク達の独占物に近かった時代から、オタクコンテンツの突出した一部は、
様々な論者からかなりの評価を得ていたことを私は思い出すことができる。
なかにはガンダムのように、世間から幅広く受け入れられたオタクコンテンツが
あったことも思い出すことができる。
一方、オタク達に対する否定的な評価は、宮崎某の酷いインパクトがメディアに
よって喧伝されて以来(あるいは中森氏による素敵な解説がなされて以来、と
付け加えていいのかもしれない)、ずっと存在しているような気がする。※1
もちろん、ネガティブなステロタイプの原因は宮崎某だけに帰するものではない。
オタク文化が生み出すコンテンツの一部、特にヘビーコンシューマ達が生産・
消費するコンテンツにエロ・グロ・ロリ・ホモなどが多いこと、オタクコンテンツの
ヘビーコンシューマ達の全部ではないが多くが実際に低劣なコミュニケーション
スキルしか持ち合わせていなかった事、そしてそれらが以後もメディアに否定的
文脈で紹介されていた事、等々が複合して今日まで続く不幸なステロタイプを
形成・維持したと考えるべきだろう。なんだか後ろ暗いエロ同人をやっていて、
メディア受けしそうな犯罪者を稀に輩出し(注:オタク達の犯罪率そのものが
高いわけではないが!)、そのうえ見た目や話題が理解しがたいオタク「達」。
こういったネガティブで不可解っぽいオタクのステロタイプは、例えばワイドショー
などにとってはなかなか良い素材だったのでは?ああいう形こそが視聴者に
最も訴えやすいステロタイプだったのでは?まあどのような背景があるにせよ、
当時からずっと、メディアは折に触れてはオタク「族」バッシングを行い、それに
平行してか一般の人々のオタクに対する視線も冷淡だったと記憶している。
こうして考えると、1997年や2004年におけるものほど断定出来ないにせよ、
オタク「コンテンツ」(と、それを支える遠藤雅伸氏のようなコンテンツクリエイター)
に対しては肯定的な評価や議論が行われる一方、オタク「族」に対しては否定的
なステロタイプや風評が流布しがちな二重評価構造が往事からあったのでは
ないかと疑いたくなる。1997年以前の事は、私自身もうろ覚えな点があるので
あまり偉そうなことは言いづらいが、記憶を辿って思い出す限り、ここに記した
ような情勢だったと思う。
・以上を踏まえた上で、オタク「コンテンツ」とオタク「達」について再考
これらの延長線上として、オタクコンテンツに対する評価とオタク達に
関するバッシングの近未来の展開を推測してみようと思う※2。
まず、オタクコンテンツはビジネス的・文化的に今後も肯定的な評価を
与えられる可能性が高い、と私は考える。現在のオタク市場は縮小傾向に
あるとはいえ、パイそれなりには大きいし、一部オタクコンテンツの文化的
評価は向上している。オタクコンテンツは今後サブカルチャーとして定着していく
可能性が高く、ヘビーコンシューマのみならずライトコンシューマも対象と出来る
ような商品の開発がいっそう促進されるだろう。文化的・商業的に評価が高く
なり、オタクコンテンツがメディアに肯定的な文脈で載り続ければ、そして偶に
ブームが起こりでもすれば、ライトユーザーもオタクコンテンツを当たり前の
消費する可能性はある。いや、RPGの例にもある通り、最早オタクコンテンツ
とは滅多に思われなくなるほど一般化したオタクコンテンツも存在するわけで、
今後もこのように“十分に一般化する見込みのある”コンテンツについては
どんどんライトユーザーを取り込んでいくものと思われる。そしてオタク市場を
巡っては、一部否定的な議論も含めつつも、ビジネスの可能性に関する議論
は今後も続いていくに違いない。またビジネスとしてのオタクコンテンツに
間接的に影響を与えうる、文化論者達による言及も続いていくに違いない。
オタク市場を巡る議論は文化論者達による議論とパラレルに進んでいく。
少なくとも今まではそうだったし、これからもそうなんじゃないかと思える。
一方で、オタクバッシング、つまりオタク「コンテンツ」のヘビーコンシューマ「達」
に対する否定的な評価や、メディアの見世物的態度はなかなか変わらないん
ではないだろうか。少なくとも1997年当時と現在を比較する限り、メディアが
オタク「達」をとりあげるときの態度は変わっていない。もしこの傾向が続くなら、
オタク「コンテンツ」に対して肯定的評価がなされ、一般化していく――いわば
プチ萌え化していく――のとは対照的に、オタク「達」に対する評価は簡単には
変わらないだろう…万が一に、オタクコンテンツのヘビーコンシューマ「達」の
実態が極端に変化しない限りは。もちろんオタク「達」の実態は1997年と
2004年でそれほど変化していない。オタク「達」が最も気軽に集まる街・
秋葉原のオタク「達」の様子を見ていると、消費しているコンテンツこそ違う
ものの、オタク「達」そのものの実態は1997年当時と2004年現在ではあまり
変化していないのである。以前私は、2000年頃の秋葉原と2004年の秋葉原に
おける、オタク「達」のファッションの変化を比較検討したことがあったが、
少なくともここ4年でオタク達のファッションは殆ど変化していない※3。
オタク達の実態が変化しないとするなら、少なくとも今後すぐにオタク「達」に
対する“キモいという評価や近づき難いというステロタイプ”は変化しないと
私は思う。キモさ加減や近づき難さ加減が長い年月の果てに変化していく
ならば、メディアがオタク達をバッシングする隙はなくなっていくとは思う。
だが、現時点でそれがいったいいつの日になるのか私にはちょっと見当が
つかない。
このような議論をすると、「メディアの肯定的な評価が、オタク達の評価を
もつりあげるのではないか」という疑問がわいてくる人も当然いる筈だ。
だが、私は「ほとんど吊り上げてくれない」と考えざるを得ない。
なぜなら、オタクコンテンツに対する評価の向上と、オタク達に対する評価の
低劣が、これまでの歴史の中で常に乖離し続けていたからである。エヴァにせよ
何にせよ、確かにオタク「コンテンツ」は次第に評価を獲得しつつあるが、一方で
メディアや非オタクのオタク「達」に対する取り扱いはあいも変わらず厳しい。
もし、オタクコンテンツに対するビジネス的・文化的評価の向上がオタク達の
評価向上と汚名挽回にも寄与するならば、それは1997年から現在に至るまでの
流れのなかで既にいくらか起こっていて然るべきではないだろうか。しかし、
私の知る限り、1997年にオタクコンテンツがあれだけ持ち上げられて商業的
可能性が云々されたにも関わらず、マスコミによるオタク達バッシングや
市井の人達のオタク達に対する冷淡な評価は現在に至るまで変化していない。
私はこのことを根拠に、オタク「コンテンツ」がいくらグッドイメージを獲得して、
エロだの何だのを排除した肯定的な文脈で語られようとも、その結果一般化
しようとも、オタク「達」その人達のグッドイメージ獲得には繋がらないと思うのだ。
・結局、キモさを排除されて、「プチ萌え」化していくのは何か?
ここまで辛抱強く読んでくださった方は、私が“何のキモさが排除されて
『プチ萌え』化していく”と考えているか、ある程度分かるんじゃないだろうか。
キモさは確かに排除されるだろう、ただしキモさが排除されるのはオタク「達」
すなわちオタク「コンテンツ」のヘビーコンシューマ「達」からではない。そうでは
なく、一般に供されるべきオタク「コンテンツ」そのものからキモさが除去される
のだ。さらに、一般に供されるべきオタクコンテンツは、オタクコンテンツの中
でもキモさを除去しやすいコンテンツだけが選択される。宮崎駿の作品群や
士郎正宗の作品群、ドラクエ等が既にそうであるように、一部のオタク
「コンテンツ」はヘビーコンシューマ「達」の独占物ではなく、より広いライト
コンシューマをカバー可能な、キモくないコンテンツへと変貌していく(いや、
オタクコンテンツという表現すら次第に相応でなくなる)。※4
しかし、“萌え”即ち不可解と紙一重の要素が排除されて“プチ萌え”へと
変貌していくのは、オタク「コンテンツ」の全てではなく一部だし、バッシングの
対象となっている当のオタク「達」でもあり得ない。現在のオタク「コンテンツ」
を巡る状況とオタク達バッシングだけを横断的に見ると、一見両者は歩み
寄っていくように見えるが、オタク「コンテンツ」が歩んでいるプチ萌え化と、
オタク「達」の叩かれている状況は、縦断的に見れば別個の問題であり続ける
可能性のほうが遙かに高い。そして、メディアはプチ萌え化していくコンテンツと、
そうでないコンテンツ(及びオタク「達」)を上手に分割して紹介し続けるだろう。
例えば2004年秋に放映された『アド街ック街天国』でも、肯定的な文脈で
秋葉原を紹介する際に、一部のオタク「コンテンツ」には焦点が当てられた
一方で、“一番肝心なところが抜けていた”“やばい所は切り取られていた”
ことは記憶に新しい。メディアが肯定的な文脈でオタクと関連したものを紹介
する時には、キモいオタク「達」ばかりでなく、多くのプチ萌え化できない
オタク「コンテンツ」を切り取ったうえで肯定的な文脈を提供する。要は、
臭いものには蓋、なのだ。
これもあって、ヘビーコンシューマ「達」、即ち秋葉原やコミケでしばしば
見かけるようなオタク「達」のステロタイプは、メディアの肯定的なオタク
「コンテンツ」紹介の恩恵には与れない。プチ萌え化は、侮蔑されるリスクを
背負っているような、秋葉原を闊歩しているオタク「達」をおいてけぼりにした
まま進んでいくのではないだろうか。バッシングの対象となるオタク「達」と、
プチ萌えコンテンツに手を伸ばすライトコンシューマ達の距離も狭まらない。
両者の間の距離が近くなるわけではなく、『プチ萌えコンテンツ』だけが
ライトコンシューマに接近していくに過ぎない。そして、ライトコンシューマを
はじめとする非オタク達は、秋葉原のオタク「達」を見て「私はあの人達とは
違うわ」と呟くのだろう――かつてオタク「達」だけの独占物だった筈の、
RPGなどのプチ萌えコンテンツを買い物袋に入れながら。
「日本にプチ萌えが広がっていく」というのざわ氏の結論は、確かに当たって
いると思う。しかしここまで述べてきた通り、それはオタク「達」の一般化――
即ちオタク「達」に対するバッシングや、一般の人々のオタク「達」への冷淡な
態度の改善――というプロセスを含んだ変化ではないだろう…悲しいことに。
日本に『プチ萌え』が広がっていくということは、単に一部のオタク「コンテンツ」
が一般化して広く受け入れられるようになるだけのことで、いわゆるキモオタと
言われる可能性のあるオタク達への評価改善や一般化には繋がらないのだ。
仮に今後、秋葉原が『プチ萌え化』したオタクコンテンツの溢れる街に変貌した
としても、秋葉原に今動いているオタク「達」は変わらないし、オタク「達」への
冷淡な風当たりや嘲笑的なメディアの取り扱いも変わらないだろう。
プチ萌え化のしようのないオタク「コンテンツ達」――例えばとらのあな等で
扱われている「コンテンツ達」――への一般的評価もやはり変わらない。
『プチ萌え化』できずに残存したそれらの“萌え”と“萌える人々”は幾らかの
割合で必ず残存する。そして残存する限り、秋葉原のような場所を生みだして
いくのではないだろうか?
あと、仮に今後どれだけオタク「コンテンツ」の『プチ萌え化』と、そうでない
オタクコンテンツの街からの排斥が進んだとしても、一般化があり得ない聖域
が残るじゃないか!聖域とは即ち、コミケをはじめとする同人活動の事である。
今後オタク「コンテンツ」が次々に一般化しようとも、一般化を免れた、或いは
まだ一般化される前のオタク「コンテンツ」は、同人の世界や濃いオタク達の
世界で無限に生産されていて、それらの生み出される場所では最初から
『プチ萌え化』されたコンテンツは滅多に生産されない。さらに、既に一般化
されたオタクコンテンツを題材に、パロディやキメラと呼ぶべきヘビーなオタク
コンテンツが常に再生産され続ける※5。どれだけ新たにオタクコンテンツが
プチ萌え化していこうとも、濃いオタク「コンテンツ」は果てしなく生産され続ける
し、そこに携わり消費する人々も全滅はしない。ライトでキャッチーなプチ萌え
コンテンツが広がっていく一方、“プチ萌えなんてありえない”ヘビーなオタク
コンテンツもいつまでも存在し続けるだろう。たとえ、後者を非オタクの人達が
まっとうなものや価値あるものとはみなさず、むしろ有害なものとさえ感じる
かもしれないにしても。
以上が、「プチ萌え化していくもの」に関する私の考えである。のざわ氏
の興味深い文章に、私のオタク経験と縦断的観測を加味して考察すると、
プチ萌え化していくものが何であるかに関して少し違った未来予想図を
展望せざるを得なかった。この憶測は私が考えたものに過ぎず、他の
視点からみるともうちょっと違った展望が出てくるかもしれない。是非、
他の論者が面白い展望を展開してくれることを期待したいところである。
…ところで、もし私のこの未来予想図がある程度の説得力を有したものだと
したら、(経済の偉い人、オタク文化論の論者達ではなく)オタク「達」当人に
とってこれは福音の予言なのだろうか?それとも災厄の予言なのだろうか?
オタクコンテンツがプチ萌え化していく一方で、オタク達とヘビーなオタク
コンテンツが生き残るような未来は、オタク達にとって希望か絶望か?
それについての判断は、皆さんにお任せする。
→ついでだ、おまけもみておこう
[2004. 12/06以上]
→もとのページへもどる
→オタク研究のトップに戻る
【※1ずっと存在しているような気がする。】
ここで、岡田氏によるオタク論を思い出して、オタク族に対しての肯定的な
議論が存在していたとか、オタク族はバッシングされていないと反証する人が
いるかもしれない。確かに、岡田氏のオタク論に書かれているオタクは、オタク
コンテンツに留まらずオタク達そのものまでもが肯定的な文脈で描かれている。
しかし、実際にはオタクコンテンツのヘビーコンシューマ達があのような才気
煥発の人々で占められてはいなかったという事は、忘れてはならない。また、
岡田氏のオタク論は岡田氏のオタク論を好んで読むような人々には影響を
与えうるものだったが、メディアにしか目を通さない市井の人達のオタクに
対するステロタイプには大した影響を与えなかった事にも注目して欲しい。
どちらにせよ、岡田氏のテキストは市井の人達のオタク「族」に対する
ステロタイプを変更することは出来なかったし、彼が肯定したオタク像は
市井の人が思い描くオタク「族」達の、ごくごく一部の上澄みだったに
過ぎない(おたく論発表当時は、そういう上澄みのようなオタク趣味エリート
の割合が高かったので、それでも構わなかったのだろう)。現在オタク
バッシングの対象となっているオタク達の殆どは、彼の称揚するところの
素晴らしきエリートオタクとは異なるオタクだ。
私は自分が岡田氏以降のオタク論をまだまだ勉強不足だと思っている。
しかし、あくまでその中でものを言わせて頂くなら、現在に至るまでの
オタク論においては、オタクコンテンツに関する文化論的言及がさかんな
一方、当のオタク達、特に現在バッシングの対象になり得るようなヘビー
コンシューマ達についての言及はそれほど盛んではないんじゃないかという
印象を持っている。私自身がさらに突っ込んだ勉強をすれば印象が変わる
かもしれないが…。
まあ、オタク論者達が彼らのスタンスでオタクバッシングだのオタクは
キモいだのを論議したがるだろうかと言われると、そんなインセンティブが
どこにあるのかさっぱり分からない→論議しないような気もする。キモい
オタクをとりあげることこそあれ、オタクのキモさや差別を論議することは
あんまりなさそうだと推測。もしいいテキストあったら、誰か教えてください。
【※2推測してみようと思う】
念のため付け加えておくが、ここでいうオタク「達」は、岡田氏の定義する
ところの素晴らしきオタク達ではないし、勿論オタク「コンテンツ」を指している
わけでもない。バッシングの対象となり、オタク「コンテンツ」のヘビー
コンシューマであり、ある種のステロタイプで一括されがちなあの人達
――のざわ氏が秋葉原で出会った、あのオタク「達」である。
【※3オタク達のファッションは殆ど変化していない。】
この文章には、“ファッションに関連した記号をどう取り扱っているかが、
その人のコミュニケーションスキル全般や、コミュニケーションに対する
意識の高低を類推する一手段となり得る”という含意がある。また、
“その人がどのような偏見や先入観を見知らぬ人から受けるかを類推する
一手段となり得る”という含意もある。だからこそ、秋葉原のオタク「達」の
ファッションは、考察してみる価値があると思った次第である。
もちろん、ファッションはその人のコミュニケーションスキルやその人の
人間性を計るバロメータとしては単独では不十分である。だが、ファッションは
その人のコミュニケーションに臨む態度や意識を計ったり、外部の人間からの
偏見の招き易さを計ったりするのに有効なマーカーのひとつだと考えている。
もちろん、個人を評価する場合、マーカーはファッションひとつでは足りない。
個々のオタクのコミュニケーションスキルや意識を評価する場合、もっと
様々なものをみていかなければ駄目だということには私も同意する。
【※4オタクコンテンツという表現すら次第に相応でなくなる】
電車男の例のように、かなり濃いオタク「コンテンツ」を一般化すべく、本屋
さんが拾い上げてメディアに流したケースにおいても、それが“プチ萌え化”
した商品として流通可能だろうという判断が本屋さん側にあってはじめて、
拾い上げ→出版&メディア紹介が行われたことには留意すべきだろう。
一見すると一般化しそうにないオタク「コンテンツ」がプチ萌え化していく場合
にも、仕掛け人の側に“こいつは一般にウケるかも”という判断があって
はじめてそれが行われている事には注目してもいいと思う。コスプレだろうが
電車男だろうが、プチ萌え化できると仕掛け人が判断したオタク「コンテンツ」
だけがプチ萌え化の対象となっている点に注意。
【※5常に再生産され続ける】
例えばファイナルファンタジーのエロ同人誌が好例。一般化されたオタク
「コンテンツ」が、非一般的な状態に再加工されたオタクコンテンツの例である。
ファイナルファンタジー10のユウナがどれだけプチ萌え化したキャラクターで
あろうと、エロ同人誌において再登場するユウナはプチ萌え化などという
にはほど遠いキャラクターとしてオタク「達」の前に現れる。同人活動の世界
では、この手の『プチ萌え化→萌え』への逆行コンテンツが物凄い勢いで
生産され、オタク「達」の手へと渡っている。
なお、『プチ萌え』とはほど遠いオタクコンテンツが生産されるのは、独り
同人マーケットの世界だけではない。オタク達の、オタク達による、オタク達
の為だけの濃いコンテンツを生産する一連の零細企業群もまた、『プチ萌え』
とは無縁の、がっつり萌えるしかない、玄人向けのオタクコンテンツを
生産し続けていることを付記しておく。