梁塵秘抄 巻第二 四句神歌 雑

 
  あそ            うま        たはぶ        むま
 遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん
  あそ  こども   こゑ        わ   み        ゆる
 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ
 
(359)
 

大意……

遊ぶために生まれて来たのだろうか。戯れるために生まれて来たのだろうか。
遊んでいる子供の声を聴いていると、感動のために私の身体さえも動いてしまう。






 『梁塵秘抄』は知らなくてもこの歌なら知っている、というほど有名な歌だと思います。

 この歌を、「遊び」はアソビメ、「戯れ」はタハレメに通じるとして、遊女が子供の声に触発されて、我が身の罪深さを嘆く歌、とする解釈もあるようですが、子供の純真な愛らしさを歌ったもの、として読んでいるのが一般的なようです。

 これは、子供の未来に明かりを垣間見たいと願った、大人の思いなのではないでしょうか。

 人間が遊びや戯れをするためだけに生まれてくるのではないのは、重々承知している。人間はもっと重い、長くて苦しい道のりを歩まなくてはならない存在であるけれど、だからこそ、遊び戯れる子供の声の可憐さに、そのいとおしさに、自分の身体も一緒に動いてしまう。子供が歌っているのを聴けば、一緒に歌いたくなってくる。そんな歌なのではないでしょうか。

 この歌を謡ったのが親にしろ遊女にしろ、子供達が純真に遊ぶ心を忘れずに、健やかに育って欲しいと願う気持ちが、そして、自らもまた、子供の頃の気持ちを持ち続けていたいと願う心がこもっていると考えるのは、うがちすぎた見方でしょうか。


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