寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




  はくさんした
 白山下へ来ると、道ばたで馬が倒れていた。
 
 馬方が、バケツに水をくんで来ては、馬の頭から腹から浴びせか
 
けていた。
  くび
 頸のまわりには大きな氷塊が二つ三つころがっていた。
 
 毎年盛夏のころにはしばしば出くわす光景である。
 
 こうまでならないうちに、こうなってからの手当の十分の一でも
 
してやればよいのにと思うことである。
 あけぼのちょう
 曙 町の、とある横町をはいると、やはり道ばたに荷馬車が一台
 
とまっていた。
 
 大きな葉桜の枝が道路の片側いっぱいに影を拡げている下に、馬
 
は涼しそうに休息していた。
 
 馬にでも地獄と極楽はあるのである。
 
(大正十三年九月、渋柿)


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