寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
 安政時代の土佐の高知での話である。
  にんじょう
 刃傷事件に座して、親族立ち会いの上で詰め腹を切らされ母にな
 
る人が、愁傷の余りに失心しようとした。
                                                              ろうおう
 居合わせた人が、あわててその場にあった鉄瓶の湯をその老媼の
 
口に注ぎ込んだ。
 
 老媼は、その鉄瓶の底をなで回した掌で、自分の顔をやたらとな
 
で回したために、顔じゅう一面にまっ黒い斑点ができた。
 
 居合わせた人々は、そういう極端な悲惨な事情のもとにも、やは
 
りそれを見て笑ったそうである。
 
(大正十一年四月、渋柿)


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