寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




           がけ あおすすき             なら
 道ばたの崖の青芒の中に一本の楢の木が立っている。
 
 その幹に虫がたくさん群がっている。
                         ちょう                           こがねむし
 紫色の紋のある美しい蝶が五、六羽、蜂が二種類、金亀子のよう
  こうちゅう                             やまあり   はあり
な甲虫が一種、そのほかに、大きな山蟻や羽蟻もいる。
 
 よく見ると、木の幹には、いくつとなく、小指の頭ぐらいの穴が
 
あいて、その穴の周囲の樹皮がまくれ上がりふくれ上がって、ちょ
                            よう         かっこう
うど、人間の手足にできた瘍のような恰好になっている。
 
 虫類はそれらの穴のまわりに群がっているのである。
 
 人間の眼には、おぞましく気味の悪いこの樹幹の吹き出物に人間
 
の知らない強い誘惑の魅力があって、これらの数多くの昆虫をひき
 
よせるものと見える。
 
 私は、この虫の世界のバッカスの饗宴を見ているうちに、何かし
 
ら名状し難い、恐ろしいような物すごいような心持ちに襲われたの
 
であった。
 
(大正十二年九月、渋柿)


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