寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
 桜の静かに散る夕、うちの二人の女の子が二重唱をうたっている。
 
 名高いイタリアの民謡である。遠い国にさすらいのイタリア人が、
 
この歌を開くときっと涙を流すという。
 
 今、わが家子供らの歌うこの民謡を聴いていると、ふた昔前のイ
 
タリアの度を思い出して、そうしてやはり何かしら淡い客愁のよう
 
なものを誘われるのである。
 
 ナポリの港町の夜景が心に浮かぶ。
 
   朧夜を流すギターやサンタ・ルチア
 
(昭和五年五月、渋柿)


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