寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




    りょうさい し い
 「聊斎志異」の中には、到るところに狐め化けたと称する女性が
 
現われて来る。しかし、多くの場合に、それはみずから狐であると
 
告白するだけで、ついに狐の姿を現わさずにすむのが多い。
 
 ただその行為のどこかに超自然的な点があっても、それは智恵の
 
たけた美女に打ち込んでいる愚かな善良な男の目を通して、そう見
 
えたのだ、と解釈してしまえば、おのずから理解される場合がはな
 
はだ多い。
 
 それにもかかわらず、この書に現われたシナ民族には、立派にい
 
わゆる「狐」なる超自然的なものが存在していて、おそらく今もな
 
お存在しているにちがいない。
 
 これはある意味でうらやむべき事でなければならない。
 
 少なくも、そうでなかったとしたら、この書物の中の美しいもの
 
は大半消えてしまうのである。
 
(昭和二年九月、渋柿)


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