寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
 あたりが静かになると妙な音が聞こえる。
                                ぜみ
  非常に調子の高い、ニイニイ蝉の声のような連続的な音が一つ、
           あぶらぜみ
それから、油蝉の声のような断続する音と、もう一つ、チッチッと
 
一秒に二回ぐらいずつ繰り返される鋭い音と、この三つの音が重な
 
り合って絶え間なく聞こえる。
 
 頸を左右にねじ向けても同じように聞こえ、耳をふさいでも同じ
 
ように聞こえる。
 
 これは「耳の中の声」である。
 
 平生は、この声に対して無感覚になっているが、どうかして、こ
 
れが聞こえだすと、開くまいと思うほど、かえって高く聞こえて来
 
る。
 
 この声は、何を私に物語っているのか、考えてもそれは永久にわ
 
かりそうもない。
 
 しかし、この声は私を不幸にする。
 
 もし、幾日も続けてこの声を問いていわら、私はおしまいには気
 
が狂ってしまうて、自分で自分の両耳をえぐり取ってしまいたくな
 
るかもしれない。
 
 しあわせなことには、わずらわしい生活の日課が、この悲運から
 
私を救い出してくれる。
 
 同じようなことが私の「心の中の声」についても言われるようで
 
ある。
 
(昭和四年九月、渋柿)


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