寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




                                     ほうがくざ            ひとけ
 うすら寒い日の午後の小半日を、邦楽座の二階の、人気の少ない
 
客席に腰かけて、遠い異国のはなやかな歓楽の世界の幻を見た。
 
 そうして、つめたいから風に吹かれて、ふるえながらわが家に帰
 
った。
              ふ ろ
 食事をして風呂に入って、肩まで湯の中に浸って、そうして湯に
                                                                こつぜん
しめした手ぬぐいを顔に押し当てた瞬間に、つぶった眼の前に忽然
 
と昼間見た活動女優の大写しの顔が現われた、と思うととふっと消
 
えた。
                            ぼたん
   アメリカは人皆踊る牡丹かな
 
(昭和五年五月、渋柿)


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