寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
 三、四年前に、近所の花屋で、小さな鉄線かずらを買って来て、
 
隣家の境と石垣の根に植えておいた。
                             かんとう
 そのまわりに年々生い茂る款冬などに負かされるのか、いっこう
 
に大きくもならず、一度も花をつけたことは無かった。
 
 去年の秋の大地震に石垣が崩れ落ちて、そのあたりの草木は無残
 
におしつぶされた。
 
 しかし、不思議につぶされないで助かった鉄線かずらに今度初め
 
て花が咲いた。
 
 それもたった二輪だけ、款冬の葉陰に隠れて咲いているのを見つ
 
けた。
                                         しのだけ
 地べたにはっているつるを起こして、篠竹を三本石垣に立て掛け
 
たのにそれをからませてやったら、それから幾日もたたないうちに、
 
おもしろいように元気よくつるを延ばし始めた。
 
 少し離れた所に紅うつぎが一本ある。
 
 去年は目ざましい咲き方をして見せたのに、石垣にたたきつぶさ
 
れて、やっと命だけは取り留めたが、花はただの一輪も咲かなかっ
 
た。
 
(大正十三年七月、渋柿)


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