寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
 彼はある日歯医者へ行って、奥歯を一本抜いてもらった。
                                                                  こう
 舌の先でさわってみると、そこにできた空虚な空間が、自分の口
くう
腔全体に対して異常に大きく、不合理にだだっ広いもののように思
 
われた。
 
  ……それが、ひどく彼に人間の肉体のはかなさ、たよりなさを感
 
じさせた。
                              げ た
 またある時、かたちんばの下駄をはいてわずかに三町ばかり歩い
 
た。すると、自分の腰から下が、どうも自分のものでないような 
 
なんとも言われない情けない心持ちになってしまった。
 
 それから、……
 
 そんな事から彼は、おしまいには、とうとう坊主になってしまっ
 
た。
 
(大正十年二月、渋柿)


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