(7)ついでながら、1994年度の私の担当科目およびクラスは、次の通りである。高1普通科・国語T「現代文」(3単位)……4組(男子45名)・5組(男子44名)
高1普通科・国語T「古典」(3単位)……7組(男子45名)・9組(男子44名)
高2普通科・必修選択「古典a」(4単位)……5・6・9組(男子43名)(8)例えば、1学期に取り上げた「蝉」以外の教材の、年間授業テーマと響き合う点をクローズ・アップしてみよう。なお、本文の引用は、使用教科書(第一学習社『新訂国語(一)』現代文・表現編)による。
(A)丸山健二「マラソン・ランナーは孤独か」は表題そのものが問いかけとなっている。ともに走る仲間たち、沿道やゴール地点における大勢の見物人の声援、殺到するスポーツ記者、 待ち受ける表彰台。いずれもマラソン・ランナーのために用意された「晴れがましさ」である。しかし、そこにみられる関係性は「見物人=不健康人」と「その代受苦者としての選手=超健康人」という図式で捉えられ、見物人たちの「声援」も「罵倒」に等しい「狂暴なまでの自己主張にすぎない」とする把握が示される。だとすれば、最終段落の「見物人は帰っていく。しかし、まだ大勢の徒労の使者たちはゴールをめざして走っている」というマラソン・ランナーたちの姿は、他者との晴れがましい関係性を求めるものとしてではなく、むしろ自己の中に存在する何らかの内発的な動機に支えられたものとして映じてくるはずである(それは、「自分の肉体が本当に自分のものとなっていく」こと、あるいは「肉体と精神との間に一線を画して生きることの無意味さ」を自覚する営為でもあった)。
(B)芥川龍之介「羅生門」では、荒廃した羅生門の下で飢死をするか盗人になるかという二者択一の逡巡を繰り返していた下人が、楼上における老婆との出会いによって、結果的に後者の行動化を選んでいく。この最後の行動におよぶまでの下人の心理の推移――雨宿りをしていた折の逡巡、楼上の光景 に当初抱いた「六分の恐怖と四分の好奇心」、老婆に立ち向かう際の「あらゆる悪に対する反感」や彼女を制した「安らかな得意と満足」、さらに彼女の言葉を聞いた後の「失望」や「侮蔑」の念とともに再燃する「憎悪」、やがて生ずる「ある勇気」――を追っていくのが、おそらくはオーソドックスな授業展開であろう。ただし、下人にとっての他者(老婆)との出会いが、当座の「引はぎ」行為を正当化するためだけに用意された観を呈し、少なくとも真の意味で自己の捉え返しへと到っていないこと、すなわち、自己を排した表層的な他者への同化といった意味をしか有していないことに留意しておく必要があると思う。
(C)野村雅一「身体像の近代化」は、明治初年の日本人の裸体習俗や身体行動の様式がやがて見られなくなっていくことから説き起こす。それは「風俗の変遷のありふれたひとこま」などでは決してなく、「公権力の民衆の身体への介入」によって果たされた「矯正」や「改造」の過程として把握されている。そして、公権力(明治政府)が企図したのは、いまだ「可視的な共同体」に「脈絡づけられている個人個人を公的な場に引き出すこと」、すなわち、近代国家(より具体的には、近代国家の軍隊)の成員として民衆を組織しなおすことであった。民衆の根強い「着衣への抵抗」を押し切って、他者(公権力)による個々の身体への介入が「日本人の身体の様態や意味に根本的な変化」をもたらしえたとき、それは外的な変化にとどまらず、同時に個々の内面の変化をも促していくことになる。
(9)いま小説に限って言うならば、自主教材の選定に際して、私は次のような点に留意している。無論、不十分な基準であることは否めないが、とりあえず私の現段階として呈示しておくことにする。
(a)生徒たちが楽しむことのできる作品、所謂「国語嫌い」の生徒をも巻き込んでいける作品であるかどうか(のみならず、教室で彼らと一緒に読むとき、私自身が楽しめる作品であるということも重要である)。
(b)その作品が、折々の国語教室の情況(クラスの成員たちが醸し出す雰囲気や集団としての成熟度、それまでに取り組んできた教材等々)を勘案して設定された学期ごと(可能ならば年間)の授業計画の一連の流れの中に、あるいは授業テーマや到達目標の中に、きちんと位置づけうるものであるかどうか。
(c)前記(a)とも関連するが、教師もまた生徒たちとほぼ同じ地平に立ち、ともに作品の読みを紡ぎ出していくことのできる作品であるかどうか。端的に言えば、「教科書」への収載や既存の「指導書」のない作品であること(これは担当教師間で指導案作りを通じて教材論議を巻き起こしたいという、当該学年「現代文」チーフとして足掛け3年になる私のひそかな願いでもある)。
(10)実際のところ、生徒たちの提出した「羅生門」の初発感想をみると、「わからない」とするものがそれなりの数を占める。ただし、そう書き記しながら、彼らは「羅生門」の作品世界が持つ不気味な雰囲気やある種の違和感を捉えてもいるのである。拙稿「高1国語(現代文)の授業・『羅生門』の続編を書く」(『解釈』第39巻第10号、教育出版センター、1993年10月)。