寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
 夜ふけの汽車で、一人の紳士が夕刊を見ていた。
 
 その夕刊の紙面に、大のあくびをしている写真が、懸賞写真の第
 
一等として掲げてあった。
 
 その紳士は微笑しながらその写真をながめていたが、やがて、一
 
つ大きなあくびをした。
 
 ちょうど向かい合わせに乗っていた男もやはり同じ新開を見てい
 
たが、犬の写真のあるページへ来ると、口のまわりに微笑が浮かん
 
たが、……一つ大きなあくびをした。
 
 やがて、二人は頗を見合わせて、互いに思わぬ微笑を交換した。
 
 そうして、ほとんど同時に二人が大きく長くのびやかなあくびを
 
した。
 
 あらゆる「同情」の中の至純なものである。
 
(大正九年十一月、渋柿)


前へ 次へ
[寺田寅彦] [文車目次]