中原中也「在りし日の歌」


   
  曇天


 
  ある朝 僕は 空の 中に、
 
 黒い 旗が はためくを 見た。
 
  はたはた それは はためいて ゐたが、
 
 音は きこえぬ 高きが ゆゑに。
 

 
  手繰り 下ろさうと 僕は したが、 
                         かな
 綱も なければ それも 叶はず、
 
  旗は はたはた はためく ばかり、
        をくが
 空の 奥処に 舞ひ入る 如く。
 

           あした
  かかる 朝を 少年の 日も、
 しばしば                 おも
 屡々 見たりと 僕は 憶ふ。
 
  かの時は そを 野原の 上に、
                  いらか
 今はた 都会の 甍の 上に。
 

 
  かの時 この時 時は 隔つれ、
  こ こ     かしこ
 此処と 彼処と 所は 異れ、
 
  はたはた はたはた み空に ひとり、
         かは
 いまも 渝らぬ かの 黒旗よ。