島崎藤村
「若菜集」より
草枕
夕波くらく啼く千鳥
われは千鳥にあらねども
はね
心の羽をうちふりて
さみしきかたに飛べるかな
若き心の一筋に
なぐさめもなくなげきわび
胸の氷のむすぼれて
とけて涙となりにけり
あしは
蘆葉を洗ふ白波の
いは
流れて巌を出づるごと
思ひあまりて草枕
まくらのかずの今いくつ
かなしいかなや人の身の
なきなぐさめを尋ね佗び
道なき森に分け入りて
などなき道をもとむらん
われもそれかやうれひかや
たにかげ
野末に山に谷蔭に
見るよしもなき朝夕の
光もなくて秋暮れぬ
想も薄く身も暗く
残れる秋の花を見て
行へもしらず流れ行く
水に涙の落つるかな
あさぐも
身を朝雲にたとふれば
ゆふべの雲の雨となり
ゆふあめ
身を夕雨にたとふれば
あしたの雨の風となる
おちば
されば落葉と身をなして
ひるがへ
風に吹かれて飄り
あさ きぐも
朝の黄雲にともなはれ
よる
夜白河を越えてけり
道なき今の身なればか
われは道なき野を慕ひ
思ひ乱れてみちのくの
宮城野にまで迷ひきぬ
やど
心の宿の宮城野よ
乱れて熱き吾身には
日影も薄く草枯れて
荒れたる野こそうれしけれ
ひとりさみしき吾耳は
吹く北風を琴と聴き
悲しみ深き吾目には
い ろ
色彩なき石も花と見き
ひとりみ かなしき
あゝ孤独の悲痛を
味ひ知れる人ならで
誰にかたらん冬の日の
かくもわびしき野のけしき
都のかたをながむれば
ふゆそらぐも
空冬雲に覆はれて
たまあられ
身にふりかゝる玉霰
袖の氷と閉ぢあへり
つよ
みぞれまじりの風勁く
小川の水の薄氷
おと
氷のしたに音するは
流れて海に行く水か
はかぜ
啼いて羽風もたのもしく
雲に隠るゝかさゝぎよ
さむぞら
光もうすき寒空の
なれ
汝も荒れたる野にむせぶ
涙も凍る冬の日の
光もなくて暮れ行けば
人めも草も枯れはてゝ
ひとりさまよふ吾身かな
かなしや酔ふて行く人の
踏めばくづるゝ霜柱
ね
なにを酔ひ泣く忍び音に
声もあはれのその歌は
ね ひ
うれしや物の音を弾きて
野末をかよふ人の子よ
しらべ
声調ひく手も凍りはて
かど
なに門づけの身の果ぞ
やさしや年もうら若く
まだ初恋のまじりなく
手に手をとりて行く人よ
なにを隠るゝその姿
野のさみしさに堪へかねて
霜と霜との枯草の
道なき道をふみわけて
きたれば寒し冬の海
うみべ へ
朝は海辺の石の上に
こしうちかけてふるさとの
都のかたを望めども
なみ
おとなふものは濤ばかり
あらいそ
暮はさみしき荒磯の
うしほ
潮を染めし砂に伏し
日の入るかたをながむれど
湧きくるものは涙のみ
さみしいかなや荒波の
岩に砕けて散れるとき
かなしいかなや冬の日の
うしほ
潮とゝもに帰るとき
誰か波路を望み見て
そのふるさとを慕はざる
誰か潮の行くを見て
この人の世を惜まざる
こよみ
暦もあらぬ荒磯の
砂路にひとりさまよへば
みぞれまじりの雨雲の
うしほ
落ちて汐となりにけり
おと
遠く湧きくる海の音
慣れてさみしき吾耳に
ね
怪しやもるゝものゝ音は
まだうらわかき野路の鳥
嗚呼めづらしのしらべぞと
声のゆくへをたづねれば
はね
緑の羽もまだ弱き
それも初音か鶯の
春きにけらし春よ春
まだ白雪の積れども
若菜の萌えて色青き
へ
こゝちこそすれ砂の上に
春きにけらし春よ春
うれしや風に送られて
きたるらしとや思へばか
べ
梅が香ぞする海の辺に
おほいは
磯辺に高き大巌の
うへにのぼりてながむれば
しののめ
春やきぬらん東雲の
しほ ね
潮の音遠き朝ぼらけ
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