寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
 震災の火事の焼け跡の煙がまだ消えやらぬころ、黒焦げになった
         えんたん
樹の幹に鉛丹色のかげのようなものが生え始めて、それが驚くべき
 
速度で繁殖した。
 
 樹という樹に生え広がって行った。
                に いろ
そうして、その丹色が、焔にあぶられた電車の架空線の電柱の赤さ
                                                                   は
びの色や、焼け跡一面に散らばった煉瓦や、焼けた瓦の赤い色と映
 
え合っていた。
 
 道ばたに捨てられた握り飯にまでも、一面にこの赤かびが繁殖し
 
ていた。
 
 そうして、これが、あらゆる生命を焼き尽くされたと思われる焦
 
土の上に、早くも盛り返して来る新しい生命の胚芽の先駆者であっ
 
た。
                            しばふ                              そてつ
 三、四日たつと、焼けた芝生はもう青くなり、しゅろ竹や蘇鉄が
            いちょう
芽を吹き、銀杏も細い若葉を吹き出した。
 
 藤や桜は返り花をつけて、九月の末に春が帰って来た。
              も
 焦土の中に萌えいずる緑はうれしかった。
                    はいきょ
 崩れ落ちた工場の廃墟に咲き出た、名も知らぬ雑草の花を見た時
 
には思わず涙が出た。
 
(大正十二年十一月、渋柿)


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