寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




                                  かいわい
 大震災の二日目に、火災がこの界隈までも及んで来る恐れがある
 
というので、ともかくも立ち退きの準備をしようとした。
 
 その時に、二匹の飼い猫を、だれがいかにして連れて行くかが問
 
題となった。
 
 このごろ、ウエルズの「空中戦争」を読んだら、陸地と縁の切れ
 
たナイアガラのゴートアイランドに、ただ一人生き残った男が、敵
                           つくろ                   に
軍の飛行機の破損したのを繕って、それで島を遁げ出す、その時に、
            う
島に迷って饑えていた一匹の猫を哀れがっていっしょに連れて行く
 
記事がある。
 
 その後に、また同じ著者の「放たれた世界」を読んでいると、
 
「原子爆弾」と称する恐るべさ利器によって、オランダの海をささ
 
える堤防が破壊され、国じゅう一面が海になる、その時、幸運にも
  そう
一艘の船に乗り込んで命を助かる男がいて、それがやはり居合わせ
                                                            ささい
た一匹の迷い猫を連れて行く、という一くだりが、ほんの些細な挿
 
話として点ぜられている。
 
 この二つの挿話から、私は猫というものに対するこの著者の感情
 
のすべてと、同時にまた、自然と人間に対するこの著者の情緒のす
 
べてを完全に知り尽くすことができるような気がした。
 
(昭和四年十一月、渋柿)


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