北原白秋
 

「思ひ出」より

  
 青き甕



    青き甕にはよくコレラ患者の死骸を入れたり、これらを幾個となく
    担ぎゆきし日のいかに恐ろしかりしよ、七歳の夏なりけむ。



  あおがめ          ちまた
 『青甕ぞ。』――街衢に声す。
 
 大道に人かげ絶えて
                      す
 早や七日、溝に血も饐え、
 
 悪虫の羽風の熱さ。
                そらただ
 日も真夏、火の天爛れ、
     い           たいけ
 雲燥りぬ。――大家の店に、
               おそれ
 人々は墓なる恐怖。
  かう
 香くすべ、青う寝そべり、
  きせる    ひじ
 煙管とる肱もたゆげに、
 
 蛇のごと眼のみ光りぬ。
 


  あおがめ                やから
 『青甕ぞ。』――今こそ家族、
                    ちのり   あのと
 『声す。』『聴け。』『血糊の足音。』
 
 『何もなし。』──やがて寂莫。――
            に か つ ぎ
 秒ならず、荷担夫一人、
     かめ            むくろ
 次に甕、(これこそ死骸、)
 
 また男。――がらす戸透かし
          せつな      まさを
 つと映る刹那――真青に
               にら
 甕なるが我を睨みぬ。
                      ざ
 父なりき。――(父は座にあり。)――
 
 ひとつ眼の呪咀の光。
 


  あおがめ
 『青甕ぞ。』──日もこそ青め、
 
 言葉なし。――蛇のとぐろを
  かうは              いぶき
 香匐ひぬ、苦熱の息吹。
 
 また過ぎぬ、ひひら笑ひぬ。
                      ざ
 母なりき。――(母も座にあり。)――
            つめ    しわ
 がらす戸の冷たき皺み。
 
 やがてまた一列、――あなや、
 
 我なりき。――青き小甕に、
  さ ぐ
 欷歔りつつ黒き血吐くと。
                   おそれ
 刹那見ぬ、地獄の恐怖。



BACK戻る 終わりNEXT
[北原白秋] [文車目次]