寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




     み け                      おとこねこ                      しろぶち
 「三毛」に交際を求めて来る男猫が数匹ある中に、額に白斑のあ
                                          ひょうかん
る黒猫で、からだの小さいくせに恐ろしく剽悍なのがいる。
                                                              めがたき
 これが、「三毛」の子で性質温良なる雄の「ボウヤ」を、女敵の
 
ようにつけねらつて迫害し、すでに二度も大けがをさせた。
              おの さだくろう
 なんとなく斧定九郎という感じのする猫である。
        ろ じ                                   すごみ
 夜の路次などで、この猫に出逢うと一種の凄味をさえ感じさせら
 
れる。
                            こうこうや
 これと反対に、すこぶる好々爺な白猫がやって来る。
                                                         こっけいみ
 大きな顔に不均整な黄斑が少しあるのが、なんとなく滑稽味を帯
 
びて見える。
 
 「ボウヤ」は、この「オジサン」が来ると、喜んでいっしょにつ
 
いてあるくのである。
                                                うち
 今年の立春の宵に、外から帰って来る途上、宅から二、三丁のあ
 
る家の軒にうずくまっている大さな白猫がある。
 
 よく見ると、それはまさしくわが親愛なる「オジサン」である。
                                   あ
 こつちの顔を見ると、少し口を開いて、声を出さずに鳴いて見せ
 
た。
 
 「ヤア、……やっこさん、ここらにいるんだね。」
 
 こっちでも声を出さずにそう言ってやった。
 
 そうして、ただなんとなくおかしいような、おもしろいような気
 
持ちになって、
 
ほど近いわが家へと急いだのであった。
 
    淡雪や通ひ路細き猫の恋
 
(昭和五年三月、渋柿)


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