寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
 子猫が勢いに乗じて高い樹のそらに上ったが、おりることができ
 
なくなって因っている。
 
 親猫が樹の根元へすわってこずえを見上げては鳴いている。
 
 人がそばへ行くと、親猫は人の顔を見ては訴えるように鳴く。
 
 あたかも助けを求めるもののようである。
 
 こういう状態が二十分もつづいたかと思う。
 
 その間に親猫は一、二度途中まで登って行ったが、どうすること
 
もできなくて、おめおめとまたおりて来るのであった。
                                                    やまぶき
 子猫はといとう降り始めたが、脚をすべらせて、山吹の茂みの中
 
へおち込んだ。
 
 それを抱き上げて連れて来ると、親猫はいそいそとあとからつい
 
て来る。
                                                 な
 そうして、縁側におろされた子猫をいきなり嘗め始める。
 
 子猫を、すぐに恥部さんしゃぶりついて、音高くのどを鳴らしは
 
じめる。
 
 親猫もクルークルーと恩愛にむせぶように咽喉を鳴らしながら、
 
いつまでもいつまでも根気よく嘗め回し、嘗めころがすのである。
 
 単にこれだけの猫のふるまいを見ていても、猫のすることはすべ
 
て純粋な本能的衝動によるもので、人間のすることはみんな霊性の
 
はたらきだという説は到底信じられなくなる。
 
(大正十一年六月、渋柿)


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