寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




                    えいたいばし
 晩春の曇り日に、永代橋を東へ渡った。
 
 橋のたもとに、電車の監督と思われる服装の、四十格好の男が立っ
 
ていた。
                                                    いたぎれ
 右の手には、そこらから拾って来たらしい細長い板片を持って、
 
それを左右に打ちふりながら、橋のほうから来る電車に合図のよう
 
な事をしていた。
                                  かに
 左の手を見ると、一疋の生きた蟹の甲らの両脇を指先でつまんで
 
いる。
 
 その手の先を一尺ほどもからだから離して、さもだいじそうにつ
 
まんでいる。
 
 そうして、なんとなくにこやかにうれしそうな顔をしているので
 
あった。
 
 その男の家には、六つか七つぐらいの男の子がいそうな気がした。
 
 その家はここからそんなに遠くない所にありそうな気がした。
 
(大正十三年六月、渋柿)


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