寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




       まつざかや
 上野松坂屋七階食堂の食卓に空席を捜しあてて腰を下ろした。
 
 向こう側に五、六歳の女の子、その右側に三十過ぎた母親、左側
 
には六十近いおばさんが陣取っている。
 
 純下町式の三つのジェネレーションを代表したような連中である。
                       おやこ
 老人は「幕の内」、母子はカツレツである。
 
 母親が給仕にソースを取ってくれと命ずると、おばあさんが意外
    びんしょう
にも敏捷に腕を延ばして、食卓のまん中にあったびんを取っておか
 
みさんの皿の前へ立てた。
 
 「ヤーイ、オバアちゃんのほうがよく知ってら。」
       せつな
 私が刹那に感じたと全く同じ事を、子供が元気よく言い放って、
 
ちょこなんと澄ましている。
 
 母親はかえってうれしそうに
 
 「ほんとう、ねええ。」
         あいづち
 そんな相槌を打って皿の中の整理に忙しい。
 
 おばあさんの顔と母親の顔とがよく似ているところから見ると、
 
これはおかみさんが子供をつれての買い物のついでに、里の母親を
 
誘って食堂をふれまうという場面らしい。
       しるこ                      ぞうに
 「お汁粉取りましょうか、お雑煮にしましょうか。」
 
 「もうたくさんです。」
 
 「でも、なんか……。」
 
 こんな対話が行なわれる。
 
 こんな平凡な光景でも、時として私の心に張りつめた堅い厚い氷
            きく    ゆ
の上に、一掬の温湯を注ぐような効果があるように思われる。
 
 それほどに一般科学者の生活というものが、人の心をひからびさ
 
せるものなのか、それともこれはただ自分だけの現象であるのか。
 
 こんなことを考えながら、あの快く広い窓のガラス越しに、うら
 
らかな好晴の日光を浴びた上野の森をながめたのであった。
 
(昭和五年一月、渋柿)


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