北原白秋
「思ひ出」より 断章 一 け ふ 今日もかなしと思ひしか、ひとりゆふべを、 ね かす 銀の小笛の音もほそく、ひとり幽かに、 すすり泣き、吹き澄ましたるわがこころ、 薄き光に。 |
二 ああかなし、 あはれかなし、 君は過ぎます、 くゆり 薫いみじきメロデアのにほひのなかに、 薄れゆくクラリネツトの音のごとく、 君は過ぎます。 |
三 ああかなし、 あえかにもうらわかきああわが君は、 け し ひともとの芥子の花そが指に、香のくれなゐを いと薄きうれひもてゆきずりに触れて過ぎゆく。 |
四 あはれ、わが君おもふヰ゛オロンの静かなるしらべのなかに、 ろ ば いつもいつも力なくまぎれ入り、鳴きさやぐ驢馬のにほひよ、 あはれ、かの野辺に寝ねて、名も知らぬ花のおもてに、 す あはれ、あはれ、酸ゆき日のなげかひをわれひとり嗅ぎそめてより。 |
五 暮れてゆく雨の日の何となきものせはしさに み りんご 落したる、さは紅き実の林檎ああその林檎、 見も取らず、冷かに行き過ぎし人のうしろに、 灰色の路長きぬかるみに、あはれ濡れつつ ただひとつまろびたる、燃えのこる夢のごとくに。 |
六 あはれ友よ、わかき日の友よ、 け ふ まち おもて 今日もまた街にいでて少女らに面染むとも、 あざ な嘲みそ、われはなほわれはなほ心をさなく、 や ぎ か やはらかき山羊の乳の香のいまも身に失せもあへねば。 |
七 見るとなく涙ながれぬ。 かの小鳥 在ればまた来て、 いばら ついば 茨のなかの紅き実を啄み去るを。 あはれまた、 啄み去るを。 |
八 女子よ、 な 汝はかなし、 な のたまはぬ汝はかなし、 ただひとつ、 ひとこと 一言のわれをおもふと。 |
九 あはれ、日の かりそめのものなやみなどてさはわれの悲しく、 窓照らす夕日の光さしもまた涙ぐましき、 あはれ、世にわれひとり残されて死ぬとならねど、 かたへ わが側遠く去るとも人のまた告げしならねど、 さなり、ただ、かりそめのかりそめのなやみなるにも。 |
十 あはれ、あはれ、色薄きかなしみの葉かげに、 ほのかにも見いでつる、われひとり見いでつる、 青き果のうれひよ。 あはれ、あはれ、青き果のうれひよ。 ひそかにも、ひそかにも、われひとり見いでつる あはれその青き果のうれひよ。 |
十一 さけ つ 酒を注ぐきみのひとみの うれ ほのかにも濡れて愁ふる。 まち さ よ さな病みそ街のどよみの小夜ふけて遠く泌むとも。 |
十二 な ほ 女、汝はなにか欲りする。 ゆふぐれの、ゆふぐれのゆめふかきもののにほひに、 な くちつ くちつ くちつ かくもまた汝とともに接吻けて、接吻けて、接吻けてほのかにも泣きつつあらば、 あはれ、またなにの願か身にあらむ、ああさるをなほ な ほ 女、汝はなにか欲りする、 ゆふぐれの、ゆふぐれのふたつなき夢のさかひに。 |
十三 おそなつ なやましき晩夏の日に、 夕日浴び立てる少女の よねん も 余念なき手にも揉まれて、 やはらかににじみいでたる つま 色あかき爪くれなゐの花。 |
十四 わが友よ。 君もまた色青きぺパミントの酒に、 かなしみの酒に、 なぐさめ いひしらぬ慰籍のしらべを、 け ふ 今日の日のわがごとも、 あはれ、友よ、思ひ知り泣きしことのありや。 |
十五 あはれ君、われをそのごと 清しとな正しとなおもひたまひそ。 われはただ強ひて清かり。 おく 失せもあへぬそのかみの日の怯れたる弱きこころに、 ああかなし、われはさは強ひて清かり。 |
十六 あはれ 哀知る女子のために、 こがね ひ ぐ る ま われらいま黄金なす向日葵のもとにうたふ。 あはれ 哀知る女子のために。 |
十七 『口にな入れそ。』 あか いちご け ふ 色紅くかなしき莓葉かげより今日も呼びつる。 『口にな入れそ。』 |
十八 ねいろ われはおもふ、かの夕ありし音色を。 くちなし は いと甘き梔子の映えあかるにほひのなかに、 埋もれつつ愁ふともなくただひとりありけるほどよ、 あはれ、さは通りすがりのちやるめらの肩をかへつつ、 に か つ ぎ ひとうれひ――ひいひゆるへうと荷担夫の吹きもゆきしを。 あはれまた、夕日のなかに消えがてに吹きも過ぎしを。 |
十九 あ あ 嗚呼さみし、哀れさみし、 け ふ みやこおほじ 今日もまた都大路をさすらひくらし、 なにものか求めゆくとてさすらひくらし、 日をひと日ただあてもなうさすらひくらす。 あは 嗚呼さみし、哀れさみし。 |
二十 大ぞらに入日のこり、 ふる 空いろにこころ顫ふ。 初恋の君をおもふ みれん われの未練ぞ、 あはれ、さは暮れはつるらむ。 |
二十一 いとけなき女の子に きかすとにはあらねど、 たはむれにきかしぬる わかき日の歌よ。 わが恋ふる君も知らねば。 |
二十二 わが友はいづこにありや。 おそあき 晩秋の入日の赤さ、さみしらにひとり眺めて、 か けん うつつ たかね 掻いさぐるピアノの鍵の現なき高音のはしり、 ひとりみ ひとりみ け ふ かくてはや独身の、独身の今日も過ぎゆく。 |
二十三 いや な め い し ましろ 弥古りて大理石はいよよ真白に、 いや 弥古りてかなしみはいよよ新らし、 いや いや 弥古りて弥清く、いよよかなしく。 |
二十四 泣かまほしさにわれひとり、 ひ は り ど 冷やき玻璃戸に手もあてつ、 かなた 窓の彼方はあかあかと沈む入日の野ぞ見ゆる。 泣かまほしさにわれひとり。 |
二十五 柔かきかかる日の光のなかに、 いまひとたび、あはれ、いまひとたび、 も ほのかにも洩らしたまひね、 われを恋ふと。 |
二十六 蝉も鳴く、ひと日ひねもす、 け ふ 『かなし、かなし、ああかなし、今日なほひとり。』 |
二十七 も そを思へばほのかにゆかし。 しゆぬり かの古りし朱塗のうつは、 くゆ そがなかに薫りにし ま に ら たばこ 馬尼拉煙草よ。 いつの日のゆめとわかねど。 |
二十八 あはれ、あはれ、すみれの花よ。 しをらしきすみれの花よ。 な 汝はかなし、 れんが かま 色あかき煉瓦の竈の な かげに咲く汝はかなし。 あさあけ はや朝明の露ふみて われこそ今し いもうと 妹の骨ひろひにと来しものを。 |
二十九 きん 青梅に金の日光り、 地は濡れて鈴虫鳴く。 たえま 日暮らしの日暮らしの雨の絶間に、 いつしらず鈴虫鳴く。 |
三十 ひな あはれ、さはうち鄙びたる あぶ いはけなき玉乗の子が危なげの足にあはせて、 ひ かすかにも弾き鳴らすヰ゛オロン弾きの少女。 |
三十一 いまもなほ ワグネルのしらべに やつ 日をひと日浮身をや窶したまへる。 かなしきは女ぞかし。 さか の べ 離り来て野辺におもへば 露くさの花の色だにさはひとり求めわぶるなる。 |
三十二 わが友は色あかき酒を飲みにき、 われはサイダア、 あは うれひ あはれかかる淡つけき愁もて わかき日をや泣かむとする、弱き子の心ぼそさよ。 |
三十三 こ ぞ あはれ、去年病みて失せにし かのわかき弁護士の庭を知れりや。 まち かど そは、街の角の貸家の さ かざりがらす のぞ 褪めはてし飾硝子の戸を覗け、草に雨ふり、 け し 色紅き罌粟のひともと濡れ濡れて燃えてあるべし。 あはれまた、そのかみの夏のごとくに。 |
三十四 ああ、あはれ、 青にぶき救世軍の よ 汚ごれたる硝子戸のまへに ひ ぐ る ま 向日葵咲き、 ほりばた はんてん つぼ 堀端を半纒ひとりペンキ壺さげて過ぎ行く。 いづこにか物売の笛 ああ、ひと目――日の夕、 せは われはいま忙しなの電車より。 |
三十五 えんにち くさ ガ ス おもて 縁日の見世ものの、臭き瓦斯にも面うつし、 く わ つ ど う 怪しげの幕のひまより活動写真の色は透かせど、 やすおしろひ ひとごみ かくもまた廉白粉の、人込のなかもありけど、 さはいへど、さはいへど、わかき身のすべもなさ、涙ながるる。 |
三十六 ひな 鄙びたる鋭き呼子そをきけば涙ながるる。 くわつどうしやしんすす いそがしき活動写真煤びたる布に映すと、 かりそめの場末の小屋に瓦斯の火の消え落つるとき、 鄙びたる鋭き呼子そをきけば涙ながるる。 |
三十七 あはれ、あはれ、 色青き幻燈を見てありしとき、 なになればたづきなく、かのごとも涙ながれし いざやわれ、倶楽部にゆき、友をたづね、 くれなゐ 紅のトマト切り、ウヰスキイの酒や呼ばむ、 ほこりあるわかき日のために。 |
三十八 瓦斯の火のひそかにも声たつるとき、 われ、君を悲しとおもひ、 靴ぬぐひの皮に かがと つちふ 踵なる土踏みなすり、 別れ来て、土踏みなすり、 か か ほの黄なるしめり香の、かの苑の香を嗅げば、 いまさらに涙ながる……………… |
三十九 忘れたる、 忘れたるにはあらねども…… ゆかしとも、恋ひしともなきその人の なになればふともかなしく、 くれがた 今日の日の薄暮のなにかさは青くかなしき、 忘れたる、 忘れたるにはあらねども…… |
四十 まち つねのごと街をながめて ナイフ執りフオク執り、女らに言葉かわせど、 色赤きキユラソオの酒さかづきにあるは満たせど、 かなしみはいよいよ去らず、 かにかくにわかき身ゆゑに涙のみあふれていでつつ。 |
四十一 かかるかなしき手つきして、 ね かかる音にこそ弾きにしか、 をとめ かかるかなしきその日の少女。 |
四十二 み あかき果は草に落ち、 露に濡れて、 をのの か 日をひと日戦きぬ、かくてまた香だに立て得じ。 は 雨霽れて、日の射せば、甘く、かなしく、 あ さ あ さ ね 物求食り、物求食り、寄りも来る音の とり レグホンの雄の鶏の、あはれそがけたたましさよ。 |
四十三 ともらひ かへさ 葬式の帰途にか、戯れに笛吹き鳴らし、 もや もの甘き靄の内さざめきてたどる楽師よ。 なれ 哀れ、汝ら、 薄ぐらき路次の長屋にひと時の後やあるらむ。 の ど さはれなほ吹き鳴らし吹き鳴らし長閑に消えつつ、 ひな うら若き服の鄙びのいろ赤く、なにか眺むる。 日はしばし夢の世界に目を放つ、黄金の光。………… |
四十四 あを 顔のいろ蒼ざめて まなざし ゆめ見るごとき眼眸、 今日もまた、わかき男、 空をのみ空をのみ見やりて暮らす。 |
四十五 長き日の光に倦みて う 熟れし木の果は といき やはらかき吐息もて地にぞ落ちたる。 またひとつ…………そよとだに風も吹かねど。 |
四十六 きのふ かなしかりにし昨日さへ、 かなしかりにし涙さへ、 あ す ふ と 明日は忘れむ、肥満れる君よ。 |
四十七 すた 廃れたる園のみどりに ふりそそぎ、ふりそそぎ、にほやかに小雨はうたふ。 け し 嬰粟よ、嬰粟よ、 やはらかに燃えもいでね………… |
四十八 な なにゆゑに汝は泣く、 あたたかに夕日にほひ、 ためいき たんぽぽのやはき溜息野に蒸して甘くちらぼふ。 さるを女、 な なにゆゑに汝は泣く。 |
四十九 あはれ、人妻、 ふたつなきフランチエスカの物語 かたらふひまもみどり児は声を立てつつ、 かたはらを匍ひもてありく、 君はまた、たださりげなし。 あはれ、人妻。 |
五十 いかにせむ………… やはらかに 眼も燃えて、 ああ君は くちびる 唇をさしあてたまふ。 |
五十一 色赤き三日月、 色赤き三日月、 ふしど 今日もまた臥床に 君が児は銀笛のおもちやをぞ吹く、 やすらけきそのすさびよ。 |
五十二 やは 柔らかなる日ざしに はりもの 張物する女、 いろいろの日ざしに もの思ふ女、 柔らかなる日ざしに はりもの 張物する女。 |
五十三 われは怖る、 その宵のたはむれには似もやらで、 なにごとも忘れたる け さ 今朝の赤き唇。 |
五十四 いそがしき葬儀屋のとなり、 えきてい りようがえ 駅逓の局に似通ふ両替のペンキの家に、 ま われ入りて出づる間もなく、 折よくも電車むかへて、そそかしく飛びは乗りつれ。 いづくにか行きてあるべき、 さ ただひとり、ただひとり、指すかたもなく。 |
五十五 あ す 明日こそは かほ 面も紅めず、 うちいでて、 まば あまりりす眩ゆき園を、 明日こそは 手とり行かまし。 |
五十六 色あかきデカメロンの ふみ ひぢ 書に肱つき、 なにごとをか思ひわづらひたまふ。 わかうどの友よ、 うと 美くしきかかる日の夕暮に、さは疎くたれこめてのみ、 なにごとをか思ひわづらひたまふ。 |
五十七 あはれ、鉄雄、 な あを 静かなる汝が顔の蒼さよ、 声もなきは泣きやしつる、 たよりなき闇の夜を 光りて消ゆる花火に。 |
五十八 がらす ほの青く色ある硝子、 透かし見すれば うちら や そ みづし かう 内部なる耶蘇の龕にひとすぢの香たちのぼる。 まち 街をゆき、透かし見すれば 日の真昼ものの静かにほのかにも香たちのぼる。 |
五十九 し くわい いへ 薄青き歯科医の屋に 夕日さし、 ほのかにも硝子は光る。 あはれ、女、 その戸いでていづちにかゆく………… ひ な 黄なる陽に汝を見れば しつう われもまたほの淡き歯痛をおぼゆ。 |
六十 あはれ、あはれ、 灰色の線路にそひ、 ひとすぢの線路にそひ、 け ふ たど あさぎふく 今朝もまた辿りゆく浅葱服のわかき工夫、 なれ 汝もまた路のゆくてに 青き花をか求むる、 かなしき長きあゆみよ。 |
六十一 新詩社にありしそのかみ、 などてさは悲しかりし。 銀笛を吹くにも、 ひとり路をゆくにも、 歌つくるにも、 などてさは悲しかりし。 をさなかりしその日。 |
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