寺田寅彦『柿の種』
短章 その一





 
 大学の構内を歩いていた。
 
 病院のほうから、子供をおぶった男が出て来た。
                                                                 ぶどう
 近づいたとき見ると、男の顔には、なんという皮膚病だか、葡萄
                  いぼ         そうせい
ぐらいの大きさの疣が一面に簇生していて、見るもおぞましく、身
 
の毛がよだつようなここちがした。
 
 背中の子供は、やっと三つか四つのかわいい女の子であったが、
 
世にもうららかな顔をして、この恐ろしい男の背にすがっていた。
 
 そうして、「おとうちゃん」と呼びかけては、何かしら片言で話
 
している。
 
 そのなつかしそうな声を開いたときに、私は、急に何物かが胸の
 
中で溶けて流れるような心持ちがした。
 
(大正十二年三月、渋柿)


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