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── 山川秀樹 ──
去る8月21日、ミュージアム・アクセス・ビューの鑑賞ツアーで、京都国立近代
美術館で開催中の、「モホイ=ナジ/イン・モーション」展に出かけた。
当初ビューの他のスタッフに聞いたりホームページで調べたりしたところでは、
ナジは、メディアアートあるいは現代アートの作家であり、前衛的なアートムー
ブメントにも参加していたとか、絵画・写真・映画・舞台など、様々なジャンル
に関わっていたとかいうことらしかった。また、二つの世界大戦を経験し、母国
ハンガリーからアメリカまで、欧米各国を亡命などの形で転々としたことが、彼
の作品や考え方にどんな影響を与えたのだろうといった関心も少し持ちつつ、会
場の門をくぐった。
会場に入り、年代順に展示された作品を、同じグループになったお二人と見て
いく。最初は、視覚的要素が強くて、対話による鑑賞が難しかったらどうしよう
という不安もあったが、うまく作品を選んで鑑賞することで、その心配は杞憂に
終わったようだ。
絵画作品は、丸や四角などの図形や、太さの違う線を描いた抽象的なものが多
かったようだ。こんな形や線が描いてあって、と一つ一つの作品の説明を聴いて
も、そのときには、それ以上でも以下でもないという印象は否めない気もした。
ただ、その線からは力強さや明るい光、希望のようなものが伝わってくるという
し、形はとても美しいという。そして、お二人は、確実に作品の世界に引きつけ
られていっているようだし、これは只者ではないのだろうという思いで、鑑賞を
進めて行くことにした。
今振り返ると、一つ一つの作品を深く味わったりするというよりは、数多く展示
された、絵画・写真・映像・彫刻等々、多様なメディアに渡るナジの作品群が作
り出す空間や雰囲気、そして、ぼくらにとっては、作品を前にして対話したとき
の、ことばの新鮮さや臨場感、作品と対話が織り成すライブ感覚みたいなものを
体感するといったタイプの展覧会だったように思われる。けれども、その臨場感
や対話のライブ感覚のようなものを、ことばで十分に伝えきれないのはとて
も残念だ。
今回鑑賞した作品の中で、ぼくがもっとも印象に残ったり考えさせられたりし
たのは、「ライト・スペース・モジュレーション」という作品だった。
大きな台の上に、金属製やガラス製の様々な形のオブジェのようなものが備え
付けられていて、電気仕掛けで回転したり動いたりしているようだ。その大きな
作品を時間の経過とともに明るさが変わるライトが照らしているらしい。
この「ライト・スペース・モジュレーション」、ナジの代表作とのことらしい。造
形と運動と光、そして、当時の最新の工業技術が融合した作品と言ったところなのだ
ろうか。こういうのを当時、初めて融合芸術と言ったんだろうなあと感心したり
する。
ご一緒したお二人によると、この作品、造形も変化する光の具合もたいへん美
しいという。そこから何かを感じたり思い浮かべたりというよりは、とにかく美
しいのだ、というのが、お二人のことばから伝わってくる。
よく考えてみれば、美しさに理由や理屈はいらないようにも感じる。ぼくが楽曲
のメロディーや楽器の音色、歌声やハーモニー(和音)を聴いて美しいとか綺麗
と感じるときにも、そこには理由や理屈は存在しないような気がするときがある
し、その演奏を聴いて、ぼく、すなわち、リスナーが何を感じたり考えたりする
かとか、作曲者や演奏者は、その楽曲や演奏を通して、何が伝えたいのかといっ
たことなどは、もうどうでもいいような気がするときさえある。ただただこの美
しさに身をゆだね、浸っていたいと。
ひょっとすると、この大きくて迫力もあるだろう作品の美しさはそんなものな
のかもしれない。
それにしても、80年余り前に、当時はまだ発展し始めたばかりであったろう、
工業製品を作るような大掛かりな道具や手法や技術を持って、こんな巨大で美し
い作品を作ることを発想して実現させてしまったナジとはどんな人だったのだろ
う。
そこに、これまた当時新しかったであろう電動モーターや電灯による照明の技術
を融合させるなど、どこにそのヒントを得たのだろう。
20世紀というのは、産業や科学技術や芸術のみならず、人間の営みのあらゆ
る分野で、あらゆるもの・こと・技術・手法等々を融合させて、新たなものやこ
とを生み出して育んできた世紀ではなかったか。ぼくらが暮らす、現代社会の仕
組みや制度も、多くの手法や思想や物事を融合させたものではなかろうかと思え
る。そして、ナジはその「融合の世紀」とも言うべき20世紀の初めにあって、
「融合芸術」の先駆者となったのだろう。
今ぼくらの暮らすこの社会は、高度情報化・グローバル化・市場原理万能(格
差)化という地点にたどり着いてしまったようだ。原発依存という状況にも、ど
っぷり浸っているように見受けられる。そして、「融合の世紀」とは、「西洋近
代合理主義」と「効率主義」を基盤とする、ぼくらが暮らす現代社会を育んだ世紀
である、とも言えそうだ。
そして、その社会の行き着いた先が上に記した今の状況だとしたら、ぼくらは、
ナジの生きた時代を、今のぼくらとその社会にとって、どんな時代だったと考え
ればいいのだろう。
ナジの作品からは明るさや希望が感じられるという。だとすれば、ナジは当時
進展し始めた「産業化・工業化社会」や、「合理主義」や「効率主義」、といっ
たものを、概ね肯定して、そこに人間の未来や希望を見出そうとしていたのだろ
うか。それとも、その未来や希望の陰の部分や負の部分をも予見して、警鐘を鳴
らそうともしていたのだろうか。
お二人のことばによると、彼の作品から感じられる光には太陽ではなく月を連
想させるものもあったとのことだったけれど、その月の光に見えるという線は、
ナジ自身がやがて現れるだろうと予見した、近・現代社会の陰や負の部分の象徴
として描かれたのだろうか。二つの世界大戦の経験が彼にどんな影響を与えたの
かとも合わせて、当日の鑑賞やご一緒したみなさんとの対話からだけでは、上の
ようないくつもの疑問について計り知ることはできなかった。
ともあれ、いずれにしても、ぼくらと近・現代社会のこれまでと今、これから
を考えさせてくれる貴重な作品と展覧会だったように思う。
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── 林 美冴 ──
私は今回初めてビューの鑑賞ツアーに参加しました。私はもともと芸術
に関心が強く、美術館や博物館に足を運ぶのが好きでしたが、「言葉で
作品を鑑賞する」というのは初めてで、いつもとはひと味もふた味も異
なった鑑賞となりました。
まず作品を前にして、自分がどう対象を認識しているのかということを
自分自身に尋ねなければなりません。今回のモホイ=ナジの作品は特に
「視覚の実験」ということで、抽象的な作品や実験的構成の作品が多
かったために、この自己との対話にまずエネルギーを使いました。自分
の頭の中で抱いたぼやっとした「印象」にぴったり合う言葉を連れてく
る、つまり目で見て自分が感じたものを省略せず、ごまかさず、余すこ
となく言葉に変換するということはとても難しく感じました。普段モノ
を見て言葉で言い表すのにいかに手抜きをしているのかということが分
かってしまします。しかしその一方で、ときに自分でも面白いと思える
言葉の表現が出てきたり、話すうちに物語ができてきたりという楽しさ
もありました。
この自己との対話も突き詰めればとても面白いのですが、やはり他者と
の対話による感性の共有と発見がさらに面白いと思いました。私は今回
ビューのスタッフさんと、弱視であるTさんとチームになりまし
たが、「これは何でしょうね…どういう意味があるのでしょう」など
と、のんびり一緒に考えながら鑑賞したという感じでした。Tさ
んに作品を言葉で伝える際に、「私が選んだ言葉は親切ではなかったか
もしれない…」と不安に思ったこともありましたが、Tさんは
「なるほど」と相槌を打ったり笑ったりして、しっかりと受け止めてく
ださった様子でした。嬉しかったのは、鑑賞中に私が何気なく言ったこ
とをTさんが気に留めていてくださり、最後の感想会でもそのこ
とを皆さんの前で話してくれたことです。Tさんの感性ともぴっ
たり合ったのかなという、共有することの喜びを感じました。また、
Tさんの意見から思わぬ作品の共通項が見いだせたり、ビューの方とも
お互いの意見を言い合ったりと新たな視点の交換が行われました。まさ
に発見の連続です。
鑑賞会後の感想会では、各チームから目の不自由な方と晴眼者の方の
2名ずつが代表して感想を述べましたが、そこでも「目から鱗」の新た
な視点の発見に満ち溢れていました。同じ作品についても様々な意見が
飛び出してきて、特に目の不自由な方の豊かな感性には感嘆するばかり
でした。私が特に印象に残ったのは、絵から「音」が聞こえたという意
見です。なんと深みのある鑑賞だと思いました(その絵を私も鑑賞しま
したが、そこまで感じ取ることはできませんでした)。芸術は確かに
「見る」だけのものではなく、五感のすべてを使って味わうものなのだ
と実感しました。
モホイ=ナジの作品は、解釈しようと思えば難しく映るかもしれませ
んが、なにぶん彼自身も「実験」なので、こちらも実験的に自由に話を
膨らませる余白があったと思います。モホイ=ナジは20世紀美術
に「新しい視覚(ニュー・ビジョン)」をもたらしたといいますが、私
は今回の鑑賞ツアーで「新しい視点」を持ち帰ることができたと思いま
す。とても充実した一日でした。ありがとうございました。
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