かなる冬雷

 

第五章  落葉

 

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 十月も終わり近いある日、昼休みに二階へ上がって行くと、母は、自分に与えられているタンスの引き出しを開けて、何やらごそごそと奥の方から引っ張り出していた。

 何をしているの、と聞くと、うん、これ、と言って、郵便局の通帳と印鑑を私の前に差し出した。

 お前から折々にもらった小遣いや、国からもらった年寄りの年金の残りやを修一郎に頼んで積んで貰ったり、おろして貰ったりしていたのだが、「普通」というのと、「定額」というのとが一緒になっていて、その「定額」というのもおろしてしまったのもあるし、いったい今、全部でいくらあるのかわからない、お前、面倒でも、局に行って、この「定額」とかいうのを全部無くして、わかりやすく、普通預金にまとめてもらってきておくれ、と母は言った。

 私は、母の気のすむようにしてやろうと、近くの郵便局へ行き、全部、普通預金にまとめてきた。八十七万円ちょっとであった。これが、八十七歳まで生きてきた母の貯金のすべてであった。

 子供の積立貯金のように、何千円かずつの営々たる積立があり、そして、年に二、三回の三万円、五万円といった預け入れがあり、また、年に二、三回の三万円ばかりのまとまった引き出しがあった。その日付を見ていると、備忘録のように、私がわずかに小遣いを送った日、東京へ出てくるために引き出した日、お盆に佐々木の実家の墓前や、長福寺の吉川(きっかわ)和尚の残っておられる御家族に包む御香料のために引き出した日、と母の心のカレンダーが見えてくるようだった。

 母は、自分自身のためにお金を使う、ということは無かった。すべて、人に与えるため、霊前に捧げるためにのみ使ってきた。私の所に滞在していても、孫たちが来ると聞けば、いつも大急ぎで布団の下から財布と小さい祝儀袋を取り出して、千円ずつ詰めて、与える用意をしていた。それを見てからは、私はいつも、千円札を十枚、二十枚と揃え、小さい祝儀袋を買ってきて、一緒に母に渡していた。母は、律儀に、両替だから、と言って一万円札をよこそうとしたが、私は笑って受け取らなかった。

 私はねえ、孫たちに小遣いをやるのが楽しみなの、みんなニコッとして、ありがとう、って言ってくれるでしょう。あの笑顔が私は好きなの。私のお金の使い道なんて、あとは、父様 (ととさま)や母様(かかさま)の仏前にお供えしておくれって修一郎に託したり、吉川(きっかわ)さんの御長女が長福寺にいなさるから、歩けた頃は、お盆になると墓参りに行ったついでに、一万円包んで持っていって、吉川さんの御恩には何もお返しできませんが、どうぞ、これでお孫さんたちに何か買って差し上げて下さい、と言って置いてくるのだった。そのお金も、ある年は、どうしても五千円にしかならなくて、五千円だけ置いてきたこともあった。

 父ちゃんは、他人(ひと)ごとみたいに、いつでも見て見ぬふりで、……あの人はね、吉川さんが亡くなられた時でも、御香典ひとつ、差し上げに行かなかった人だ。孫たちにこれで小遣いをやるがいい、と言ってお金をくれることも無かったし、何度がはあえて言って見たこともあったけれど、一万円、二万円を、仕方なく投げるようにしてよこす、その立ったまま乞食に投げ与えるようなよこし方もいやだったし、こんな心から出たお金を与えては、純真な孫たちの心まで汚すことになる、と思って、もうある時期からは何も言わなくなった。

 本当に、考えて見れば、私は、着物一枚、足袋一足、あの人から買ってもらった覚えが無いが、それでも、母様(かかさま)が、お前が幾つになっても着られるようにって、若い時から地味な着物を何枚も作って置いてくれなさったから、別に買ってもらわなくとも、何とかやってはこれた。それに、お金は、お前が何かにつけてくれたし、どうしても無い時は修一郎が貸してくれたし、施すような気持ちの人間からはもらわなくてもやってこれた。それに、わずかとは言え、今は、お国の方から年寄りの年金というものを下さる。私は、ありがたいと思って受け取っているよ。

 母は、そう言ってから、通帳を開いて見て、おやまあ、八十万円もあったの、驚いたねえ、私は、生涯でこんなに大金を貯めたの、初めてだよ、と本当にうれしそうに言った。

 あくる日、母は、今度は阿貴子に頼んで、その郵便貯金を、何百円という半端だけを残して、全額引きおろさせた。そしてその夜、私の前にそのお金を差し出した。このうち、半分はお前にやる、何の財産分けもしてやれず、開業の手伝いひとつしてやれなかった私の気持ちだ。そうして残りは、あとの六人の子供に、このように分けてやってくれ、私の生きているうちにやれる最後の遺産だ、と言って私に一人一人への配分を書いた紙をよこした。

 母の顔は、明るく、晴ればれとしていたが、私は驚いた。

 他の子供らの分はともかく、私はいらない。私は、母さんと暮らせたことが何よりもうれしいんだ。母さんの心の遺産は、多分どの子供よりも沢山に、あまるほどに貰っている、と言ったが、どうしても受け取ってくれ、と母は言った。

 私は、その夜は、それ以上は逆らわず、わかった、一応預かる、と言い、次の日、若干のお金をつけ足して、新しい百万円の貯金を作って母に渡した。

 そして、母さんの気持ちはよくわかった、母さんに何かあれば、必ず母さんの言った通りにするから心配しないでいい、とりあえず貯金は戻して置いたから、うんと長生きしてね、と私は言った。

 母は、生きているうちに、みんなにやって置きたかったのに、と残念そうに言い、また、急に私が死んだら父ちゃんがこれをどうしてしまうかと心配なんだよ、と言った。

 大丈夫だよ、私は知っているし、阿貴子も知っている、二度と変なまねはさせないから、大丈夫だよ、と言うと、母はやっと安心した様子で通帳をしまった。

 

 父ちゃんがこれをどうしてしまうかと心配なんだよ、と言う母の意味は私にはわかっていた。母は、ある夜、私に語ったのだった。……

 

「私が今でも悔しくて仕方が無いのはね、亡くなった父様(ととさま)が私の生命保険を入れて置いて下さったのが、豆腐屋をしている時に、満期になった。三千円というお金だ、それは終戦後の貨幣価値が下がった時期だと言っても、大きな金額だった。

 それを私は、水原の第五銀行へ、そっくり積んだ。私が生まれて初めてした貯金というものだった。金額がどうこうというよりも、父様から頂いた形見の様な気がして、私はうれしくて、あの頃はまだ戸籍も入れてもらえていなかったから、父様の作ってくれた『佐々木りょう』の実印で入れたんだ。私は跡取りだったから、佐々木りょう』と、苗字も入った実印だった。

 それを、あの人はなんと、私に黙っておろし、黙って使ってしまった。

 私は、あの時は、本当に腹が立って、大喧嘩をした。そうしたら、豆を買う金が無かったから、おろして豆を買うた、とそう言った。

 豆を買うた、と言えば許されることか、なぜ、それならそうと私に言わなかった、それに、私の判こでなくてはおろせないはずなのに、どうやっておろしたんだ、って私は言った。

 そうしたら、なあに、俺はお前の亭主だ、かかあの貯金を亭主がおろすんだ、松井の判こで足りるから、俺のでおろしたんだ、とこう言った。 

 親が一所懸命に働いて、当時としては破格の生命保険の掛け金を入れて置いてくれた、それが満期になった、そのお金だ、父様の愛情だ、意味のあることに使わなければ罰(ばち)があたる、私はそう思って銀行に貯金をしたんだ。それを、勝手におろして使ってしまった。それで本当に、豆なんか買ったものか、岐阜にでも送ったものか、それもわからない。仮にあの人が私の実印を持ち出していったにしても、大金だ、本人の私にたしかめるのが筋ではないかえ。本当に私は、無念で腹が立った。恨む筋は違うかも知れないけれども、以後、私は、第五銀行のことは信用せず大嫌いになったし、貯金とか、判ことかいうものは、たとえ実印であっても、信じてはならないものと思うようになってしまった。

 勿論、それは、父、史郎が、母の実印を盗み出して、おろしたに決まっているし、豆などに使われたものでないことも自明のことだった。史郎という人間が、そういうことをする、ということには全く何の「違和感」も無かった。ああ、やったんだな、とごく自然に納得できる、そういう人間なのだった。

 

 愛とは、人に分別を失わせるものだ。大なり、小なり、確実に。

 私は、母が父に添うた道の初めには、少なくとも愛があったのだと信じたかった。その証しを求めて、私は、遠い遠い記憶をまさぐり、さらには、記憶以前の過去へと遡っていった。それは、ほとんど、母の卵子を通して私に伝えられた「真実」を、原子のすきまの中に探し求めるようなことだった。しかし、ほのめくものがあったとしても、それはどこまでも、母の愛であって、父、史郎の愛ではないのだった。私は、母のためには嘆き、私自身のためには憎むしかなかった。愛によって孕(はら)まれたのではない自分の生命など、呪われた存在であり、きれいに抹殺したかった。私にとって、死は、原罪の如くにその端緒において担わされた汚濁への贖罪(しょうくざい)として、いつかは果たさなければならない決着として、いつも心の中にあり続けた。

 ひるがえって現実に立ち戻り、なおもあがくように、現実の父自身に、母とめぐり会い、生きてきた道程を問うたこともあった。しかし彼は、ほとんど何一つまともに答えなかった。それを執ように「問う」子供の心の中に何かの悲しみがあり、それを地獄の怨念にと化さしめずに救いうる者がいるとすれば、それはまさに自分なのだ、という自覚を遂に父は持つことが無かった。強いて、母の語った「事実」について問えば、すべてが、否定された。すべてが、母の「妄念」であり、母の「悪意」の表現であり、彼にとっては「冤罪(えんざい)」だという訳であった。

 この、祖父が母に残したお金の話にしても、全く知らない、のひと言であった。真実は「藪の中」にある、という訳であった。

 愛とは、人に分別を失わせるものだ。しかし、それ自体をもって、人の幸、不幸をは語れない。幸、不幸とは、人が失った分別を取り戻した時に、そこに何を見るか、ということにあった。母の見たもの、見続けたものを思う時、私の心は、修羅(しゅら)の心となって、荒れ狂いながら、……涙を流していた。

 数日後、母は、ふと私に問うた。

 人間というものは、死ぬ時は、やはり苦しむものかねえ、と。

 私は、即座に答えた、苦しまない、と。

 神様は、人間が苦しまないで死ねるように、死ぬ前に、先に意識が眠るように作って下さった。人が苦しむのは、その死を「理不尽」と思い、生に執着してあがく時だ。生を全(まっと)うしたことを知っている人問は、苦しまない。傍(はた)から見て苦しそうに見えても、その人はもう苦しんではいないのだ。魂はもう先に救われていて、抜けがらになった身体が苦しそうに見えているだけなのだ、と。

 母は、そうかい、苦しまないでいいのかい、良かった、良かった、と言った。苦しんで醜い姿をさらすのかと、それだけをずっと心配し続けてきて、それで実は死ぬことが怖かった。今、大勢の人の死を見守り、見送ってきたお前からそれを聞いて、私の心の霧が晴れた思いがする。そうだね、父様も、母様も、思い返して見れば、みんな静かに消えていくような亡くなられようだったね。

 生を全うしたかどうかということは、長さではなく、内容だ。そして、その内容というものは、多分、自分で判断するものではないんだろうね。お前はよう生を全うしたと神仏が見て下されば、最後の苦しみの前に、もう魂を救って下さるんだね。私たちはただ、最後の日まで、一所懸命に生きて、良くも悪くも私の生はこれだけのものでございましたと、包み隠さず自分をお見せすることでいいのだね。ありがとう、今、初めて私は、死ぬことが怖くなくなった、と母は言った。

 

 その数日後、私と阿貴子が二人でとりとめのないことを話しながら、遅いテレビを見ていると、コトン、コトンと母の杖の音がした。時計を見ると、もう午前一時近かった。どうしたのだろうと思ってドアを開けると、母が笑顔で入ってきた。

「眠れなくてね。まだ、お前たちが起きているのなら、もう一度、顔を見てから眠ろうと思ってね」

 と言って、ソファーに横になり、私と阿貴子に、いろいろと大変だろうが、力を合わせて、一緒に働き、いつまでも仲良く、一緒に生きていくんだよ、と言った。

 そして、こうも言った。一緒に、ということは、絶えざる努力を必要とすることのようでもあり、また、ある人々にとっては、うらやましいことに、意識さえされない自然なことでもある。ただ、少なくと言えるのは、それが一つ屋根の下で眠り、一つ釜のご飯を食べるかどうか、といった形の問題ではなく、どこまでも心の問題だということだ。人の心は、振り子のように、近づいたり、遠ざかったりはするが、決して振り切れて飛び去ってはいけない。また振り戻ってくるように、お互いに信じ合い、呼び返し合って生きていかなければならないんだ、と。

 そして、阿貴子に、あなたの心根(こころね)には、私に似た所がある、と言い、更に、若いということはいいことだねえ、幸せになりなさいよ、と言った。それから、さあ、今度こそ、眠りましょう、と言って起き上がった。

 連れていこうか、と私が言うと、大丈夫だよ、と言い、二人ともお休み、「まも」もお休み、と言って、自分でドアを閉め、また、コトリ、コトリと小さな音を立てながら、二階へ上がっていった。

 私と阿貴子は、顔を見合わせていた。いったい今夜はどうしたんだろうね、変だね、と私が言い、そうですね、でも何だかとってもうれしそうに晴ればれとした顔をしておられましたね、と阿貴子が言った。

 あくる日、母は、朝から目覚めなかった。朝食を召し上がりますか、持ってきましょうか、と聞いたら、目を開けないまま、首を横に振った、と阿貴子が私に言ったが、私は昨夜遅かったから眠いのだろう、寝かせておいてやれ、と言い仕事に出た。

 昼になっても、母は目覚めなかった。私は上がっていって、御飯食べないと駄目だよ、いらないの、と言うと、母はかすかにうなずいた。変だなあと思いながらも、そのあまりに安らかな、気持よさそうな寝顔と、静かに落ちついた呼吸に、今日は本当に眠いのかも知れないな、と思って、阿貴子に、点滴を一本しておくように、と言って午後の仕事に出た。

 夜になっても、母は目覚めなかった。母は、もはや、永久(とわ)に目覚めることのない眠りに入っていたのだった。

 やすらかに呼吸をし、うっすらと微笑みを浮かべながら母は眠っていたが、脈は弱くなってきており、血圧も測れなくなってきていた。

 点滴をつなぎ、酸素を与え、強心剤や呼吸促進剤、昇圧剤と、医者の本能のようにいろいろの薬を使ったが、何に対しても反応は無かった。

 私は、妹の祥子に電話をし、母が終りのようだ、しかし、駆けつけてもらっても間に合わないだろうから、無理をしないように、と言った。 

 遂に、母の呼吸は止まり、心臓も止まった。私は心臓マッサージを始めたが、それはもはや、医者としての判断と言うよりは、まだ別れを告げる心の準備のできていなかった子供としての私の、あきらめきれない思いからだった。 

 しかし、ふと見た母の顔が、私に語っていた。「利夫や、もういいんだよ、私は、もういいんだよ。お前が言ってくれたように、私はもう苦しんではいない」……と。

 私はすべてをやめた。

 阿貴子は、それまで母の手を取ってさすりながら、ねえ、息をして、息をして、息をしなければ死んでしまうでしょう、ねえ、息をして、…:と言い続けていたが、私が首を横に振ると、見る見る涙をあふれさせた。

 気がつくと、父が、離れて座っていた。私は、父の存在を、ほとんど何時間も忘れていたのだった。

 駄目だった、と私が言うと、父は母の所へ来て、母の身体に顔を伏せて、母ちゃん、何にもしてやれなくて悪かったのう、勘弁してくれ、と言った。

 私は、母の白いおくれ毛をかき上げてやりながら、母の変わらぬ微笑みを見ていた。私は、泣かなかった。母の死は、疑いも無き死ではあったが、私には、何にも終わった気がしなかった。淋しさが胸をついていたが、奇妙に悲しさは無く、むしろ安らぎが私の中にはあった。私は、今、母が、絶対の安らぎに入ったことを知っていた。ただ一つ、「まも」からだが乗っただけで苦しい生言う母が、のしかかった父の身体を、重いよ、苦しいよ、と言っているように思えた。

 昭和六十三年、十一月十日の、夜であった。

 

 兄の英夫と、妹の祥子たちが、夜半近くに車で着いた。英夫はこの時、厚生省の本省勤務になっていて、東京に宿舎を持っており、祥子からの連絡で一緒に来たのだった。ほとんど十年ぶりの再会であった。

 英夫と祥子の二人とも、語らぬ人となった母をなでながら、泣いた。二人には、もっともっと語りたいことがあり、ともに過ごしたい時間があったのであろう。夜の明けるまで、何の道具立でもない、心だけの通夜を私たちはした。

 夜が明けると、葬儀屋の届けてくれた、わずかの生花と香、灯明によって、ひと時の母の供養をし、昼少し過ぎに、母の遺体を棺(ひつぎ)に納めて、父を同乗させ、郷里の水原町へ送り出した。

 別れにもう一度、母の顔を見ると、母は、やはり静かに、端正な微笑みを浮かべていた。

「母さん。、すぐに追っていくからね、淋しいでしょうけど、先に行っていてね。でも、すぐにまた一緒に帰ってこようね。そして、いつまでも、いつまでも、一緒に暮らそうね」
 と私は、心の中で言った。

 その日一日を、私は休診にせず、いつものように働いた。予告なしに扉を閉ざせば、人々に迷惑をかけるのは目に見えていた。そしてまた、私には、母が、仕事をしてお上げ、私はもうすべてよいのだから、と言っているようにも思えていた。

 次の日は、土曜日だった。私は、やはり何も無かったかの如く、午前中の仕事をし終え、それから、車で水原町に帰った。

 長い歳月が経っていた。

 増改築を重ねて、見知らぬ家のようになっていた英夫の家、-あの、「無明の家」に、母の遺体は、花に飾られてあった。義姉の佳代子と会うのも、十年ぶりであった。私は、さらりと挨拶をし、その夜は、母の遺体の隣で眠った。

 明けた次の日、母の亡骸(なきがら)を火葬に付した。

 法要は、佐々木家代々の菩提寺、長福寺で行われた。多くの僧たちにまじって、ひたすらに読経(どきょう)してくれている、道文の姿があった。何十年ぶりかの再会であった。互いに、語り合いたいことは山ほどあるはずであった。しかし、私の感情は、この数日の間に、奇妙に枯れたようになっていた。私はただ心の中で、母さん、道文先生が来てくれていますよ、わかりますか、良かったですね、と言っていた。

 今は、ただ一刻も早く、母とともに、栃木の地へ帰りたかった。枠れ果てていながら何かが私の中で爆発しそうになっているのを、私は刻々に感じつつあった。

 道文ともわずかの言葉しか交わさず、誰とも内なる心を分かち合わず、すべての儀式の終わるのを待って、私は分骨した遺骨と、用意しておいてもらった私のための位牌を持って、その夜のうちに、車を走らせて、栃木に帰った。

 阿貴子とともに二階の母の部屋へ上がり、仮の仏壇に母の遺骨と位牌を乗せて、手を合わせた。私の心には、なお悲しみは無く、焼けた骨の灰のように妙にからりと乾いた心の中で、母の魂は、今、すべての悲しみから解き放たれてここに在る、ということだけを感じ続けていた。

 明治、大正、昭和という三つの時代の中を、動乱の渦に巻き込まれ、流され、またそれ抗(あらが)いながら、自らの選び取った道に殉じて生き切ったひとりの女性が、今、生死(しょうじ)の海をわたりきって、何ものでもないもの、そして、何ものでもありうるものになるために、その存在を減したのであった。

 その夜半、私はふと立ち上がって、部屋の隅に置いたままになっていた、のおおいを取り、指を乗せた。

 一年前、相模原の家で、「もう終わりかえ」と言った母に、うん、またね、と言った、そのまたの日が、この日まで無かった。

「とんび」の歌を弾き、そして、

 

   《母こそはいのちの泉……》

 

 と弾(ひ)き出した時、突然に、堰を切ってあふれくるものがあった。そして私は、母の死後、初めて、声を上げて泣いた。

 

 

 

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