「終わりの日に○の臣民の為に備えられた最後の隠し玉が現れる。」とひつく神示に書いてあります。これを「最後の一厘」と呼ぶ。
「最後の一厘」についての神示には、(言いたいなれど今は言えぬ。…しかし、何でも無いことじゃが、これが中々じゃ…。) と、あります。
果たしてそれが、「昔話」のことを指して言われた言葉なのであろうか?。昔話は、最後の一厘で現れる、とされる究極の留めのメッセージなのか?。
日本の近代歴史に起こる、艱難と混乱を予告した物語なのであろうか?。。
この講座では、三大おとぎ話を封印された予言書として捉えて、今日まで隠され続けてきたメッセージの真意を解明していきます。
昔話を予言書として捉えて、近代史との同時性を比較検証します。
更に次の講座では、もう一つの昔話の捉え方の、過去の歴史に起こったある事実を隠蔽するための記録書ではないか…?。という可能性について検証します。それは古代の天孫族と出雲族の相克と交わされた密約の真相が、何であったのかを解き明かす「逆説的真理」に至る、歴史の裏側の検証です。
昔話の内容が、未来に対しては予言書でありながらも、過去に対しては古代に起きたある歴史的重大事件の痕跡を隠した記録書であるならば、時が至るまで隠蔽し続ける必要性があって仕掛けられた物語となる。
(何でもないことじゃが、これが中々じゃ…。)とあるのは童話やおとぎ話の物語が封印された過去の重大な秘密を解明する最後の一厘となるかも知れないのだ。縄文人や蝦夷たちが大切に守ってきた宝、譲り渡したと見せかけて実は密かに隠し持っていた本物の三種の神器が出現し、未来の課題と正しい方向を明らかに示すことになる。
古代に封印されたユダヤの刻印(本物の三種の神器と契約の箱)が出現する時、その見事な最後の仕掛けが成就する。最後の一厘により、ユダヤの悪の企みが一瞬に崩壊していく皮肉な結論は、決して失望ではなく、取り違えた神により憎しみあった者がお互いの誤解を解いて握手して抱き合う希望の時代である。「栄光の選民」へ贈られる励ましの物語。その来たるべきどんでん返しのドラマとなっていく歓喜と驚異の逆転の仕組みを解明していきます。
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