寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




   たばた
 田端の停車場から出て、線路を横ぎる陸橋のほうへと下りて行く
 
坂道がある。
 
 そこの道ばたに、小さなふろしきを一枚しいて、その上にがま口
 
を五つ六つ並べ、そのそばにしゃがんで、何かしきりにしゃべって
 
いる男があった。
 
 往来人はおりからまれで、たまに通りかかる人も、だれ一人、こ
 
の商人を見向いて見ようとはしなかった。
 
 それでも、この男は、あたかも自分の前に少なくも五、六人の顧
 
客を控えてでもいるような意気込みでしゃべっていた。
                     さじん
 穂癖の風は道路の砂塵をこの簡単な「店」の上にまともに吹きつ
 
けていった。
 
 しかし、めったに人の評価をしてくれない、あるいは見てもくれ
 
ない文章をかいたり絵をかいたりするのも、考えてみれば、やはり
 
この道路商人のひとり言と同じようなものである。
 
(大正十年十二月、渋柿)


前へ 次へ
[寺田寅彦] [文車目次]