- 長法寺は、鵜川西方の長法寺山に明確な寺跡を残しています。この寺の建立に関連して、「嘉祥二年(849)長法寺草創にあたって、勝野の日吉神社を鎮護の神とした。」(「比叡山延暦寺護国縁起」)と伝えています。
- 坂本の日吉大社からその祭神山王権現(祭神は大山咋命)を勧請して、延暦寺傘下の有力寺院だった長法寺を鎮守としたことに始まり明治二年に山王権現を日吉神社と改めました。
- 日吉神社は戦国争乱期には盛衰が甚だしかったようです。近江守護職佐々木一族の勢力の衰退、肝心の長法寺の廃絶、大溝築城に努めた織田信澄の誅死などがあって、その都度支持基盤が弱体化し急速に衰退を余儀なくされて、一時は神社の麓の石垣村のわずか十戸余りの住民の手によって神事を行い社頭を維持していた時もありました。江戸時代に入り間もなく、伊勢から入封した分部光信によって大溝の城下町の整備が図られ、政治経済・交通の中心としての基盤が固められ日吉神社の復興に大きな支えとなっていきました。
- その頃(江戸時代)の勝野は、大溝村・打下村・石垣村の三ヶ村に分かれていましが、分部侯は大溝の城下町の形成にあたって、石垣村の氏神として護持されてきた日吉神社を城下町の鎮守として祀ることにしたようです。以来打下村を除く大溝村や石垣村の氏神として広く庶民の崇拝を集めてきました。
- この地域は現在の行政区分では勝野第二区(第一区は打下地区)と呼ばれています。氏子の総数は約360戸(昭和60年)で大溝祭を支え200年余りにわたって伝承されてきたものです。
- 大溝という地名の起源は明確ではありませんが、城を築城するにあたり、湖岸一帯に食い込んだ大小の河川や入り江の地形からおそらく大溝城という城名がついてそこから地名になっていったのではないかと考えられています。
- 大溝祭の曳山の起源については、分部候が大溝二万石の城主として入封した際、前任地伊勢上野の祭礼を移したともいわれていますが定かではありません。
- 県下の曳山祭の例を見ると、水口や日野、大津や長浜などそのいずれも城下町など近世都市で始められたものです。その華麗な祭礼文化は、地方経済の発展によって向上した町民の実力を誇示するものであったといわれています。
- 曳山祭といっても当初から現在のような立派なものではありません。
- 大溝祭の原型は享保5年(1720)の記録にあるように単に「すすき」や「松」を立てただけの素朴な姿の曳山を引き回したとも考えられますし、ある時期には「能」や「浄瑠璃」など伝統芸能から取材した人形飾りをした曳山であったり、歌舞伎を模したことを演じたときもあったようです。
- このような曳山の賑わいは、町民にとっては年に一度の娯楽でありました。祭礼には藩主以下多くの藩士達が棧敷から見物したということです。曳山祭の歴史をみても、田舎とはいえ大溝の町人が古典芸能に常日頃から十分に親しんでいて、深い教養を身に付けていたのではないかということが想像されます。
- この華やかな大溝の曳山祭も、その後時代の変遷にともない時には中止されたり簡素化されたりしながら今日まで伝えられてきたようです。城下町として大溝が繁栄していたといっても、二万石の外様小大名で財政は殊のほか貧弱であったようです。殊に江戸時代中期以降は何回となく襲来した災害や飢饉を乗り切るためにたびたび領内に諸事倹約令が出されいます。祭礼の援助どころではなかったと思われます。また明治の廃藩によって大溝の政治的地位は著しく低下せざるを得なくなりました。その上大正以降は、江若鉄道の開通や湖上交通の衰退によって、港を中心に発展していた大溝は大きな打撃を受けました。そのような時代の流れの中で現在の大溝祭の姿があります。
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