山田詠美「蝉」の授業



.□ 第2章 □.

 ところで、高校の国語教室における読みの多様性なるものは、結果として所謂「指導書」のヴァリエーションの数(要するに、そこにどの学説が採用されているか)だけしか存在しておらず、その縮小再生産だけが繰り返されているのではないか。私は「指導書」の価値を決して否定するものではないが、しかし、それにしても、所謂「受験産業」の現場(塾で2年間、予備校で4年間)を経て学校現場に職を得た私にとって、「指導書」の言説を咀嚼すらせずそのまま教室で開陳し、「国語」を暗記科目たらしめている「教師」のかくも多いことは意外であった。そこに一種の制度として機能する「教科書」や「指導書」があり、「教科書」収載教材を(その適否の吟味もなく)無批判に使用し、教師が「指導書」の言説だけを拠り所に国語教室に臨むとき、教師や生徒の多様な読みや自由な読みは、却って抑圧されていくほかあるまい。また、何10年にもわたる所謂「定番」教材の存在は、教師の側に作品の読み深めや授業の洗練といったことよりもむしろ、授業のパターン化やマンネリ化をもたらすことになってはいないだろうか。

 次に引くのは、この3月に卒業した生徒の1人が、高1の頃、「風葬の教室」の授業を終えた際に提出した感想文の一部である。

    ぼくはこのような国語の授業がはじめてです。こんな楽しい小説が授業に出てくるとは思いませんでした。国語といえばどこか勉強というふんいきのある文章を読んでいって、それがテストに出るというパターンなのでぼくは嫌いでした。でもぼくはこの作品に非常に興味があったので熱中して読むことができました。
 ここには、いつの頃からか「国語嫌い」になってしまった生徒たちが抱く「国語の授業」の固定的なイメージが示されている。生徒たちに読む楽しさを味わってもらうこと、あるいは心揺さぶる衝撃的な作品との出会いを演出すること――シンプルだが、それが私たちの原点であり、責務でもあるはずだ。

 だとすれば、入学してきた生徒たちと新たな国語教室を組織していくために、まず私たちがなすべきことは、彼らの中で固定化した「国語教室」のイメージを払拭していくことである。無論、それは1教材や1学期間のみで容易に果たせるものではないであろうし、だからこそ、たとえ大まかながらでも系統的な各学期(可能ならば年間)の授業計画あるいは授業テーマを設定した上で、教材選定や授業形態にも工夫を凝らしつつ、じっくり取り組んでいくほかあるまい。

 ちなみに、私がチーフを務めた1994年度(注7)の高1普通科・国語T「現代文」の授業は、《「他者との関係性」と「個体(生命)の尊厳」の発見》ということを年間テーマに据え、次のような教材に取り組んでいる(教材の決定は学期ごとにおこなった)。ただし、年間テーマとはいっても、生徒たちに明示したものではなく、あくまでもこちらの心づもり程度のものに過ぎない。したがって、すべてをこのテーマへと還元するような授業展開は決してとっていないのだが、それでも2学期の授業を終える頃になると、漠然とではあれ、既習教材に通底するものを感得する生徒も出てくる(注8)。

    1学期
    【中間考査範囲】
    丸山健二「マラソン・ランナーは孤独か」/◎山田詠美「蝉」(※初発・最終感想文各1篇)
    【期末考査範囲】
    芥川龍之介「羅生門」(※「続編」創作1篇)/野村雅一「身体像の近代化」

    2学期
    【中間考査範囲】
    ◎鎌田敏夫「会いたい」(※感想文・歌物語創作各1篇)/日野啓三「私にとって都市も自然だ」
    【期末考査範囲】
    ◎山田詠美「風葬の教室」(※登場人物評・感想文各1篇)

    3学期
    【学年末考査範囲】
    中村雄二郎「目に見える制度と見えない制度」/志賀直哉「城の崎にて」(※感想文1篇)


 上のうち、◎印を付したのが自主教材(注9)で、それ以外は使用教科書(第一学習社『新訂国語1現代文・表現編』)に収載された作品である。また、※印を付したのは、生徒たちに「書く」作業をそれぞれ括弧内の内容で課したものである(これらは各学期評定の1〜2割を占める。なお、「風葬の教室」の感想文は冬期休暇明けの提出で、3学期の評定対象とした)。

 山田詠美「蝉」が前掲の年間授業テーマに響き合うものを持っていることは言うまでもない。また、芥川龍之介「羅生門」が10代後半のいわば生徒たちとほぼ等身大の主人公を配しつつも、その一方で彼らの実感しえないような極限的社会状況を背景としているのに対し(注10)、この小説の主人公はむしろ彼らよりも小さな存在であり、彼らがかつて経験したはずの小学校時代の夏休みや弟の誕生(あるいは兄弟姉妹の存在)といった身近な時間や出来事が背景となっている。したがって、当然ながら生徒たちの中に喚起される違和感は「羅生門」に到底およばぬものの、それとは別の意味で、主人公岡田真実の小学四年生らしからぬ過剰な自意識は、生徒たちの違和感の対象となるだろう(回想というかたちで書かれていることを考えれば、それは「大人になった今」の語り手の自意識であるとも言えようが……)。

 主人公の自己肯定は、蝉をはじめクラスメイトや叔母、ひいては生まれたばかりの弟に対してすら「死んでしまえばいい」と感じてしまうような、いわば自分を苛立たせる他者を否定することによって支えられていた。やがて彼女は、蝉や弟のみならず自身もまた空洞をおなかに抱えた「ただのはかない生き物」であること、すなわち「私自身も同じ身の上であるということ」を発見していく。作品のラストに織り込まれた「私こそ死んじゃえばいいのに」という自己否定の言葉は、彼女が他者を肯定しうる新たな自己の肯定――あるいは、感覚的・感情的な自己執着から、他者の存在とともに自己を対象化する論理的な自己認識――へと到ったことをも示している。

 この主人公について「彼らよりも小さな存在」と先述したが、小4という外的な設定はさておき、彼女の内的情況は、私たちの眼前の生徒たちのそれと決して径庭のあるものではなく、むしろ響き合うものとしてあると言えるのではないだろうか。したがって、お題目的にまとめるならば、主人公が身近な時間や出来事の中で他者の生命のはかなさやそれと同列に存在する自己(の生命)を発見していく過程を追体験し、自己を対象化する契機とすること(さらには身近な他者との新たな関係を築いていくこと)――これを「蝉」の学習目標として呈示することができるだろう。

 最後に、蛇足ながら付言しておこう。わが校の生徒たちの出身地は、京都・奈良・滋賀・大阪……と、比較的広範にわたる。それゆえに、当然ながら入学したばかりの彼らは、ほとんどが顔見知りであった地域の小・中学校とは異なる雰囲気の中で、新たに自己と他者との関係を築いていかねばならぬ状況に直面している。本教材に取り組んだのは、まさにそんな時期のことでもあった。




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.▽ 注 ▽.

(7)ついでながら、1994年度の私の担当科目およびクラスは、次の通りである。高1普通科・国語T「現代文」(3単位)……4組(男子45名)・5組(男子44名)
高1普通科・国語T「古典」(3単位)……7組(男子45名)・9組(男子44名)
高2普通科・必修選択「古典a」(4単位)……5・6・9組(男子43名)(8)例えば、1学期に取り上げた「蝉」以外の教材の、年間授業テーマと響き合う点をクローズ・アップしてみよう。なお、本文の引用は、使用教科書(第一学習社『新訂国語(一)』現代文・表現編)による。

(A)丸山健二「マラソン・ランナーは孤独か」は表題そのものが問いかけとなっている。ともに走る仲間たち、沿道やゴール地点における大勢の見物人の声援、殺到するスポーツ記者、 待ち受ける表彰台。いずれもマラソン・ランナーのために用意された「晴れがましさ」である。しかし、そこにみられる関係性は「見物人=不健康人」と「その代受苦者としての選手=超健康人」という図式で捉えられ、見物人たちの「声援」も「罵倒」に等しい「狂暴なまでの自己主張にすぎない」とする把握が示される。だとすれば、最終段落の「見物人は帰っていく。しかし、まだ大勢の徒労の使者たちはゴールをめざして走っている」というマラソン・ランナーたちの姿は、他者との晴れがましい関係性を求めるものとしてではなく、むしろ自己の中に存在する何らかの内発的な動機に支えられたものとして映じてくるはずである(それは、「自分の肉体が本当に自分のものとなっていく」こと、あるいは「肉体と精神との間に一線を画して生きることの無意味さ」を自覚する営為でもあった)。

(B)芥川龍之介「羅生門」では、荒廃した羅生門の下で飢死をするか盗人になるかという二者択一の逡巡を繰り返していた下人が、楼上における老婆との出会いによって、結果的に後者の行動化を選んでいく。この最後の行動におよぶまでの下人の心理の推移――雨宿りをしていた折の逡巡、楼上の光景 に当初抱いた「六分の恐怖と四分の好奇心」、老婆に立ち向かう際の「あらゆる悪に対する反感」や彼女を制した「安らかな得意と満足」、さらに彼女の言葉を聞いた後の「失望」や「侮蔑」の念とともに再燃する「憎悪」、やがて生ずる「ある勇気」――を追っていくのが、おそらくはオーソドックスな授業展開であろう。ただし、下人にとっての他者(老婆)との出会いが、当座の「引はぎ」行為を正当化するためだけに用意された観を呈し、少なくとも真の意味で自己の捉え返しへと到っていないこと、すなわち、自己を排した表層的な他者への同化といった意味をしか有していないことに留意しておく必要があると思う。

(C)野村雅一「身体像の近代化」は、明治初年の日本人の裸体習俗や身体行動の様式がやがて見られなくなっていくことから説き起こす。それは「風俗の変遷のありふれたひとこま」などでは決してなく、「公権力の民衆の身体への介入」によって果たされた「矯正」や「改造」の過程として把握されている。そして、公権力(明治政府)が企図したのは、いまだ「可視的な共同体」に「脈絡づけられている個人個人を公的な場に引き出すこと」、すなわち、近代国家(より具体的には、近代国家の軍隊)の成員として民衆を組織しなおすことであった。民衆の根強い「着衣への抵抗」を押し切って、他者(公権力)による個々の身体への介入が「日本人の身体の様態や意味に根本的な変化」をもたらしえたとき、それは外的な変化にとどまらず、同時に個々の内面の変化をも促していくことになる。

(9)いま小説に限って言うならば、自主教材の選定に際して、私は次のような点に留意している。無論、不十分な基準であることは否めないが、とりあえず私の現段階として呈示しておくことにする。

(a)生徒たちが楽しむことのできる作品、所謂「国語嫌い」の生徒をも巻き込んでいける作品であるかどうか(のみならず、教室で彼らと一緒に読むとき、私自身が楽しめる作品であるということも重要である)。

(b)その作品が、折々の国語教室の情況(クラスの成員たちが醸し出す雰囲気や集団としての成熟度、それまでに取り組んできた教材等々)を勘案して設定された学期ごと(可能ならば年間)の授業計画の一連の流れの中に、あるいは授業テーマや到達目標の中に、きちんと位置づけうるものであるかどうか。

(c)前記(a)とも関連するが、教師もまた生徒たちとほぼ同じ地平に立ち、ともに作品の読みを紡ぎ出していくことのできる作品であるかどうか。端的に言えば、「教科書」への収載や既存の「指導書」のない作品であること(これは担当教師間で指導案作りを通じて教材論議を巻き起こしたいという、当該学年「現代文」チーフとして足掛け3年になる私のひそかな願いでもある)。

(10)実際のところ、生徒たちの提出した「羅生門」の初発感想をみると、「わからない」とするものがそれなりの数を占める。ただし、そう書き記しながら、彼らは「羅生門」の作品世界が持つ不気味な雰囲気やある種の違和感を捉えてもいるのである。拙稿「高1国語(現代文)の授業・『羅生門』の続編を書く」(『解釈』第39巻第10号、教育出版センター、1993年10月)。





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