曙町より(一)
先夜はごちそうありがとう。
こ で まり
あのとき、床の間に小手鞠の花が活かっていたが、今日ある知人
の細君が来て、おみやげに同じ小でまりとカーネーションをもらっ
た。
そうして、新築地劇団の「レ・ミゼラブル」の切符をすすめられ
た、ともかくも預かったものの、あまり気がすすまないので、この
ほうは失礼して邦楽座の映画を見に行った。
せっぷん へんしゅう
グレダ・ガルボ主演の「接吻」というのを見たが、編輯のうまい
と思うところが数箇所あった。
たとえば、惨劇の始まろうとする始めだけ見せ、ドアーの外へカ
ざんじ
メラと観客を追い出した後に、締まった扉だけを暫時見せる。
次には電話器だけが大写しに出る。
それが、どうしたのかと思うほど長く写し出される。
これはヒロインの跳削が心理を表わすものであろう。
実際に扉の中で起こつたはずの惨劇の結果――横たわる死骸――
は、後巻で証拠物件を並べた陳列棚の中の現場写真で、ほんのちら
と見せるだけである。
もっとも、こんなふうな簡単に説明できるような細工にはほんと
うのうまみはないので、この映画の監督のジャック・フエイデーの
芸術は、むしろ、こんなふうには到底説明する事のできないような
微細なところにあるようである。
クローズアップのガルポの顔のいろいろの表情を交互に映出する
しかたなどでもかなりうまい。
言わばそこにほんとうの「表情の俳譜」があるように思う。
一度御覧いかがや。ついでながらこのガルポという女はどこか小
でまりの花の趣もあると思うがこの点もいかがや。
新劇「レ・ミゼラブル」は、見ないけれども、おそらくたった一
口で言えるようなスローガンを頑強にべたべたと打ち出したものか
と思う。
少なくとも、これにはおそらくどこにも「俳譜」は見いだす事が
できないだろう、と想像される。
(昭和六年二月、渋柿)