かなる冬雷

 

第五章  落葉

 

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 母を修二郎に託して、荷物を送り出し、「まも」を阿貴子のアパートに預けて、私は相模原を去った。送別会も何も、私が断ったので無かった。

 阿貴子は、卒業試験、国家試験と続いていて、私を手伝いたくてもできない時期だった。

 風の冷たい、二月だった。栃木に着いたその夜は、私は街道筋に出てモーテルを探して泊まった。淋しく、不安な夜だったが、もはやどこにもあと戻りする場所は無く、逃げるべき故郷もまた無かった。ただ、前に向かって生きるしか無かった。

 あくる日からは、診療所に入り、診療部分、居住部分すべての掃除や点検を始めた。建築後、すでに三十年になり、更に十年以上も掃除されること無く放置されていた居住部分(先の医師たちはすでに宇都宮に移り住んでいた)は、荒れ果てていて、ほこりはうず高く積もり、襖(ふすま)も障子も破れ、床板は抜け、天井板も雨漏りであちこちが腐れ落ちていた。

 

 私は、ただ黙々と掃除を続けた。

 そしてそのあいまに、外来の診療の体制を作らなければならなかった。レントゲンも、心電図も「付属」ということであったが、すべて壊れており、部品も無いどころか、作ったメーカーそのものがもはや存在していないのだった。すべてを入れ換えなければならなかった。

 待合室も診療室も、床板は剥(は)げ、壁も剥げ落ちていた。すべて張り替え、塗り替える必要があった。扉はどこもかしこも、きしんで滑らかには開かず、一度開けば今度はしまらなくなった。待合室の椅子の底は抜けていた。 

 私は、途方に暮れながらも黙って作業を続けた。私には、かつてマモと暮らしたあの東京のワンルーム・マンションを売って得た七百万ばかりのお金しか無かった。どこにも足りはしなかった。すべてはリースとなり、手形となり、どうしても現金で払わざるをえないもの、現金で買わざるをえないものにお金を使いながら、あとは自分ひとりでペンキを塗り、自分ひとりで金槌をふるって、最低限の形を四月一日の開業の日までに作っていくしか無かった。

 

 泥のような疲労に足を取られながら苦闘している時に、修二郎から電話が来た。

 母が腰を痛めて動けなくなってまいっている、何とかしろ、と言うのだった。小平へ来て痛めたのでは無いぞ、お前の所から来る前日に、相模原の家で、猫が粗相(そそう)をしたので腰を曲げて拭いている時に痛めたのだそうだぞ、と、まるで、ろくでもないものを飼っているからこんなことになるのだ、とでも言うような、ひどく尖ったものの言い方だった。俺の責任では無い、お前の責任だ、という訳だった。困っている、というよりも、迷惑している、と言いたげな、荒れた感情が感じられた。

 一体、何をそんなに怒っているのか、と私は思ったが、修二郎の感情など今はどうでもよかった。ただ、直感的に、この苛立って

いる修二郎の家で、母がどんなに身も心も縮めて苦しんでいるだろうと思うと、何があろうと預けたりするのでは無かった、ともに連れてくるのだった、という後悔が突き刺さるように襲ってきた。好きで病んでいる訳では無い母なのに、と、のどもとまで熱いものがこみ上げてきた。

 何とかしろと言われても、離れていては何もできない、母を車に寝かせて連れてきてくれ、と私は言った。修二郎は、乗せていいものかどうか、それがわからないから電話しているんだ、と言った。それでは私にどうしろと言うのか、と聞くと、診にこい、と言った。

 今は、とても行ける状態では無い、四月一日開業は、この地の人々に対する私の約束だ、何としても、間に合わせなければならない、行きたくとも行けないから連れてきてくれ、と言うと、とても痛がって乗せられる状態では無いから言っているんだ、たったひとりの

 母親をも診にくる時間が無いと言うのか、と尖(とが)っな言い方で言い続けた。では、その、たったひとりの母親を、看病しきれないから何とかしろと、言っている自分は何なのだ、と言葉に出かかったが、それを飲み込んで、私は言った、何としても今は行けない、しかし母に聞いてみてくれ、どんなに痛くても利夫の所まで乗っていくか、と聞いてみてくれ、そうすれば、母は必ず「行く」と言うと思う、母に聞いてみてくれ、と。

 聞くだけは聞いてみる、となお不快さを隠さないで、修二郎は電話を切った。

 そして、母は、勿論、私の所へ来ると言った。修二郎は、ひどく憮然(ぶぜん)とした顔をしながら、母を送ってきた。私は、玄関の横の部屋だけを大急ぎで掃除し、畳を拭き、障子を張り替え、布団を敷いて、母を待っていた。

 

 わずか十日余の間に、母は、病い以上の何かに焦衰し切って、暗い顔で、抱きかかえられるようにして、入ってきた。そして、布団に横になるとすぐ私に言った。

「心配かけて申し訳なかったねえ、ほんに仕様のない、やくざな身体でねえ」
と。

 私は、頭を振った。何も言わなくても、私たちは、わかり合っていた。
 修二郎夫婦は、ひとまわりあたりを見て、では頼んだぞ、と言ってすぐに帰っていった。

 

 私は、開業に備えて揃え始めていた注射や内服薬や、坐薬や湿布で、母の治療をし、母の食事を作り、着替えをさせ、洗濯をしながら、なお限りなくある開業のための作業を続けていった。もはや他の居住部分に手を入れる時間的余裕も金銭的余裕も無く、私は母の布団の脇の狭い空間に自分の布団を敷いて寝た。 

 三日ぐらいすると、母の腰痛は軽くなり始め、風呂好きの母がもう随分と長く風呂に入っていないことを聞いて、私は、母を抱きかかえて風呂に入れた。 

 母は、涙ぐんて何度も何度も礼を言ったが、礼など必要無かった。母とともに生きる、と決めた私にとっては、すべて当然のことだった。むしろ、母にしてやれることが沢山あることで、私は幸福だった。母のおむつを洗いながらでも、私は幸福だった。今、子供のように、すべてを私に委ねてくれている母の心がうれしかった。 

 やがて、いろいろのことをやり終えて、阿貴子が来てくれた。「まも」も、車に長時間乗せられたことに腹を立てながら、入ってきて、ひとしきり私に文句を言い、それから母の枕元に行った。 

 母は、「まも」を見ると、大喜びをして、
「まも、まも、お前も来たのかい、よかった、よかった、お婆ちゃまが腰を痛めたのはお前のせいじゃない、私が不注意だったからだ、お前は叱られなくていいんだよ」と言った。

 これで、みんな揃って暮らせるんだねえ、阿貴子さんも来てくれたし、もう安心だ、阿貴子さん、厄介ばかりかける年寄りですが、どうぞよろしくお願いいたします、と阿貴子の手を握りしめて言った。

 

 こうして私たち三人、いや、四人は、形式的な祝いも何も無く、定まっていた自然の道の如くに、この栃木の地での生活を始めた。

 阿貴子は、くる日もくる日も、掃除をし続けた。襖(ふすま)や障子を張り替え、カーテンを取り付け、やがて、二階の一番日当たりの良い一部屋を、母の居室にしたて上げた。
 階下は一日中、日が射し込まなかったが、二階のその部屋は、日が当たり、明るかった。
 幅一問ばかりの廊下がベランダ風になっていて、部屋に布団を敷き、廊下にソファーを置くと、母は喜んで寝たり起きたりし、気が向くと、ソファーに座って日光浴をしながら、ふくらみ始めた木々の芽や、外を通る人々の姿を眺めていた。

 母の腰の痛みもやわらぎ、たどり着いた日のあの焦衰しきった表情も消えていた。再びふっくらとした母の心が蘇ってきていた。

 

 どうなるものか、訳もわからないうちに、四月一日の開業の日が来た。
 事務員は二人、前医のもとで働いていた年老いた二人の女性に、私はお願いして働いてもらうことにしていた。看護婦は阿貴子ひとりで、診療の介助と、母の世話、食事、洗濯とすべてをしなければならなかった。 

 その日は、結局、三十人ほどの患者さんが来られた。

 昼、母の所へ上がっていくと、母は、ソファーの上に正座して、帰っていく患者さんのうしろ姿に手を合わせていた。私を見ると、
「良かったねえ、良かったねえ、仕事が始められて、皆様が来て下されて、本当に良かったねえ。きっと、ここで生きていけるね、お前も、私も、みんな一緒に生きていけるね。私はね、ありがたくて、朝から、おいでになる方々に、手を合わせていたの」
 と言った。何も、細々(こまごま)としたことを問いもせず、言いもしない母であったが、この見知らぬ、誰ひとり知る者とて無い土地で、どう生きていくことになるのか、という不安もあれば、まして自分のような重荷を背負って、というすまない気持ちもあったのであろう、母の声は本当にうれしそうだった。 

 日を追って、徐々に、仕事は忙しくなり、昼食の時と夜のひと時しか、母と過ごす時は無くなっていったが、それでも、私が母の枕辺に取り付けたインターホンで呼べば、いつでも来てくれる所に私たちがいるということや、阿貴子が、わずかの時間を割いては上がっていって、声をかけてくれることで、母は、安らいでいた。 

 当所は、三度の食事を運び上げていたが、一緒に食べる方が楽しいであろうと、私は、母を抱いて階段を上がり下がりした。小さなトイレは二階にあったが、風呂は階下であったので、夜の入浴の時も抱き下ろし、また抱き上げた。 

 それでも母は、持前の意志の強さで、自分で二階の廊下を杖をついて歩く練習を重ね、ある日、はらはらする私の手を振り払って、片手に杖をつき、片手で階段に取り付けた鉄棒につかまって、自力で階段を下りた。そして台所の阿貴子の所へ行って、阿貴子さん、

阿貴子さん、私は自分で階段を下りてきたんだよ、偉いもんでしょう、と得意気に言った。まあ、本当ですか、と阿貴子は目を丸くした。

 階段を上がるのはまださすがに大儀で、その時は、私が抱き上げたが、母は更に頑張ってとうとう階段を上がるのまで自力でするようになった。修二郎の所から帰ってきて、わずか一ヶ月しかたっていなかった。

 ああ、この人は、こうやって、いろいろのものを乗り越えてきたんだな、と私は改めて、母のかぼそい身体のどこかに秘められている強靱な生命力と意志のカを思い、感嘆した。

 

 母の、壁を設けない心のあり方に対して、阿貴子も優しく母に接し、何を話し込んでいるのか、二階へ上がると、いつもなかなか下りてこなかった。

 私が、一日の仕事に疲れ果てて下で横になっていると、母が下肢の神経痛の痛みを訴えていると伝えてきたりして、私がおっくうそうに注射の指示だけを与えると、自分がするのはかまわないが、あなたがして上げたら何倍も効くでしょうに、と言うような表情をし、その表情に負けて、私は結局は上がっていくのだった。

 母は、一日中人間を相手にしている私の、疲労に対する思いやりもあったのであろう、何でも阿貴子さん、阿貴子さんと言うようになり、その分、私はある意味では楽になり、ある意味では淋しくもなった。

 そして、「まも」もまた、この新しい土地で「恋人」を見つけたらしく、母にまつわりつくのをやめ、外の世界で過ごす時間が多くなっていった。

 私たち四人の生活の時間は、互いに互いの心のリズムを大切にし合いながら、しかし、しっかりと寄り添い合って、静かに流れ始めていた。 

 

 遅めだった桜も散り、木々の若葉が、柔らかな緑で家を包み始めたある日、東京の妹、祥子(しょうこ)から電話があった。

 母を置き捨てて出ていき埼玉の蕨に住んでいる父、史郎が、この数日、毎日のように祥子の所へ電話をして、お前は利夫の行き先を知っているはずだ、言え、言え、と怒って責めたてている、と言うのだった。

 利夫ちゃんが、言うべきだと思えば言っていったでしょう、言わなかったとすれば、言わなかっただけの利夫ちゃんの心の理由というものがあった訳でしょう、たとえ知っていても、私の口からは言えないと答えたのだけれど、朝に夕に、電話で責めたてられて閉口しているの、と言った。

 私は、お前の言う通り、言わなかったについては、私なりの理由がある、あるけれども、それでお前を苦しめる訳にはいかないから、私のこの場所は言って良い、あとは、私と彼との問題だから、と言った。 

 私は、母を捨てて出ていった父、史郎の生き方を、もとより肯定はしていなかったが、それでも、彼が、「第二の人生」なるものを生きたいと真に思っているのであれば、その動機に不純なものが仮に混じていたとしても、もはや仕方の無いことと思っていた。

 ただ願わくは、今こうして、淋しくはあろうがようやくに、心に平安を得つつある母の心に、これ以上は触れず、利用したり苦しめたりせず、自分の道を生きていってもらいたいと思っていた。その結果としての、彼の道の果てが、どこでどのようなものとして終わろうとも、「父」であった人として、「骨」は拾ってやるつもりでいた。 

 しかし、相模原での正月を過ごした後の数日を、母が修二郎に招かれて連れていってもらった時のことであった。修二郎は、走り出してから、母に、父ちゃんの蕨の家ってどんなもんか、まわっていってみるかね、と言ったという。母は、そうだね、と言い、車は進路を変えて、蕨に向かった。

 そのことを、帰ってきた母から聞いた時、私は、修二郎が何を考えてそんな余計なことをしたのかと、悲しかった。せっかく今、心を洗い直して生きようとしている母に、いったい何を見せようとしたのかと、昔から優しくはあっても他人の心の微妙なひだに対しては少し見えない所のある修二郎のやり方に、憤りをさえ私は感じた。

 そしてそこで母は、父、史郎が再び蕨の地で始めている「第二の」、しかし相も変わらぬ「腐朽した人生」に触れることになったのだった。

 史郎はその折、不在で、玄関のドアには鍵がかかっていた。修二郎は、その時でも、それで帰れば良かったのだ。それを、わざわざ大家の八百屋の所へ行き、鍵を借りてきて、中に入った。本当に母に何かを見せたかったと言うより、それは、母を口実にして自分の好奇心を満足させる行為でしか無かったように思えて、私は不快だった。どんな人間にでも、侵してはならないプライバシーというものがあるはずでもあった。

 何がそこに物としてあったというのでは無いのだろうが、母は、女の直感で、その部屋に女の匂いをかぎとった。その時、玄関のチャイムが鳴り、修二郎が出て見ると、若い女が立っていて、名乗りもせずに、おじいちゃんは、と聞いた。不在のようだが、と答えると、あなたはどなたですか、とその女は修二郎に言った。修二郎は、腹を立てて、私は松井の息子だが、そういうあんたこそ誰なんだと言うと、隣りに住んでいる者でいつもお世話になっている、また来る、とそそくさと立ち去った。母は出ていかなかったが、そのやり取りを聞いていた。母は、不快な心のままで修二郎の家へ行き、数日の滞在をして帰ってきて、私にそのことを語った。

 行かなくてもいい所に行ったばかりに、見なくてもいいものを見、聞かなくてもいいものを聞いてしまった、と母は爪をかんでいた。

 私は、余計なことをした修二郎に腹を立て、母にも腹を立てたが、何よりも、父、史郎に対しては、もっと腹を立てた。

 相模原へ、「第二の人生」なるものの言い訳に来た時に、私は、父、史郎に、あなたは中国語、中国語と言って生きてきたが、自分のかつての中国に対するかかわり方の誤りを償うためにも、中国の残留孤児や、帰国した人々のための、ボランティアに自分を捧げたらどうですか、と言ったのだった。しかし、今、現実の彼の「第二の人生」なるものが、相も変わらぬ妄執的な欲に染まったものにしかなり終わっていないのならば、もはや、何も言うことは無かった。

 

 相模原を出立する前夜、母も「まも」もいなくなった部屋で、私は、父、史郎に、別れの手紙を書いた。長い間、育ててもらったことには感謝しているが、あまりにも耐えがたいと思うことのみが多く、それらすべてを「過去」として流すとしても、今、この時に、相も変わらぬ愚をくり返していることに、怒りを覚えること、しかしもはや裁きもしないが、今後、再び、私の世界にも母の世界にも立ちまじってもらいたくなく、今、行方を告げずに、母を連れて去ること、を書き、私は深夜の町へ歩いて出て、投函した。 

 それを受け取って、すぐに狼狽したり、怒ったりして、私たちの行方を探し求めた、と言うのであれば、これはまだ理解ができた。しかし、こうして騒ぎ出すまでに、二ヶ月という時間経過があった。これが、わからなかった。この二ヶ月という「空白」が、私を惑わせた。初めは立腹したが、しかし、やましい所の無い人間として誇りを持って毅然として生きようとしてきたが、寂蓼(せきりょう)に耐えられなくなって祥子に電話した、と言うのならば、それはそれなりにわかった。しかし、父、史郎は怒り狂っている、と言う。これがわからなかった。わかろうとすれば、ニケ月余、怒り続けて遂に爆発したと言うことなのか、それとも、最初に見捨てられた寂蓼があって、それが徐々に怒りに変わってきたと言うことなのか、と考えるしか無かった。しかし、そのどちらでも無いようにも思えた。 

 このニケ月という空白の時間の意味も、祥子に当たりちらしていたというその感情の意味も、……今日にいたるまで私には理解できないままできてしまっている。なぜなら、何であれ、怒り狂って来るのなら、それも問題がはっきりしてよかろう、と思って、祥子に、告げてよい、と言ったその翌日に、父、史郎は、卑屈な、おずおずとした表情で私の所へやってきたからである。それは、意味不明の訪れ方であった。

 

 丁度、昼食を私たち三人でとっている時であった。彼は入ってきて、ばつが悪そうに
「やあ」と言った。……
「やあ」とは何だと私は、むかっ腹を立てて返事をしなかった。
「祥子にでも聞いてきたのかね」と母が苦い表情で言った。
 阿貴子がとりなすように、お食事は、と聞くと、まただ、と答えて、阿貴子の揃えたものを平気な顔で食した。そして、もの言わぬ私を避けるように、わざとらしく、振り払う母の手を引くような真似をしながら、母について二階へ上がっていった。 

 彼が母に何を言い、母が何と言ったのかは、本当の所わからない。ただその日から、彼は、私に怒りもせず、詫びもせず、説明も、釈明もせず、すがりもせず、何もせずに、そのまま居座った。 

 食事の時以外は、私と顔を合わすのを避けるように外に出て、近所を見てまわったりしていた。私は、爆発しそうな気持を何とか抑えながら、どこまで黙ったまま居座る気なのか見ていてやろうと思っていた。私は、母のあいまいな態度にも腹を立てており、二階へも上がっていかず、食事の時も、沈黙していた。 

 三日ほどした夜、彼が入浴しているすきを見るように母は下りてきて、私たちの部屋に入ってくると、悲しそうな顔をしながら、
「父ちゃんは、お前に何か言ったかえ」
 と言った。私は、何も聞いていない、と答えた。

「やっぱりね。……どういう考えなんだろうね。私は言っているんだよ、お前さんはいつもの根性で、ずるずるとこのままここに居座るつもりなんだろうが、そんな卑怯なことは私が許さない。詫びるなら詫びる、そして、頼むなら頼むで、きちんと、自分から利夫に話をしてからのことにするのが、人間としての筋だろう、って」

 私は、母さんは余計なことを言わないでいい、子供じゃあるまいし、筋がどうのと、いちいち言ってやらなければならないようでは、話にも何にもなりはしない、私は、黙って、いつ何を言ってくるのか見ているんだから、と言った。 

 阿貴子ひとりが、かろうじて接着剤になっている、この何とも説明しがたいゆがんだ「生活」が五日目に入り、私の忍耐も限界に達した時、そんな私の嵐の空気を察したかのように、彼は、台所にひとり座って見ることもなくテレビを見ていた私の所にやってきて、立ったままで、これ、わずかだが、開院の祝いに、おれと母ちゃんから、と言って金包みを差し出した。

 私は、それにちらりと目をくれただけで、触れもせず、黙っていた。すると彼は、なお立ったままで、お前に話があるんだが、と言った。立ったままで言えることなのかね、と私が言うと、彼は腰を下ろした。そして、俺はここで暮らさせてもらいたいんだが、と言った。

 私は、なぜ、ここで暮らしたいのか、と問うた。

 彼は、答えた。ここは、空気も良く、山も近く、川もあって魚釣りできるし、俺の健康にはよい所だと思って、と。

 

 私は、唖然とし、それから憤怒(ふんぬ)が噴き上げた。俺の健康によいだと? あんたの健康なんか知ったことか。川があって釣りもできるだと? あんたの遊び呆気(ほうけ)た人生なんか、へどが出るようなもんだ。空気がよい? 山が近い? それが、私たちに何の関係があると言うんだ。いったい、母さんはどこへ行ったんだ、母さんともう一度一緒に暮らして生きていいきたい、というひと言はどこにも無かった。私は最低限、その言葉だけを待っていたんだ。それが無かった。私と一緒に暮らしたい、これも無かった。空気と、山と、川と、魚と一緒に暮らしたいのなら、その辺の野原で勝手に暮らせぱいい、私の知ったことではない。しかし、この家で暮らす、と言うことは、母さんともう一度暮らしたいというあんたの心があり、そして、それを認める母さんの心があってのみ、初めてありうることだ。

 しかし今、母さんのことは、ひと言も無かった。許せない。…… 

 彼は、傷ついた顔はしなかった。自分の心のあり方そのものの誤りに気づいての愕然とした表情は無かった。あったのはただ、しまった、という顔でしかなかった。うまく言いそこねた、という自分の「失敗」に一瞬うろたえた表情しか無かった。

 いや母ちゃんと暮らしたいのは勿論だ、この家で暮らしたいという以上当然そうなる。ただ俺は、……と言い訳を始めたが、それは私の怒りを一層募(つの)らせるだけだった。

 当然そうなる、とは何という言い草だ。人を馬鹿にするものではない。何かの自然現象の話をしているのではないんだ。人間の、ぎりぎりの選択、ぎりぎりの所での回心に基づいた覚悟の話をしているんだ。母さんを捨てて出ていったた人間が、今さらここに来れた論理を、言ってみてくれ。私が決別の手紙を送ったのは、二ヶ月前だ。今日までの、この二ヶ月の、沈黙の意味は何だ。言ってみてくれ。息子にいわば勘当されて、面子(めんつ)が傷ついたと言うのなら、その大事な面子とやらを死守して生きてみたらいいではない。悲しく、淋しかった、と言うのなら、すぐにでも探し求めるのが人情ではないか。この二ヶ月の空白の意味は何だ、言ってみてくれ。それとも、この二ヶ月間、私という金づるの息子を失うことと、女や何かの関係を失うこととの「損得」を勘定しながら費やしていたというのか。いったい何なのだ。決別の手紙を出してしまいながらも、私は、そんなことをしてしまった自分の狭量を自ら責め、苦しんできてもいた。何か言ってくるであろうことを待っていたと言ってもいい。そんな人間の心というものを、何だと思っているんだ。空気がよく、山が近く、川もあって釣りができ、俺の健康によい、とは何ごとだ。あんたには人間の心がない。化け物だ。……と私は、火を噴いて、言い募った。 

 私の大声を聞きつけて、母は、杖をつきながら、階段を下り、転ぶように息を切らせながらやってきた。頼むから喧嘩はしないでおくれ、父ちゃんいったい何を言ったんだ、と言った。

 喧嘩しているんじゃない、喧嘩するうちは人間同士だ、救いもあろうが、こんな男は人間だとは思わないんだ、と私は言った。

 いったいこの人は何を言ったんだ、となお母が言い、私は、こう言った、こんなことしか言わなかった、どこにも母さんのことは無かった、それが私には許せない、と言った。

 母は絶句したが、彼はくどくどと母に取りすがるように言い訳をし、どんなに俺が反省しているかは、お前に言って、お前は勘弁すると言うてくれたはずだ、利夫に言い方の悪かったのはあやまるから、お前からもとりなしてくれ、と言った。

 私はさらに怒った。言い方が悪いとは何だ、ことは言い方どうこうという技術の問題か、心があって言葉が出てくるんだ、私は、そういう言葉しか出てこないあんたの心のありようを言っているんだ、と。

 そして、遂に私は、母に対しても、積もっていた怒りをぶつけた。だいたい母さんが、結局はいつも耐え忍ぶからこの男はつけ上がって、母さんを盾にして生きてきたんだ、母さんがいけないんだ、母さんに反省して詫びたと言っているが、それは本当のことか、と私は言った。 

 母は、苦しげな表情で答えた。詫びは聞いた、でも反省どうこうは、私にはわからないと。 

 それ見よ、母さんだって信じちゃいない、誰があんたの口先なんか信じるものか、と私が言うと、彼はなおも母に向かって、でもお前は許してくれたはずだ、勘弁すると言うてくれたではないか、とすがった。

 母さん、母さんと、母さんを盾にするのはやめろといっているんだ、何で私に向かってまっすぐに物が言えないんだ、説得できるものがあるのなら、私を説得してみよ、と私は言った。

 すると彼は、お前を説得なんかできない、俺はただ頭を下げて願うだけだ、としおらしげに言った。

 そんな心の底の見えすいた、しおらしげなもの言いで、私がほろりとするとでも思っているのか、私は、五十年もあんたを見てきたんだ、馬鹿にするんじゃない、と私の怒りは鎮まらなかったが、私は、母に、本当に、勘弁すると言ったのかと問うた。母は、うん、と言った。

 反省しているかどうかはわからない、としながらも、それでも、勘弁すると言ったのか、と更に問うと、母はもう一度、うん、それでも言った、と答えた。

 私は、めまいのようなものを感じながら、言葉を失った。なおも彼は、くどくどと弁明をしていたが、私はもう聞いていなかった。そして、考え続けていた、なぜですか母さん、なぜですか、と。……

 そしてやがて、悲しみのうちに思った。そう、母は、たしかに言ったのであろう、うん、勘弁するわね、と。それが、母の生涯だったのだ。裏切られ、汚され、だまされ、奪われ続けながら、母は、結局は、勘弁し続けて生きてきたのだ。その勘弁し続けてくれた母をまたも汚して、捨てて出ていった男を、今また、もう一度、母は勘弁してしまったのだ。

 この「勘弁」が、母のなお引きずる愛執のためなのか、愛執を越えての慈悲なのか、私にはわからない。善しとも悪しとも、私は多くのことをなお叫びたいが、これがいま一度の母の意志であり、母の選択だと言うのならば、私には何も言えない。…… 

 私は、枯れた声で言った。母さん、本当にいいんですか、と。

 母は、お前が許せるなら、置いてやっておくれ、と言った。母さん、違うでしょう、私が許せるなら、ではないでしょう、母さんが許せるなら、でしょう、そして、母さんは、結局また許してしまったのでしょう、どうしてなんですか、と私はなお心の中でつぶやいていた。怒りも、悲しみも、今はもう、砕け散ってしまっていた。 

 私は、金包みを彼に返した。あんたからは、一銭たりともらう気は無い。私は、母さんを守ってこの地で生きる道を、自分の精神力と阿貴子の助けによって切り開いてきた。あんたにとっては、医者は所詮、いい「商売」なんだろう。しかし、私にとっては、違う。

 それは「人々」に対する私の交わり方、「人々」とともに生きる私の生き方であり、人間について学んでいく私の道すじなのだ。私の気持を汚さないでくれ、と私は言った。

 彼はなおも、母ちゃんと俺の心ばかりの開院祝いだからと言ったが、私は、母さんからの祝いは、日々に、十二分に心でもらい続けている、どうせ母さんに言われてしぶしぶ出すことにしたあんたの金など、一銭たりと受け取る気は無い、母さんの名前を軽々しく使うな、と言って席を立った。 

 

 

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