かなる冬雷

 

第五章  落葉

 

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 こうして、父、史郎は、またも母の寛恕(かんじょ)の心につけこみ、母を盾として利用しながら、この栃木の家に入り込んだ。

 私が何か言い出さぬうちにと、大急ぎで蕨の家を引き払って荷を運んできた。その、いそいそとした様子が、母の許しを得て再びともに生きられることになった喜びなどから来たものでないことは明白だった。ただ、「うまくやった」ということでしか無かった。私の怒りも苦渋も、母の苦渋(くじゅう)も、喉もとを過ぎれば、彼の心には、痕跡さえも残さなかったように見えた。

 荷が片付くと、もう母を置き去りにして、ふらふらと出歩いていた。魚釣りも始まった。怠惰と、虚栄と、そして「たかり」の精神構造には何の変化も無かった。「回心」も「発心(ほっしん)」も、何も無かった。

 私の患者さんたちの家へ上がり込んでは、自分は校長だったの、教頭だったのと見栄を切り(彼は退職時まで教頭にさえなってはいなかった)、時には引退した老医師と誤解されて「大先生」などと呼ばれると、その誤解を解くどころが、むしろその誤解を助長するように話を合わせていた。そして、自分は、上海の「大学」を出て、英語も中国語も堪能なのだと、「うっかり」自分が中国語を口にしてしまったために聞きとがめられて仕方なく白状する、というようなふりをして、結局のところは、大声で触れまわっていた。

 必要もない所で、わざとむずかしげな言葉を使って、相手に聞き返させ、そうして謙虚に(たっぷりと)自分の博学ぶりをもらす(ひけらかす)、というのが常套(じょうとう)の手段だった。

 手紙を書く時には、感服させようと思う相手には、わざわざ毛筆で巻き紙に書いたりしていた。

 すべてが、何とも言えぬ虚栄であり、衒学(げんがく)の態度であった。

 患者さんたちの家に行っては、何かと、「頼みごとを」していた、つまり、「たかって」いた。食事時をねらったように出かけていって、およばれをしていた。私の全く知らないうちに、あちこちの人に、車でいろいろの所へ送らせ、時には、「観光案内」までさせていた。母を利用して私の家に入り込み、次には、私を利用して世間に対して大きな顔をしていた。私は、そうしたことを、ほとんど何も知らず、お礼を言うべき人たちにお礼も言わずにいて、しばしば苦い思いをした。

「大(おお)先生は、大変な学者さまでいなさるから」……

「半端な材木を分けてくれ、と言われたのでお届けしたが」……

「国に選ばれて、中国の大学で勉強されたのだそうで」……

「きのうは、何もないけどまたお昼を差し上げました」……

 その、よそで食べてきた日も、彼は家に戻って、何食わぬ顔で私たちと一緒に更に食事をしているのだった。食事どきに人さまの所へ行って御迷惑をおかけしてはならない、と言った私に、食べてきたことを隠すためだった。何ひとつ、考え方も、生き方も、変わっていなかった。

 

 ある夜、父の寝たあと、母が、眠れないと言って、コツ、コツと下りてきて、わびしそうな顔で言った。
「あの人が、ここへ来た本当の訳がわかったよ」
「ふうん、何、それ」
「あの人はね、偉そうにたんかを切って水原の家を出たものの、マンションの家賃の毎月のお金が惜しくなってきたんだよ。それでここへ来れば、家賃も浮く、食事も、水道光熱費もまるまる浮く、その計算で来たんだよ。私と暮らしたいの何のって言うのは、ただの口実だったんだよ」

 そんなことは、はなからわかっていたことでしょう、何をいまさら言っているの、と私ば母に対して、むしろ腹立たしかった。それが、遠慮がちに示された母の「詫び」であり、救いを求める母の「訴え」だった、ということに気がついたのは、もっと後のことでしかなかった。私は、父と顔を合わせたくないために、母と顔を合わせることも少なくなっていたし、母と、しみじみ話すことも、父に妨げられている形であまり無くなってきていた。

 私は、どうしようもない屈折した怒りを持ち続け、そのために、心を曇らせ、目を尖(とが)らせていた。

 母は、いつもわびしげな表情をして、夕食をすませた後も二階へは上がりたがらず、私たちの部屋のソファーに横になって、爪をかみながら、テレビをぼんやりと見ていた。静かだな、と思って見ると、眠っていた。二階へ行って寝なさい、風邪を引くよ、と言うと、

 仕方無く、コトリ、コトリと二階へ上がっていった。その背にへばり付いているものが、老いの哀しみ以上のものであることに、愚かな私は、気がつかないでいた。

 

 母の精神は、日毎に崩れていった。あれほど明晰に語り続けた相模原での母の面影は消え失せ、ただ老いて、うつらうつらと半覚醒の時を過ごす、母の姿だけがあった。幾つになっても読んでいた大好きな「眠狂四郎」の本も、もう読まなくなっていた。時代劇のテレビも、もう見通すことはできず、居眠りばかりしていた。

 祥子たち夫婦が子供を連れて遊びにきたり、房子が東京へ来たついでに、と言って立ち寄ったり、修一朗、修二郎、桂子のきょうだいたちが、旅行の途次に寄ってくれたりすると、母は、いっ時は元気になり、目の輝きを取り戻した。しかし、人々が去れば、二階のベランダで振っていた母の手は力なく落ち、そして心もまた、再び泥土のように重く濁った憂いの中へと沈み込んでいくのだった。

 その母に、手を差し伸べて引き上げてやれる者がいたとすれば、それは、私でしかなかった。それを私は、心の奥底で、多分、知っていた。しかし私は愛憎の妄念にとらえられ、不毛な怒りと恨みの内に、心の道を見失い、この母を、見殺しにしていた。

 母とともに生きる、と「発心(ほっしん)」したはずの私の心の浅さを、母の混濁していく生命の姿が暴露していた。母は、今、憎むこともできず、愛することもできず、その豊かな心を日に日に瓦解させつつあった。そして、その上に降り積もっていく、重い塵埃(じんあい)の下で、母の最後の魂の声が、小さく叫んでいた。

「利夫、助けておくれ!」
「利夫、助けておくれ!」

 と。……母の、その悲しい叫びは、私の心に届いた。私は、かすかな、しかし、はっきりと聞こえたその声に打たれ、ある夜、二階へ上がっていった。 

 布団に横たわって、母は、天井板を見つめ、爪をかんでいた。その横に、父は、だらしなく寝そべり、中国語の本を声を出して読んでいた。母を満州まで引きずっていって、カフェの女が孕(はら)んでついてきたと言って遺棄した男が、その後中国語を聞くたびに悲しげな顔をするようになった母の横で、わざわざ大きい声で中国語を読み、母に爪をかませていた。

 私は、彼に言った。今すぐ、この部屋にある自分の荷物を持って、離れた部屋へ移るように、と。今日からこの部屋には私が寝る、昼間も、特に用の無い限り、この部屋に来てはならない、と私は言った。その夜のうちに、彼の荷物を運び出し、その夜から私は母の隣りに寝た。

 彼は、私の厳しい表情に、逆らってはまずいと思ったのか、それとも、再び私に「禁じられた」ことによって母の介護をしないでいい大義名分を得たと思ったのか、傷ついた顔もせず荷を運び、次の日からは、その自分の城の中で、むしろ、せいせいとしたような表情で、中国語を声を上げて読み、毛筆で何やら手紙を書き、今まで以上に外を出歩いていた。

 そして、東京へ行く、と言っては、さらにしばしば出かけた。いつでも口実は日中友好協会だの、中国映画を見る会だの、東亜同文書院の同窓会だの、同期会だの、新潟商業の最後の学年の同級会に恩師として招かれてだの、と言うことだった。そして、泊まる所は、祥子の所、ということだった。

 私には、戦争責任についての真の自己批判の無いままの、日中友好協会や東亜同文書院の集まりへの参画など、うさんくさい偽善、せいぜい言って、単なる感傷としか思えなかったし、学年半ばにして不倫を理由にクビになった教師が、どの面(つら)下げて教え子たちの前に顔を出せるのか、その神経も理解できなかった。祥子の所に本当にその都度泊まっているのかどうかも、わからなかった。 しかし、今は、父のことなどどうでもよく、特に詮索(せんさく)する気も無かった。

 驚いたことに、新潟の水原へも行き始めた。英夫の所に泊まり、「借りが無い」と言い捨てた桂子の所にも平気で立ち寄っていた。水原高校のテニス部の同窓会に呼ばれて、というような口実だった。あれだけのことを言い、また、しでかして出て、そして餞別まで集めて捨てたはずの水原の町へ、何もなかったような顔をして入っていける男の考えも理解を越えていたが、それも今はどうでもよかった。

 私が、今、すべてを傾けて考え、守らなければならないのは、ただ一人、母だけであった。母は、八十七歳になっていた。

 

 母は、父と離れ、私とともに時を過ごすようになると、再び少しずつ生気を取り戻し始め、また、いろいろの話をするようになった。ますます動きづらくなってきている身体で、どれ、お茶でも入れようかねえ、と枕元の茶道具を引き寄せたりした。 

 母は、この数ヶ月のことを語り、父、史郎が再びこの家に入ってきてから、心が暗く濁っていくのが、自分でもよくわかっていた、と言った。……

 

 あの人の反省を信じたわけではないが、回心した、許してくれ、と言われれば、許さぬということを、私は言えなかった。それが、私の心の本当の広さではなく、ただ、やはり人間を信じなければ、という私の思い、私の憧れでしか無かったことは、お前の見ての通りだ。

 あの人は、ぬめぬめ、ぬめぬめと、人の心に入り込んでくる。必要とあれば、いくらでも自分の色を周囲のものに合わせて変えられる、変態上手な人だ。

 この茶穀(ちゃがら)、捨ててきてくれますか、と頼んだだけで、もう面倒くさそうに、とげとげしい態度になる。そのくせ、お前の上がって来る足音がすれば、パッと態度も口調も変える。

「まも」だって、どれだけ、じゃけんに扱われたか知れない。それなのに、お前が上がってくれば、「まもや、まもや」なんて、猫なで声を出して、可愛がっているようなふりをする。何もかもに裏表があり、二重人格どころか、ぬえみたいなものだ。

 私たち二人には、共通の話題も無かった。あの人の話すことを聞いていても、心のなごむことも無ければ、洗われることも無かった。

 昔の思い出話さえしていれば、かどが立たないと思っているのだろうが、いったいどんな楽しい思い出を私たちが共有していると言うのだろう。どれもこれもが、悲しく、割り切れぬ思い出ばかりだ。それらのことを、乗り越えて私は生きてきたのに、なぜまた、そんな所へ引き戻されなければならないのか。

 幾つになろうとも、私は、新しい心で生きたい。毎日、新しい心のあり方を見つけて、ああ、こんな心のあり方にめぐり会えた、うれしいなあ、ありがたいなあ、と思って私は生きていきたいんだ。

 私は、あの人とは、何の話もしたくない。そばにいて欲しくもない。私は、一人だって淋しくなんかない。いや、淋しいかも知れないけれども、人間には、淋しい時間というものも必要なんだ。その淋しさの中で、人間は、いやでも自分自身の心と直面することになるのだし、その淋しさの中で、心を洗うものなんだ。

私には、この数ヶ月、お前もまた苦しんでいるのが見えていた。暗い顔をして生きているのが見えていた。そしてその苦しみの元を、招き入れたのは、私だった。私はただ申し訳ないと思うだけで、何もしてやれなかった。まして、私自身の悲しさなど、お前に言えた義理では無かった。それでも心の底で、いつでも私は叫んでいた、利夫、助けておくれ! と。……そうしたら、あの晩、お前は上がってきて、あの人に、出ていけと言った。私は、この子は、また私の声を聞きつけてくれたんだ、とすぐにわかった。うれしかった。

 私は、今になって、本当にこの数ヶ月、どんなに自分の心が曇っていたのかが、よくわかる。今は、一日一日と、その心の黒い霧が晴れていくのがよくわかる。

 知らぬまに、夏が過ぎ、秋になっていた。

 今、このソファーに腰かけて外を見て思う。私は、この月日、目は開いていたが、何も見ていなかったんだなあ、って思う。

 かいずかいぶきの、緑の葉先が、風に揺れているのが見える。

 どうだんつつじが、日ごとに燃えるような茜(あかね)色になっていくのが見える。

 この庭にも、阿貴子さんの植えてくれたバラが、まだ次々に花をつけ、秋海裳(しゅうかいどう)の桃色の花びらが、朝の露に濡れて光っており、コスモスが、いつのまにかこんなに伸び上がって、精一杯に花開き、私に向かって、さあ、目を覚まして、私たちを見て!と叫んでいたことに、今、気がついた。

 花が花として見え、青い空に流れていく雲が、雲としてまた見えてきた。

 今は、それがうれしい。うれしいが、……どこかで、何かが、もう遅すぎる、と言っているような気もする。でも、それは、仕方がない。今はただ、私を包んでくれていたこの美しい自然にめぐり会えたこと、そしてお前の心にまためぐり会えたことを感謝して、生きていくだけだ。

 私は、生きているうちに、どうしても言っておきたいことが、幾つかある。

 その一つは、お前が大学へ行っているあいだずっと、水原町のあるお医者さんが、お前の学費の援助をしてくれていた、ということだ。そのお方は、私も、お前たちも、みんなでお世話になり、何度も生命を救って頂いたお方だ。そう言えば、どなたであるかは、お前にはすぐ見当がつくだろう。

 あの方は、私の幼な友達だった。昔の私のことも、よく知っておられた。私は何もあの方に金銭的な愚痴をこぼした覚えは無いが、私たちの生活を、じっと見ておられたのだろう。

 お前が大学へ入ってまもなくに、私が少し持病の胸が苦しくなって、診て頂きに行った時に、お茶を飲んでいきなさい、と言って下さって、その折りに、三千円のお金を下さった。

 利夫君も大学へ入られて良かった、この小さな町の誇りだ。あなたも、いろいろと、辛かっただろうが、よくここまで育ててきた。しかし、これからは、また大変だろう。よくわかっている。

 今月から毎月、この程度ではあるが、あなたに上げる。私の心ばかりの祝いだ。どう使ってくれてもいい。しかし、利夫君には、決して言ってはならない。生涯、言ってはならない。言えば、彼は恩義と思うだろう。何かの形で返さなければならない、と思うだろう。でも、私は、彼の才能をは助けて上げたいが、彼の人生をは何によってでも縛りたくない。だから、わかったね、これは、あなたに上げるのであって、利夫君に上げるのではないからね。

 そう念を押して言われたが、勿論、それはお前への援助であり、私は、それに四千円を加えて、何とか七千円というお金を送り続けることができた。

 お前が卒業してまもなくに、あの先生の末のお嬢さんを、お前にもらってもらえないか、というお話が一度出た。あのお方には、医者の跡継ぎが結局できなかった。末の娘をもらってくれれば、医院のあとはまかせる、何も婿養子にというのではない、松井医院にしてくれてよいのだ、と言うお話だった。

 英夫の仲立ちで、お嬢さまとお前が一度だけテニスをしたことがあった。あれがいわば、お見合だった。けれども、その時、お前にはもう、好きなあの人がいた。

 私は何度か、喉もとまで、お前が頂いてきた援助、ということが出かかったが、生涯決して言わない、という約束、それを思い出しては飲み込んでいた。

 結局は、お前の方に先に好きな人がいたためもあって、あのお話は成り立たなかった。それが良かった、悪かったというのではない。

 ただ、今、あの方は、御病気で臥(ふせ)っておられるという。私の方が少し歳上だから、私から逝(い)くのが順序だが、これはわからない。今、この話をしても、もうそのためにお前の人生の道が変わることは無いだろう。だから、今、私は、生きているうちにこれを言っておくことにした。

 そうして、あの先生が、いつも口にしておられたのは、優秀な町の人材が、みんな巣立っていく、私たち年寄りは、ああ、良かったと、喜んで送ってやればいい、けれども、時々思う、いつの日か、みんなこの故郷に帰ってきて、ひと月でも、一年でも暮らし、学んだことをこの故郷の人々に分けてやってくれたら、と、そう言っておられた。私は、何をどうしろと言うのではない、ただ、覚えておいて欲しい。そういう故郷の人々がいた、ということをね。

 もう一つは、これもお金の話だが、お前が本郷の医学部に進級した年の秋になって、大学の事務から、授業料の督促が来た。

 六月と十二月の、年二回払いだったのだが、たしかに、六月の分は送っていなかった。

 あの六月に、新潟地震があり、家が傾いてしまい、その土台上げや何かでお金が無くなってしまい、どうしても送れなかった。お前が国立に入ってくれたお陰で、授業料は安く、初めは年に九千六百円、のちにに一万二千円になったが、一回に数千円のお金でしかなかったのに、それがその年の夏はどうしても払えなかった。

 私は考えあぐねて、大学の事務に、どなたあてにだしてよいかわからないから、「事務長様」って宛名を書いて、手紙を出した。

 暮れのボーナスが入ったら何とかまとめてお払いするから待ってもらえないか、子供がそちらの大学で勉強させて頂いていることが、貧しい私たちの励みであり、生きがいだ、子供に言えば、また余分にアルバイトをしてでも払おうとするだろうが、それでは学業に妨げになる、何とか子供に言わず、子供が学業を続けられるように、恩情をもって、許して頂きたい、って私の素直な気持ちを書いて出した。

 そうしたら、本郷の事務長さんが、何と言うお方であったか、お名前も忘れたが、御親切なお返事を下さった。

 いま、この時計台の窓から見ると、正門までの銀杏の葉が黄金色に変わってまぶしいようです、と書き出してあって、授業料の督促のことは、単なる事務上の手続きであって、年末にまとめて払って頂いても何の支障も無い、お子さんに催促するようなことは、間違っても無いから安心するように。二分割で苦しければ、毎月分割の方法もあるし、さまざまな救済方法はあるのだから、困る時は、一人で悩まずに相談してくれるように。それよりも、立派なお子さんをお持ちなのだから、やがて来る幸せを思って、身体を大切にして頑張ってくれるように。……って、自筆の、心のこもったお手紙を下さった。どんなにほっとして、心が救われたか知れない。

 その後、お前たちのあの大学の騒ぎになって、あの時計台を取りまいたり、封鎖したりということがテレビで報道され出した時に、私にはお前たちのむずかしい理屈はわからない、ただ、あの子がそうする以上、そこにはそれなりの理由があるんだ、と信じて、お前が逮捕されようと何をしようと、子供を信じていけばいいんだと思い続けていたが、一方で、ああ、あの時計台には、あの子は知らないんだが、あのお手紙を下さった事務長さんがおられるはずだ、と胸が痛んでならなかった。あの方は、その後、どうなされたんだろうね。

 父ちゃんは、何かと言えば、俺が大学を出してやったんだ、という気持を表に出すが、誰もそれは否定しないが、だからといって、俺が、俺が、と言うのは間違っている。あの人の給料からなど、どこへ何を出すのにも足りはしなかった。自分は、自分の顔を良くする所だけ、さっさと天引きで払って、残ったお金しか渡してくれない。その中から私は、皆様に何ヶ月と待って頂きながら払い、そしてお前の所に送っていた。お前たちは、みんな、私たちの送る何倍ものお金をアルバイトをして働いて得ながら、学校を出た。国から奨学金もお借りし、ごく最近までお前はそれを返してきていた。あの水原の先生の援助を受け、あの事務長さんの励ましを受け、お前がいつか言ったように、あの道子さんや、道文先生やのあたたかいお気持に助けられて、大学を出たんだ。

 親の恩は大事だ。けれども、いつも言うように、親は自分の受けた恩を子供に返し、子供が自立できるようにする責任を果たしているだけだ。そんなものは、忘れてくれてもいい。ただお前たちが、お前たちの子供たちを、間違い無く育てていってくれれば、それで恩返しはすんでいる。

忘れてならないのは、他人(ひと)さまの御恩だよ。これは忘れてはならない。義務も責任も無い方々が与えて下さる優しさは、真心から出たものだ。これは返しようの無い大きいものだ。返したくとも返せないうちに、その方々は、みんな届かない所へ去っていってしまわれる。

 苦しい時に与えて頂いた三千円のありがたさは、今、その十倍、百倍のお金をお返ししたとて返し切れるものでは無い。

 まして、頑張って下さい、と励まして頂いたうれしさは、形の無いものだ。これは、どうして返せよう。

 ただ、そういう日々をへてきて、今、お前が医者になり、自分をすりへらしてでも働いて、少しでも皆様のお役に立っているのなら、これがささやかな恩返しだ。そう思って、謙虚に生きていくんだよ。

 伊豆へ連れていってもらった時に、帰り道で、お前は、道端(みちばた)に立ち往生している車の前にすっと入って止まった。どうするのかな、と私が思って見ていたら、お前は降りていって、何かお手伝いしましょうか、と言った。ガソリンが切れた、と聞くと、お前は自分の車のトランクを開けて、いつも入れて置くんだという予備のガソリン・タンクを持っていって入れて上げた。その方が、ガソリン代を、と言ってお金を持ってこられたが、お前は受け取らなかった。そうして、誰かが困っていたら同じように助けて上げて下さればそれでいいのですよ、と言った。

 私は、何も言わなかったが、うれしかった。当たり前のことをしただけだ、というようにそれ以上何も言わないお前の気持もうれしかったし、ああ、この子には、間違いなく父様(ととさま)の血が流れている、って思って、私はうれしかったのだよ。

 恩とか情けとか言うものは、父様の言う通り、そしてお前の言う通り、そうやって返し、つないでいくものなんだ。

 あの人は、俺は桂子に借りが無い、と言って水原を出ていった。あの人は、本当は思っているんだろう、俺は誰にも借りは無い、とね。その言葉で、あの人は、この世のすべての人々の人間の絆が無い、と宣言しているんだ。何という索漠とした人生だろうね。そのくせ、本当に、毅然として孤独に耐えて生きるというのでもなく、いつでも、うろうろと人の、施しを求めるような生き方しかしていないじゃないの。……

 

 

 

 

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