寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
   星野温泉より

 
 一年ぶりに星野温泉に来て去年と同じ家に落ち付いてみると、去
 
年の夏と今年の夏との間に一年もたったという気がどうしてもしな
 
い。ほんの一週間ぐらい東京へ帰ってまた出て来たような気がする。
 
もっともこれは、去年帰るときに子供らをのこして帰り、今年は先
 
に子供らをよこしてあったので往き帰りの引っ越し騒ぎに関与しな
 
かったからでもあるらしい。
 
 しかし、なんだか、東京にいる間は「星野の自分」が眠っていて
 
その間は「東京の自分」が活動しており、星野へ来るとはじめて
 
「星野の自分」が眼を覚まして活動しだしたといったような気もす
 
る。
 
 軽微なる二重人格症の症状とも言われるかもしれない。しかし、
 
たとえばいろいろな月給生活者でも、勤め先における自分の生活と
 
家庭における生活とはやはりある程度までは別の世界であり、その
 
二つの世界ではやはりそれぞれ二つの別の自分があるのでははいか
 
という気がする。
 
(昭和九年八月、渋柿)


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