寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
  曙町より(二)

 
 先日は失礼。
                                                              れんくさん
 鉄筋コンクリートの三階から、復興の東京を見下ろしての連句三
まい
昧は、変わった経験であった。
                  かご
 ソクラテスが、籠にはいって吊り下がりながら、天界の事を考え
 
た詰を思い出した。
                                                                   ひ
 日が暮れた窓から、下町の照明をながめていたら、高架電車の灯
 
が町の灯の間を縫うて飛ぶのが、妙な幻想を起こさせた。
 
 自分がただ一人さびしい星の世界のまん中にでもいるような気が
 
した。
             つばき
 今朝も庭の椿が一輪落ちていた。
 
 調べてみると、一度うつ向さに落ちたのが反転して仰向きになっ
 
たことが花粉の痕跡からわかる。
 
 測定をして手帳に書きつけた。
 
 このあいだ、植物学者に会ったとき、椿の花が仰向きに落ちるわ
 
けを、だれか研究した人があるか、と開いてみたが、たぶんないだ
 
ろうということであった。
 
 花が樹にくっついている間は植物学の問題になるが、樹をはなれ
 
た瞬間から以後の事柄は問題にならぬそうである。
 
 学問というものはどうも窮屈なものである。
 
 落ちた花の花粉が落ちない花の受胎に参与する事もありはしない
 
か。
                あぶ
 「落ちざまに虻を伏せたる椿哉」という先生の句が、実景であっ
 
たか空想であったか、というような議論にいくぶん参考になる結果
 
が、そのうちに得られるだろう
 
と思っている。
 
 明日は金曜だからまた連句を進行させょう。
 
(昭和六年五月、渋柿)


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