寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
 S.H.Wainwrightという学者が、和歌や俳句の美を紹介した論文の
 
中に引用されている俳句の英訳を、俳句の事を何も知らない日本の
 
英学者のつもりになって、もう一遍日本語にしかもなるべく英語に
 
忠実に餅訳してみると、こんな事になる。
                                                         もがみがわ
 「いかに速く動くよ、六月の雨は、寄せ集められて、最上川に」
                                              さどがしま
「大波は巻きつつ寄せる、そうして銀河は、佐渡島へ横切って延び
 
拡がる」
 
 このごろ、よんどころない必要から、リグヴェーダの中の一章句
 
と称するもののドイツ訳を、ちょうどこんな調子で邦語に翻訳しな
 
ければならなかった。
 
 そうして実ははなはだ、心もとない思いをしていた。
 
 今、右の俳句の英訳の再翻訳という一つの「実験」をやった結果
         こっけい
を見て、滑稽を感じると同時に、いくらか肩の軽くなるのを覚えた。
 
(昭和三年三月、渋柿)


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